006 人類滅亡の兆しと、命のやり取り

 俺はもうすぐ、死ぬらしい。


 どこにいても、なにをしても、如何なる抵抗さえ、なんの意味もなさない絶対的な死。それが、訪れる。


 天気予報によれば、あと1時間もしないうちに巨大隕石が降ってきて地球上の生物がほぼ全滅する。そのくせ、綺麗な流星群が見えるなんてことは無く、相変わらず星々は雲と町の光に隠れてしまっていた。こんな日ぐらい、満天の星空を見せて欲しいものである。


 人類最期の日とはいえ、いちおう人の営みは続いているようで、電気も水道も通ったままだ。まぁ、人がいない山の中だから変わらないように見えるだけで、もしかしたら町では至る所で暴動が起こっているのかもしれないけれど。きっと今日という日にも変わらず仕事を続けている人間が少なからずいるのだろう。だから、社会のインフラは今日も変わらずいつも通りに動いている。ありがたい。


 怪しい三日月と人工衛星の不自然な光だけが、暗闇に染められた深夜を照らし、辺りは秋の夜らしい肌寒さに包まれている。枯葉に覆われた山の中は、歩くたびに乾いた音が鳴って、少しだけ気味が悪い。


「……寒いな」


 手が震えていた。寒さと怯えに。


 死んだらどこに行くのだろう、なんて疑問は小学生の時に解決した。きっと、死んだら無になるのだ。消えて、なくなって、眠りに近い永遠の無の中に放り込まれて、何も無い場所で何も考えずに何もせずに、その存在すらも無に帰して、意思は消える。


 無神論者までとはいかずとも、日本人の大半は皆、結局はそんな風に考えているのではないだろうか。複数の宗教が入り交じった寛容な宗教観を持っていることは確かだが、俺も彼らも、結局のところ何も信じていない。


 きっと、その他の宗教の信者たちは、天国やら地獄やら、輪廻転生やらと、いろんな死後の世界を夢想するのだろう。新興宗教の信者をやっている俺の母も、もしかしたら礼拝堂とやらで、教祖と一緒に不可思議なダンスを踊っているのかもしれない。でも、その信仰によって、死に対する恐怖を和らげる術を持っているのだから、こと現在においては最強である。


 俺なんて、怯えを抑えるだけでも、精一杯だ。


「……」


 でも、彼女はどうだろうか。


 南雲なぐもゆめ。高校1年生。12月20日生まれの15歳で、圧倒的に美しく可憐な少女。お金持ちのご令嬢だが、案外庶民的な一面を持つ。お金持ちの設定にありがちな、敬虔なナントカ教徒なんてこともなく、特に神は信じていないらしい。


 その違和感を、ようやく理解したのは随分と後になってから。


 俺は死ぬのが怖い。


 けれど、彼女は?


 南雲さんは、死ぬのが怖くないのだろうか。


 俺と違って、手が震えているわけじゃない。息も荒くないし、縋って抱き着くなんてこともしない。仲違なかたがいをしたとき、慰めたことはあるけれど、それは決して死に対する恐怖が彼女の心を揺るがしたのではなく、複雑な家庭事情を所以としたものである。


 つまりだ。


 俺は、彼女が死を恐れている場面を、まだ一度も見たことがなかった。


 もし、いつもの俺だったら「南雲さん、すげぇや」で終わる話かもしれないけれど、いざこうして死を寸前にしてみると、その異常性がはっきりと分かる。その手指さえ恐れを示さない彼女の意志には、何らかの歪さを感じざるを得なかった。


