65.知らなかったで済まないのが貴族

「オロスコ?」


 心当たりがある顔で、オスカル様が呟く。その姿に、男は縋った。太って丸い体を必死で動かし、近づこうと試みる。だが、騎士の拘束により阻まれた。


 こちらまで来れないことに、私は強張った肩から力を抜く。


「お許しください。私どもは騙されたのです。悪いのは偽の縁談を持ちかけたグラセス公爵家で……」


 街で絡んできたご令嬢の父親らしい。私が聞いた罰は、爵位をひとつ下げ、子爵から男爵に落とすものだった。


「オロスコ男爵、グラセス家に爵位はない。公爵でも伯爵でもなく、平民なのだから」


 貴族を名乗ることは許されない。大人しくしていれば、伯爵家として存続できた。それは皇族が見せた、かつての親族への最後の温情だった。少なくとも食べるに困らない程度の財産や領地は残そう、と。


 皇帝陛下は、末妹の子孫を根絶やしにする気はなかった。生きていける財を残し、誠実に過ごすなら社交で家を立て直せる地位を残す。その恩を仇で返したのは、グラセス家だった。


 淡々とした口調で、家族だった者の末路を語るオスカル様は、冷えた目をしていた。自分には関係ないと切り捨てながらも、滲んでしまう感情を押し殺すように。組んだ腕に少しだけ力を込める。驚いた顔をする彼に頷き、半歩だけ距離を詰めた。


「なっ! それすら知らなかったのですぞ! 私が悪いのではない。娘も騙されて……」


「それで済まないのが貴族だ。知らぬ? 夜会で公表されたばかりだぞ」


 ひいお祖父様の叱責に似た声が響く。騎士達は敬礼を送り、数人はオロスコ男爵を押さえつけているため頭を下げた。


「偽の縁談を摑まされたなど、貴族なら恥ずかしくて口に出来ぬわ」


 ひいお祖父様は容赦なく一喝した。貴族の縁談は家同士の繋がりを作るもの。相手の家の状況を調べるのは当然だった。財政状態や評判、もちろん縁組する人物の調査も手を抜けない。


 当たり前すぎる手順を省いたツケを払うことになったとして、それを吹聴して歩く者は貴族ではなかった。なぜなら、貴族とは家名と名誉を重んじる。体面を大切にするため、失態や恥を広める言動は慎むべきだった。


 詐欺師に騙されたとしても、「多少の金をくれてやった」と笑い飛ばすくらいの気概や豪傑さが好まれる。もし彼が本当に家の再興を願うとしたら、この方法は悪手なのだ。


「そ、そんなっ!」


「どうやら、お前は貴族には向いておらぬようだな」


 待っていた皇族席から降りたひいお祖父様は、穏やかな声で言い放った。これが全て。周囲の貴族は一斉に頭を下げた。この者は貴族にあらず――そう宣言したも同然で、集まった皆も反論はないと示したのだ。


 唖然とする男を引き摺った騎士が退場する。見送ったところで、ひいお祖父様はぱんと手を叩いた。


「音楽を鳴らせ、夜会を始めよう」


 慌てた楽団が演奏を始める。ワルツが掛かれば、何組かの夫婦がフロアに滑り出た。婚約者同士らしき若い男女も加わり、徐々に華やかになっていく。


「踊るのは後にしましょうか」


 オスカル様は微笑んで促し、エル達のこともあるので同意した。


「ええ、リリアナと最初に踊る約束をしたのよ」


「なんと! ではファーストダンスは譲りましょう。二番手に名乗りを上げても?」


「残念ですが、三番手ですわ。ひいお祖父様からも申し込みをいただいておりますの」


 ふふっと笑った私達は、皇族席へ戻るひいお祖父様の背中を見て歩き始めた。


「お逃げください!!」


「え、きゃっ!」


「なんだ、貴様……私を誰だと……ぐっ!」


「危ないっ!」


 騒がしいフロアを振り返った私の目に飛び込んだのは、真っ赤な血飛沫が舞う恐ろしい光景だった。

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