005 偽の天球を愛し、星屑を憎む

 思春期の男子から見れば、恋愛映画は2つに大別される。それは、ベッドシーンがあるかないかだ。南雲さんと手を繋いだまま肩を並べて、二人きりの部屋で恋愛映画を見る。こんな状況での正解は、無論「ない」方を選ぶことだろう。


 だが、なんとも気まずいことに、どうやら我々が選んだ映画は「あるほう」のやつだったらしい。物語が中盤に差し掛かってくると、主人公のOLさんが後輩君に襲われて、なにやら大変なことになっていた。まぁ、一応恋愛が主体の映画なので、ダイレクトに表現されているところが映っているわけじゃないのだけれど、ベッドの上で裸になってギシギシ音を立てている描写を見れば、何を表現したいのかは一目瞭然だ。


 ちらりと横目で南雲さんの方を見てみると、恥じらうでもなく平然とその様子を眺めていた。そんな視線に気づいたのか、彼女は俺の方へとその大きな瞳を向けてくる。そして、映画を気にしてか、耳元で囁くように訊いてきた。


「ああいうこと、するの?」


 俺は顔を逸らして、少し動揺しながら言葉を返す。


「……ま、まだ。分からない」


「したい?」


 核心を突くようなその問いに、頬の熱さが増していく。そんな鼓動の高鳴りは、繋いだ手を経由して、きっと彼女にも伝わっているのだろう。


「……まぁ、その……我慢できなくなったら、するかもしれない、ですね」


 俺が曖昧な答えを返すと、彼女はディスプレイの方へと視線を写した。


「そっか」


 呟くような彼女の言葉に、どのような意図が含まれているのかは分からないが、その手は依然として繋がれたままなので、きっとまた怒らせてしまったわけではないのだろう。ほっと一息ついて、悶々とした感情から意識を逸らすように、俺も画面の中に再び視線を集中させた。


 それから、作り物のシナリオに沿って時間は刻々と過ぎていき、ラストシーンは主人公とヒロインのキスで終わった。いわゆる、ハッピーエンドというやつだ。最期のまとめ方に、多少ご都合主義を感じないでもなかったけれど、全体的には面白い映画だったように思う。特にOLさんのコメディじみた謀略には、俺も思わずクスリと笑った。


「どうだった?」

「……」


 感想を聞いたつもりだったのだが、南雲さんは顎に手を当てて何やら考え込んでいる様子だ。気に食わない点でもあったのだろうか。何度も小さく首を傾げながら思考を巡らせる様子は、なんだか小動物のようで可愛らしかった。まぁ、南雲さんは何もしてなくても存在してるだけで可愛いし美しいのだけれど。


 思案に気が済んだのか、彼女は顎から手を放して顔を上げた。すると、俺の方を向いてその小さな口を動かして訊いてきた。


「恋に落ちたって、なんでなるの?」


 大人びた南雲さんが問いかける質問は、その容姿とは見合わない子供みたいに純粋なもので、俺は思わず口角を上げてニヤニヤしてしまう。そんな言うことを聞かない口を、何とか無理やり理性で抑えながら、俺は考えるフリをした。


 恋愛映画というのは、恋心が育まれていく描写がメインコンテンツとしてあるわけだが、あるタイミングで恋を自覚するというのが典型的なパターンだ。それは、告白する前に自覚することもあれば、なあなあで付き合った後に「あれ?私コイツのこと好きなんじゃね」となることもある。だが、とにかく、何らかの形で自覚するのである。


 でも、おかしな話だ。人は誰しも最初から恋を知っているわけじゃないのに、なぜそれが恋だと断定できるのか。知らないことを決めつけられるほどの自信は、一体どこから湧き出てくるのか。彼女が知りたいのは、きっとそういうことだ。


 でも、残念なことに。その答えは、恋に落ちたことのある俺ですら未だ持ち合わせていないものだ。


「分かんないな。……自分が落ちたって思ったら、落ちてた」


「分からないのに?」


「うん」


 分からないのに、明確な自信をもって言える。不思議な話だ。普通なら、人はそれを思い込みと呼ぶけれど。これには恋という別の名前がついている。そのくせ、恋の形は人それぞれなんて言うのだから、きっと恋という概念は随分とあやふやなものなのだろう。


 俺はとっくの昔に恋に落ちていたけれど、別に今日が最期の日じゃなかったなら、告白なんてしなかった。でも、実際にこうして二人きりの時間を過ごすと、やはり俺は彼女のことが好きだったんだなと自覚する。