『私、あの人を殺せなかった』


 この言葉の真意も、未だ聞けぬままだ。


 謎は、深まるばかり。彼女が何を考えているのか、俺には知る由もない。ただ、彼女がある種の狂気的な衝動に駆られていることは言うまでもなく明らかなこと。


「はぁ……」


 ため息を、ひとつ。


 今日、何回ため息をついただろう。震えた息を吐いて、怯えと寒さを誤魔化すみたいに、俺は息を整える。


 どうであれ、結局数分後には死ぬ。それは確定事項だ。死の恐怖に怯えて忘れかけていた「やり残したこと」は、今済まさなければ、もうできない。


「南雲さん。君は、俺を傷つけられない」


 寝間着の襟を掴まれて、首筋にナイフを添えられている。前にも見た、似たような光景だ。少しでも動けば首にナイフが強く当たる。きっと、彼女は護身術みたいなものを習っていたのだろう。嘘みたいに力が入らなくて、何一つ抵抗できなかった。


 「約束」を果たして、彼女はシェルターを出た。俺と共に。俺は、彼女の手首を少し強引に掴んで、絶対に逃がさないように力を入れている。この神の気まぐれを、最期の最期になって、逃すわけにはいかないのだ。俺の最期は、最高の最期にしたい。それが、俺がやり残したことのなかで、最も重要度が高いものだ。


「いいから、帰って。今すぐ中に入って扉を閉めないと、痛い思いをすることになる」


 物騒な脅し文句を、俺は鼻で笑う代わりに口角を上げる。馬鹿にしてるわけじゃなくて、微笑ましいと思っているだけだ。


「それは、脅しにならないよ、南雲さん。どうせあと数分で死ぬんだからさ」


 すると、南雲さんは大きくため息をついた。そして、そのままの体制で口をむっとして、少し怒ったように言い聞かす。


「……いい子だから、帰って」


 少し前に出ると、ナイフが首筋に強く突き当たった。その鈍い切れ味のせいで皮膚が軽く押されるだけで、未だその肉は切り裂かれていない。それでも、あと少しで皮膚の皮一枚ぐらい切れそうなくらいは近づいたつもりだ。すると、南雲さんはナイフの力を緩める。その行動は彼女の言葉とは、まったく一致していない。


「南雲さんは、何を隠しているの」

「……」


 その問いに、答えが返って来ないことは、俺も知っていた。ただ、一応聞いてみただけだ。


「なんで、隠すの?」

「……」

「はぁ……」


 口は堅いらしい。きっと、彼女は何も答えてくれないのだろう。だから、俺は何も分からないままだ。


 ただ、一つだけ分かっていることがある。それは、彼女が何かをするために、どこかを目指しているわけではないということだ。彼女がシェルターを出て向かった方向は、市街地ではなく何もない森のほうだった。単なる方向音痴という線もあるが、それにしては端末で地図を見る様子もない。このシェルターのように森の下に巨大地下物件がある可能性はなくもないが、ここら一帯は祖父の土地なので、少なくとも徒歩なら30分以上歩かないと隣の土地に行くことは出来ないだろう。


 つまり、彼女の目的はこの場から離れること。目的地はどこか遠く、というわけだ。


「そんなに俺のこと嫌い?」

「……ああ、うん。きらい」

「そっか……」


 そのきょとんとした反応を見る限り、多分そんなに嫌われて無さそうだ。それじゃあなぜ、彼女はこの場を離れようとしているのか。


 何もない場所。一人。数分で出来て、人生の最期に相応しい。


「南雲さん、ちょっとごめん」


 俺は、彼女のスカートを捲った。不意打ちで。彼女は反応も出来ず、出たのは声じゃなくて乾いた息だけだ。彼女の手持ちは何もなく、服にも不自然な膨らみは見受けられない。それならば、何かを隠し持っているとしたならこの中ぐらいしか考えられなかったから。


 スカートの中には、当然パンツがある。ショーツとか、パンツとか、なんて言えばいいか分からないけど、とにかく下着があった。可愛らしいリボンのついた水色の高校生らしいやつだ。見覚えがあったので、恐らく今朝に無人コンビニで購入したものである。そして、視線を下げた先にある程よい肉付きの太ももには黒いベルトのようなものがついていた。それは、いわゆるホルスターというやつで、その隙間からは鋼色の輝きが覗けている。


