3

 放課後、グラウンドからの掛け声や漏れ聞こえる管弦楽器。


 ここに訳も無く残っていると、なんだか世の中から取り残されたような焦燥に苛まれる。

 達悉はようやく解放された。

 とは言っても、下校は許されていない。

 母親を呼んで、二人で謝罪すること。それが被害者の提示した和解の条件だった。今は、忙しい彼女に連絡が取れるのを待っている所だ。

 せめてもの気分転換に、廊下をあてもなく歩く。

 彼の心中は陰鬱に沈殿していた。

 生ごみを放置したシンクみたいに、胸が詰まる程澱んでいる。

 心労の多い母に、これ以上の負担を掛ける。こんなに残酷な仕打ちは無い。

 不甲斐ない自分に嫌悪感を抱く。

 お前は、唯一の肉親すら満足に守れないのかと。

 報せを聞いて、衝撃を受ける顔が浮かぶ。突き立てられるような胸の痛み。

 彼を恨んでくれるならまだいい。

 最も恐ろしい可能性は、それで彼女が——


「でさあ…!聞いてよぉ」

 教室から話し声。

 まだ残っている生徒がいたのか。

 気まずさを感じ精一杯気配を殺してしまう。

 彼の猫殺しがもう知れ渡っている可能性もある。

 出来るだけ人に会いたくなかった。

 それに、この声。聞き覚えがあるような…。

「あいつ、ほんとにずっとキモいの。ウダウダ悩んで、ウジウジキョドってさあ」

 この教室から聞こえるこの手の陰口の対象は、大抵の場合達悉である。

 気が滅入るものの、立ち去る為に不用意に動いて物音を立てるのも得策ではない。

 その場で時間潰しがてら聞くことにした。

「ほんっとイライラした!あいついつになったら不登校になるんだろ?」

「まあそう言ってやるなよ。母子家庭ってやつだから、マザコン拗らせて色々我慢してるんだよ。そういう所が面白いんじゃねえか」

 もう一人の声を聞いて、危うく嘔吐えずきかけた。

 ナオだ。

 彼がそこに居る。

——最悪だ…!

 よりによって今一番会いたくない男が。

「益々キモいじゃん。生活保護とかで楽して生きてるタイプでしょ?うえー。もうやめていい?」

「駄目だ。お前が居るからあいつもギリギリ踏み止まれてる。ああいうのは壊れる寸前が一番美味しいんだよ。そこを攻めて攻めて、キープする。それがいいんじゃあねえか——」



——分かんねえか?



 その時達悉が二足歩行を保っていられたのは、奇跡と言って差し支えないだろう。


 足が載っていた床が崩れ落ちていくような、此岸の構成物が淵に脱落していくような、行き止まりの息詰まり。

 それが、秒もかからず彼の脳天から足先へと貫き通る。

 硫酸を頭から被ったみたいに、皮膚が焼き流され骨がズクズクと痛む。

 五感がすっかり欠落した真の暗闇というものを、彼は生まれて初めて味わった。

 

 なんで、

 その名前が、

 出て来る?


 覗いてみれば分かる。

 だが、もし考えた通りなら、彼の世界は終わる。

 終わってしまう。


「趣味悪いぃー。焦れったいから早くしよーよー。ナオくんそーゆーとこあるよねー」

 ああ、この声。

 いつもと声色が違い過ぎて、気付くのが遅れたが紛れもなく、

「お前だって似たようなもんだろ?周囲を惚れさせるの大好き女が」

「惚れてる君が言ってもなー?」

 苦難の末、漸く見つけたと思っていた。

 離れていても、同じ方向を見ていると。

 彼女は弱い自分と違って、優しさを強さに昇華したのだと。


 それこそが、いつか達悉がまともに生きれる証明なのだと。


「じゃあ頑張るからさー。ご褒美頂戴。んー」

「へいへい、お姫様」

 だが、違った。

 彼女は、ただ成長しただけだ。

 の弱さを捨て去っただけだ。


 涙と鼻水がで顔面がぐちゃぐちゃになって、それでまだ水分が残っていたのだと知る。

 枯れ果てたと思っていた精魂が、今度こそ干上がり尽きてしまう。

 どうやって、

 どうやって立てばいいのか、その方法も忘れてしまった。

 だけど今は遠くへ、出来るだけ遠くへ逃れなければ、

 心臓まで萎んで、使い物にならなくなってしまう。

——それは、厭だ。

 彼は、死にたくなかった。

 外から見れば変わりなく歩き、

 体感では這いつくばって、

 教室の前を後にする。

 何か、

 藁でいい。

 掴んでいる実感が欲しい。

 何か。


「名戯!大変だ!」

 担任が駆け寄って来る。

 表情は、怒りではなく焦り。

「お前の母さんが——」


 ああ、

 恐れていたことが、起こってしまった。

 

 達悉を恨んでくれるならまだいい。


 だが、それで彼女が自身を責めてしまったら?


 その攻撃性が、内側に向いてしまったら?


 重労働と出来の悪い息子を背負った苦労、

 それらで既にボロボロになった、

 彼女の止めになってしまったら。


 そう、

 こうなることは、分かっていたのだ。


 彼はその手で、


 母を地獄に落としてしまった。

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