 この恋愛感情は、決して思い込みなんかじゃない。それだけは確かだ。


 ふと、時計を見る。時刻は、15時を回っていた。


******


15時30分。無難にトランプをやった。2人で出来るのはババ抜きと神経衰弱ぐらいだったけれど、案外駆け引きが盛り上がって楽しかった。殆ど南雲さんの圧勝で、色々と才能の違いを思い知らされたが、楽しかったので満足だ。


16時20分。テレビゲームをした。対戦格闘系ではなく、2人で協力してステージをクリアするタイプのゲームだ。3ステージクリアした辺りで、めちゃくちゃ時間がかかることに気付いて止めた。


17時。彼氏彼女の定番ともいえる「プリクラ」を人生で一度も撮ったことがないと気づき、写真撮影会をした。といっても被写体は主に南雲さんなのだが。南雲さんは俺の指示に従って色んなポーズをしてくれて、一生大切にしようと思える写真が数十枚手に入った。まぁ、俺の一生は残りもう短いのだけれど。最高の一枚は、端末の背景に設定しておいた。


17時30分。暇だったが、特に何もやる気がしなくて、二人でソファーに座ってダラダラしていた。


17時40分。せっせっせーのよいよいよい、で遊んだ。


17時45分。ローカルルールのじゃんけんをした。


17時50分。そこら辺のひもで、軽いマジックを披露した。


17時53分。17時55分。56分。57分。58分。59分。10秒。20秒。30秒。40秒。50秒。55秒。56,57,58,59。


18時00分。


******


「君、泣いてるの?」


 食事の支度をし終えると、時刻は18時12分40秒だった。


「あ、れ?」


 時計を見る度に、気持ちが辛くなるようになったのはいつからだろうか。南雲さんに指摘されるまで気付かなかったけれど、俺はいつの間にか涙を流していたらしい。水気が蒸発して気化熱で冷たくなった頬を軽く指先で拭って笑顔をつくった。


 この食事は、いわゆる最後の晩餐だ。それにしてはしょぼいけれど、コンビニにしては頑張ったほうだろう。揚げ物系全種に、巻き寿司。デザートにはケーキまで用意されている。


「いただきます」


 俺が食べ始めると、南雲さんは少し間を置いたあと「いただきます」と言って、箸を動かし始めた。


 普段の電子レンジとは違い、オーブンで温めた揚げ物類は、サクサク感があって美味しく仕上がっている。その他のやつも、普段とは違って多少高いものを買ったので、それなりに美味しい。


 はずだ。


 でも、なぜだろうか。口の中が苦くて、食べた物の味がしない。残っているのは食感だけで、口が裂けても美味しいとは思えなかった。


 唯一の救いは、少し悲し気な南雲さんが、揚げ物を食べる度に少し口角を上げて喜んでいることぐらいだろう。


 18時41分33秒。食べ終わったので、片付けを始めた。食べ終えた食器類をまとめてキッチンへ向かい、ついでにその足で大きな湯船にお湯を張った。


 残った食器を取りに、再びリビングに戻ろうと足を進めて。進めて。


「……」


 進む気に、なれない。


「……どうかした?」


 廊下で立ち尽くしていると、南雲さんが机に残った食器をすべて持って、運んできてくれた。そんなことに、何故だか異常なほどの安心感を覚えて、リビングルームへの道から踵を返す。


「ありがとう、南雲さん。持つよ」


 南雲さんから食器を取り上げて食洗器に入れこみ、ふたを閉めてスイッチを入れた。あとは、このまま放置すれば勝手に洗ってくれるだろう。まぁ、もう最期なので、きっと洗ったところで二度と使わないのだろうけれど。


「……すぅ……はぁ」


 自分の異常性を自覚しているだけ、きっとまだマシなのだろう。そう、思っている。


 ぐっすりと。ぐっすりと眠りにつける。


 考える。


 考えるな。


 それでも、考える。考えてしまうのだ。


 死へのカウントダウンが刻々と進んでいくごとに、その感情の振れ幅は大きくなっていく。時間と共に、心の余裕は奪われていった。


 強がって、安心した気になって。満足できる、ぐっすりと眠りにつく。


 そう思い込んでいた。


 眠れる。最高の人生を。やり残したことをやる。告白。恋の探求。


 それは全部、恐怖から逃れるための行為でしかなかったのかもしれない。


 時間経過とともに募っていく焦燥に呆れのような感情を抱いているのは、きっとこの悲劇が避けられない絶対的なものだからなのだろう。もし物語であれば、正義のヒーローが現れて隕石を吹き飛ばしてくれるかもしれない。もしくは、世界の最期に人々は団結し、最悪の終わりを食い止めるために劇的な進化を遂げる。そんな、ハッピーエンドが待ち受けているはずだ。