 恐らくそれは、鉄塊。


 それも、ナイフじゃない、もっと入手困難な。


 拳銃というやつだ。


 なぜ、彼女がそんなものを持っているのか。そんなことは、最早どうでもいい。いや、どうでもよくないけど、この際べつに問題じゃない。


 考えてみろ。誰もいない森の中、人生最期の日に彼女は独り、ホルスターから拳銃を取り出して。


 何をするのか。


 何をするんだろうな。


「自殺……?」


 口に出した瞬間、納得感があった。


 ナイフだと自らを死に追いやるには辛すぎる。でも、拳銃だと脳天に一発打ち込めば、意識は落ちて即死するはずだ。だから、自分を自分で殺すには最適な凶器だろう。


 今、目の前にいる最愛の人は、自ら命を捨てようとしているのだ。恐らく、きっと、たぶん。いや、確実に。


 彼女は、自殺を望んでいる。


 ふと、顔を見上げると、南雲さんはジトッとした目で俺を見つめていた。らしくなく頬を染めて、口を噤んでいる。そういえば、俺はスカートを捲っていたのだ。だがその割に、彼女は抵抗するわけでもなく、されるがままだった。


「あ、いや……」

「……まだ?」

「ご、ごめん」


 俺はようやく、スカートから手を離した。水色の可愛らしいショーツと共に、物騒な鉄塊が隠れていく。そういえば、スカートの長さは出会った当初のものに戻っていて、高校生にしてはけっこう長めだった。きっと、出会った当初もこんな感じでスカートの中に物騒なモノを隠していたのだろう。


「でも……なんで」


 この期に及んで、南雲さんが自ら死を願う理由が分からない。だって、どうせ数十分後には、等しく無くなる命である。死の恐怖から逃れるため、というなら分からないでもないけれど、彼女にそんな素振りは一切なかったはずだ。


 もしかして、最初からその覚悟が決まっていたからこそ、迫りくる死に対する恐怖心が薄れていた、ということなのだろうか。


 分からない。


「なんでなの」

「……」


 彼女は、答えない。


 何も。


 その表情さえ、冷めたままだ。


「……一生のお願いだからさ、聞かせてよ」

「……」


 涙袋に、雫のようなものが溜まっていく感覚があった。


 俺は今何を思っているのだろう。悲しいんだろうか。それとも、辛いんだろうか。怖いんだろうか。いや、きっと色々全部がごっちゃになってるんだろうと思う。複雑に絡まった感情の琴線きんせんがレーザーカッターで切り刻まれるみたいに、感情がバグって、なんかもうよくわからない。


「俺は、俺はさ……」


 息を吸って、吐く。紳士的であろうという、せめてもの気遣いだ。


 人生の最期に、無粋なことを言うべきじゃない。全ては、自由であるべきだ。それは、自分の命さえも。彼女が自分の命をどう使おうが、俺は何か言う権利を持ち合わせていない。どうせ、最期なのだから、社会常識とか固定観念とか、そんなの振り払ってしかるべきだろう。少なくとも俺は、そう思っている。


 それでも俺は、彼女の死を認めることは出来なかった。


「……俺が死ぬまで、君に生きていてほしい。命が奪われるそのときまで、暖かいままの手を繋いでいたい。確かな鼓動を感じていたい」


 俺と彼女の望みは、矛盾している。つまり、どちらか一方しか叶えることはできないというわけだ。


「でも、もし君が……それを拒むなら」


 ならば俺は、君を尊重しない。


「この場で命を絶ったほうがマシだ」


 スカートの中のホルスターのボタンを開けて、中身の拳銃を取り出した。その銃口を南雲さんのほうへ向けないように心掛けながら、ゆっくりと近づけて。


「っ」

「離れて」


 その銃口を俺のこめかみに当てた。


 引き金に人差し指が触れている。きっと、今くしゃみをしたら、呆気ない形で俺の命はその一生を終えるのだろう。


 南雲さんも、刺激するのは良くないと考えたのか、俺の言葉に従って数歩あとずさりした。その表情は真剣で、小さな口は空いたまま、大きな瞳でタイミングをうかがうように俺の挙動を注視している。


 怖い。怖くて、堪らない。だが、不思議と涙は止まっていた。


 俺だって、死にたくはない。正直、死ぬ気にもなれない。でも、死は訪れるものだ。だから大丈夫だ、と、大丈夫なわけがないのに言い聞かせて、頭を回す。


 これは脅しだ。半分脅して、半分本気。


 きっと心優しい南雲さんなら折れてくれるだろうという楽観的な憶測に全ベットして、交渉決裂の際に訪れる死を無視してしまっている、馬鹿げた交渉だ。彼女が俺の命に価値を感じているのなら、俺と同様に彼女は俺の自殺を止めるだろう。


 ただ、もしそれが、彼女の「やり残したこと」に対する狂気的な衝動に負けるのなら。


 そのとき、俺がやるべきことは、引き金を引くことなのだろう。死の恐怖に屈せずに、合理的に考えるのなら、きっともうそんな世界に、俺の生きている意味はない。それならば、今ここでその悲劇を示すことで、彼女が自殺を考え直すほうがマシだ。


「どうして……」


 彼女は呟くように、俺に疑問を呈す。その声は、若干震えていて、動揺しているように聞こえた。


「言葉の通りだよ」


 大きく深呼吸をした。


「……私が死ぬのは、償いと報復のため。だから、君が死ぬ理由なんてない」


 すると、彼女は自ら語りだした。今までほとんど自分のことなんて語らなかったくせに、随分と潔い決断である。彼女にとって、俺の命にそれぐらいの価値は感じているのだろう。


「理由なんて、どうでもいいんだよ。ただ、俺は南雲さんが自殺した世界で、たった数分だったとしても、のうのうと生きるのが嫌なんだ」


 だが、彼女の言葉は俺に意味をなさない。だって、最早そんなことどうでもいいのだから。父親がどうとか、陰謀がどうとか、宇宙船がどうとか、もはやこの死を間際にした状況ではなんの意味もない。


「そもそも、誰が南雲さんの死を望んでいるっていうんだ。宇宙船に逃げ込んだお偉いさん?それとも、これから隕石で死ぬいろんな人たち?頼まれたの?そんなわけない。そんなわけないんだ。それは君が自分で課している精神的な重荷であって、結局誰も南雲さんの死を望んでなんかいない。報復だって、そうだ。別に、君が死んだところで、誰に対する報復にもならないんだよ。君はただ、自分で死ぬだけだ。俺は悲しむけどさ」

「……」

「でも、もし君がどうしてもそうしたいって言うのなら、俺は今すぐここで命を絶つことにする。なぜなら、俺はもうこれ以上悲しみたくないから。それに、どうせ数分で尽きる命なら、こんなの誤差だからさ」


 だから。


「今、決めてよ。南雲さん」


 この脅しに、彼女は屈するだろうか。


 瞼を閉じて、数秒。再び現れた彼女の綺麗な瞳は、携帯端末のLEDライトの反射光で宝石のように輝いていた。全ての造形が美しく繊細で綺麗で、顔の全てのパーツも、体つきも、バランスも、最高だ。


 けれど。


 その表情が、全てを物語っていた。


「……ごめん。私は」


 これが、最期の景色か。


 そんなことを思いながら、俺は瞳を閉じて震えた指を引き金に押し付けて。


 先走った衝動的な行動に、俺は身を任せることにした。


 ……


 ……





 意外と呆気なく死ねるもんなんだな、なんてことを思っていたけれど。その引き金の抵抗感を指先に感じているあたり、俺の意識は未だにあるらしい。


「……あれ?」


 おかしいな、とおもって瞼を開いて。こめかみに当てた銃口を離して、拳銃と見つめ合う。


 その瞬間、自分の腕が本来曲がる方向じゃないあり得ない向きに捻られて、関節に激痛が走った。気づけば、銃を持っていた右手が、彼女の手によって押さえつけられている。力んでいた指先が痛みによって徐々に剥がされて行って、拳銃が重力に従ってその場に落ちてしまった。すると、今度は重心を傾けられて、膝を曲げた拍子に組み伏せられる。気づけば、うつ伏せになった俺の上には彼女が跨っており、腕の関節を極められた状態で何の抵抗もできないように拘束されていた。


「……いっ」


 無意識に痛みを声で訴えると、その拘束は少しだけ緩んだ気がした。


「……ずるい」


 その時点で、俺は気づいた。彼女は最初から知っていたのだ。あの引き金を引いたところで、銃弾は出ないということを。というか、あの引っ掛かりのようなものは、恐らく安全装置のようなもので、何かしらの手順を踏まないと弾が出ない仕組みになっているのだろう。


 俺の命がけの交渉は、彼女からしたら茶番でしかなかったのだ。


「つっ……はぁ……はぁ……はぁ……」


 背後から荒い息音が聞こえてくる。


「この……ばか。なんで……なんで引いたの」


 でも、俺が自ら死を選んだことは、どうやら彼女にも伝わったらしい。


「……別に、もう死んでもいいと思ったんだ。それに、俺が自殺して見せたら、君が怖くなって自殺しないことを選ぶかもしれない」

「私のことなんて、どうでもいい」

「俺がどうでも良くないから、こんなクソみたいなことになってるっていうのが、まだ分からないの?南雲さん」

「……私は、君のものじゃない」

「俺は我儘なんだ」


 サイレンが、聴こえた。


 それは、聞いたこともない奇妙なサイレンだったけど、その不快な不協和音からして、きっと最悪の危機を伝えるためのものなのだろうということは理解できた。時間的にそろそろだと思っていたけれど、どうやら本当にその時が訪れる直前まできてしまったらしい。


 背筋が震えて、嫌な汗が出た。


 そんなとき、なぜだろうか背中に跨った南雲さんはその体制を横に倒して、俺の上にうつ伏せになって寝転がるように体制を変えた。その程よいサイズ感の胸が背中に当たっていて、少し荒い息が耳元をくすぐっている。


 そして、彼女は俺の耳元で囁いた。


「君と違ってさ……私の体は、今から死ぬ大勢の人々の血肉でできてるの」


 その言葉は、いつもの彼女の言い回しとは似つかない、どこかグロテスクで醜悪な言い回しだ。


「なにいって……」


 意味が分からなくて、俺は一瞬思考停止に陥った。そんな俺に、彼女は囁き続ける。


「あのとき、私が寝ているあいつの頸動脈にこのナイフを突き刺せていれば、この惨劇は起きなかった。でも、私が。私の心が弱かったせいでさ。もう、手遅れになっちゃった。だから、これは私の責任。責任は果たさないといけない」


 南雲さんのおでこが、首筋に当てられている。背筋に吹き込まれる彼女の息は暖かいはずなのに、妙に冷たく感じた。


「だから、私は罪を償うことにした。……っていうのも、きっと誤魔化しなんだと思う。きっとさ、それ以上に私は見たくないんだ」


 そして、俺の体に体を預けながら、彼女は震えた声で懺悔する。


「私のせいで、目の前の人が溶けていく光景を」


 何を言っているのか、本当に分からない。でも、その声色には、どこか強い信念を感じさせた。きっと、彼女は本気なのだ。


 南雲さんはゆっくりと立ち上がった。体が自由になったので、地面から体を起こして立ち上がろうとすると、南雲さんは手を差し伸べてきた。混乱した頭で、何の疑いもなしにその手をとったが、まずかっただろうか。そんなことを思いながら、俺は彼女の手にあまり力をかけないようにしながら、乾いた秋の山道から腰を上げる。


 彼女の手は、いつもあたたかい。


 こんな死の間際にも関わらず、にやけてしまいそうになるくらい心地が良かった。


「……私の言った意味、分かってる?」


 そんなことを思っていると、彼女はすこしむっとした声色で俺に訊いてきた。だが、そんな彼女に俺は返事をすることなく、彼女の体を抱いた。生地の硬い制服のブレザーの下にある柔らかな感触は、今日一日でもう何度も堪能したものだけど、やっぱり今でも魅力的だ。その暖かさも、ほのかな甘い香りも、いつもより少し早い鼓動も、全部が素晴らしい。


「どうでもいいよ」


 俺は彼女に縋っていた。隠していた怯えが表面に出始めて、震えが止まらなくなってきて、どうしようもなく恐ろしい。死の気配が目前まで迫っていることを知らせているサイレンは延々と鳴り響いて頭の中から離れずに、脳の中で反芻されて響き渡っている。そこから連想するものは、悲観的な情景しかなくて。考えれば考えるほど、その恐怖は増していく。


 それだったら。南雲さんへの恋心に溺れているほうが、まだマシだ。


「……そういえば、南雲さんは恋できたの?」


 話を逸らすように、俺はひとつ気になっていたことを聞いてみることにした。すると、彼女はなぜだろうか、思っていたのとは違って体をピクリと反応させて、まるで動揺したみたいな態度をとった。


「……してない」


 その声はいつもの平然とした感じではなくて、声もいつもより小さい。まるで、思春期の少年が好きな子の話をされて照れているときの反応みたいで、なんだか可愛いかった。


「……?」


 そんな反応を見ていたら、少し前のことを思い出した。それは、シェルターから出る直前での出来事。彼女は狸寝入りをしている俺に、キスをしていった。今までの彼女は、キスに対してあんまり何も感じていない様子だったのに、いったいなぜ最後に俺の唇を奪っていったのだろうか。


「……離れて。時間、ないから。もうそろそろ、さよならしなきゃ」


 そんなことを考えていると、南雲さんは華奢な腕で胸板を押して、俺から離れようとしていた。こういったイチャイチャに対して抵抗を見せたのは、これが初めてのことだ。やっぱり、あのキスも気まぐれに過ぎなかったんだろうか。


 だが、そう考えると、なんだか最期に南雲さんの色んなことを奪っていないことが、名残惜しくなってきた。軽いキスはしたけれど、舌を入れるような濃厚なやつはしたことがないし、それ以上のことについてもまだ一つも手を出していない。彼女はまだ、純潔のままだ。


 やわい抵抗を続ける彼女を腕の中につかまえたまま、そんな思いにふけることは失礼な気がしたけれど、もうこの際気にすることでもないだろう。ぐりぐりと胸板を押して離れようとしているが、その力はやはり男女差を感じさせるもので、俺と比べて明らかに弱い。徐々に力強くなってきたとはいえ、正直負ける気がしなかった。


 ……案外、強引な手段を講じるのも、悪くないのだろうか。


 彼女の意向を全部無視して、自分の好きなようにやる。それは、自分のやり残したことをやるというただ一点においては、とても合理的でシンプルで確実な解決方法である。


「……」


 だが、それは俺の望むところではなかった。そんなことをしたら、きっと人生の最期は自己嫌悪に苛まれて散々な目に遭うだろう。


 俺が抱擁を止めると、南雲さんはほっと息をついて腕の力を緩めた。


「……南雲さんはこれから、するの?」


 沈んだトーンで、俺は彼女に訊いた。


「……ん」


 彼女は声を上げるだけだったけれど、それは肯定なのだろう。手を上げて、下げて。指を意味もなくわしわしと動かして、自分の無力さを嘆く。脅すための小道具は、もうそこにはなく、きっとホルスターの中にあるのだろう。警戒されてしまっているいまは、スカートを捲って取り出すことも難しい。


「……最期に君に会えてよかった」


 ふと、逸らした視線を、無理やり動かされた。いつの間にか、彼女の瑞々しい唇が寸前にまで迫っていて、気づいた瞬間には既に奪われた後だった。いつも通りの、唇と唇を合わせるだけの軽いキスだ。


「じゃあね」


 何も言えなかった。言ったところで、きっと彼女の心にはもう届かないから。俺はただ、地面の一点を見つめて彼女の足音が離れていくのを、呆然と立ち尽くしたまま感じていた。


 きっと、無理やり止めることだってできる。でも、それを彼女が望むかというと無論、否である。言葉の上での説得は、もう何度耳が腐るほどしたつもりだ。自分の命を天秤にかけた自殺未遂までして、俺は彼女を否定した。だが、彼女は意思を曲げなかった。それならば。


 彼女を止めるべきではない?


「……」


 数歩進んだところで、彼女の歩みは止まった。俺に背中を向けたまま、少し俯いて両手で顔をこすっている。それが何を示しているのかは、一目瞭然だった。


 世界の死を告げるサイレンが、馬鹿みたいに五月蠅い。隕石の姿は未だ目視できぬまま、その音だけが現状の異常性を知らせていた。秋の肌寒い夜の空気は、乾いていて容赦がない。涙の後に刺すような冷たい風が吹き込むと、鼓動の高まりとともに熱くなった頬が急に冷えた。


 あと、何分だろうか。


「……」

「……」


 彼女は、しゃがみこんだ。鼻をすする音が聞こえる。


 数秒が経つと、それも落ち着いて、徐々に涙を拭く回数も減ってきた。


 そして。


 スカートの中のホルスターから拳銃を取り出した彼女は。


「え」


 もう一度、それをしまった。


 そして、踵を返して俺の方へと早歩きで寄ってくる。


「な、なんかあっ」


 顔も合わせぬまま、彼女は俺の手首を掴んでシェルターへと歩いていく。


「っ、なに」


 そして、そのまま階段を下って。俺の顔を認証して自動的に開いた鉄扉の中へと俺を押し込んだ。


「……」


 今度は、俺が彼女の手首を掴んで、無理やり俺の方へと引き込んだ。すると彼女は、数秒の小さな抵抗のあと、力を失ったようについてきた。


「……」

「……」


 モーターの駆動音とともに重厚な鉄扉が閉まると、南雲さんは大きなため息をついて、土のついた俺のTシャツに顔を擦り付けるみたいにして、抱き着いてきた。すると、涙がだんだんと浸透してきて、冷たくなってくる。


 地下の世界には、警報音はない。静寂を保った室内は、換気扇の微かな風音だけが聞こえていた。点いていたはずのプラネタリウムは自動的に消灯され、その機能を失っている。部屋を照らすのは、互いに手に持っている端末のライトだけだ。


 俺は彼女を抱いたまま、ゆっくりと腰を下ろした。そして、靴を履いたまま床に寝転がる。硬いフローリングは冷たかったけれど、腕の中のぬくもりはそれが気にならないほどの心地よさを与えてくれていた。


 そんなとき。


 地下シェルターにさえ聞こえるような強烈な爆裂音が、鼓膜を直接揺らすみたいに鳴り響いた。それは空気を揺らし、地面をも揺らす。大震災並みの揺れは割と小刻みなもので、最期の眠りを誘うゆりかごにしては少し強引な揺らし方だ。


 とにかく。


 これが最期ということなのだろう。


 俺は、瞳を閉じた。


「ありがとう」


 そんな一言を、遺して。


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