 でも、これはそうじゃない。奇跡は奇跡たりうる極小の確率で生まれるものであって、決して必然ではないのだ。それをみんな、分かっている。


 鼓動と共に進んでいく時間に、恐れを感じている。デジタル時計の秒表示が、刻々と切り替わっていくことに、嫌気がさす。けれど、もうそんなの、どうしようもないことも分かっていて。


 ただ、彼女との夢のような最高の時間に、意識を向けていた。


 向けていたい。


 その、はずなのに。


 どうしても意識は、現実に引き戻される。刻々と増加の一途を辿る死に対する本能的な恐怖が、逃げることを許してくれないのだ。それを緩和してくれるのは己のちっぽけな理性と、この右手に感じる彼女の柔らかいてのひらの感触。彼女に弱いところを見せたくないという、馬鹿みたいな意地で何とか正気を保っている。


「……」


 そんな状態を、きっと南雲さんはもう勘づいているのだろう。俺の手の震えは、もうとっくに知られてしまっている。


 下がっていた目線を、勇気を出して元に戻すと、南雲さんはなぜか微笑みを返してくれた。その表情は天使のように可愛らしくて綺麗だ。いくら気分が落ち込んでるとはいえ、やはりこの素晴らしさには勝てないというか、強制的に恋心を引き戻される。それくらい、かわいかった。


 そして、南雲さんはその優し気な微笑みを浮かべたまま、俺にひとつ提案をした。


「お風呂、一緒に入ろう」


「うん……うん?」


 ノータイムで肯定したあと、その衝撃的な言葉を理解した。俺は唖然として、一瞬だけ嬉しさと恥ずかしさに頭の中がぐちゃぐちゃにかき回されたみたいに思考停止に陥った。そんな俺に、南雲さんは作り物の微笑みを消して、少し冷めた顔で呟くように言った。


「ほっといたら君、なにするか分からないし」


 その言葉から察するに、きっと純粋に心配してくれているのだろう。まぁでも、たしかにそう言いたくなるくらい、今の俺はおかしいという自覚がある。明らかに挙動不審だし、指が震えてるし、ため息ばかりだ。


「……ごめん」


 でも、彼女が俺の状態を認識しているという事実に、少しだけ心が和らいだ気がした。


『お風呂が、湧きました』


 すると、タイミングよく準備完了を伝える電子音声が鳴った。


「いこ?」


 南雲さんはすこし強引に俺の手を引いた。


「ちょ、ちょっとまって、ほんとに入るの」


 今までにない強硬的な態度に若干の戸惑いを感じながら、俺は彼女に連れ去られていく。まぁ、行き先は楽園なので沈んだ心が浮き上がってくる程度には気分は上がっているけれど、それと同時に気を遣わせてしまっている申し訳なさのようなものも感じている。そんな感情が入り交じって、出た言葉は否定でも肯定でもなく、事実確認だった。


 その問いに対して、彼女は振り返って頷いた。端的な肯定だ。切り揃えられた黒髪を揺らして、何とも清純な少女に見えるが、やっていることは言うなればハレンチというやつで、決して清楚とは言えないだろう。まぁ、彼女がそれを望んでいるというより、どちらかというと俺のことが心配でやらざるを得ないといったところなのだろうけれど。


 秘密基地のお風呂は、いわゆるジャグジーというやつで、高校生2人が入ってもかなり余裕があるほどに広い。これは、聞くところによると、じいちゃんの拘りらしい。地下のくせに豪華な大理石の床に上から雨のように水滴が零れ落ちていく特殊なシャワー、少し高そうな石鹸類など、その設備は適当なホテルよりは余程クオリティが高かった。


 秘密基地が出来たばかりの頃は、この豪華さに感動して何度も60を超えたジジイと二人で泡風呂を楽しんだものだ。


 だが、思い返せば南雲さんも、お金持ちの父親に育てられたはずだ。それに、俺と違って亡き父のツテで知り合ったじいちゃんにおこぼれを貰っているようなエセお坊ちゃまではなく、大富豪の実嬢である。その関係が最悪だったにせよ、豪華なものには慣れているのだろう。地面から分厚い鉄壁がせりあがって来たときと比べると、南雲さんの反応は薄かった。


「……あっち向いてて」


 すると、南雲さんは少しだけ顔を赤く染めて、俺に向かってそう言った。初めて見せた彼女の恥じらいの表情に、唖然としながら見とれていると、南雲さんは小さくため息をついた。そして、ジト目で抗議するように俺の瞳を覗いた後、ぷいと顔をそむけて、ゆっくりとブレザーを脱ぎ始めた。


「ご、ごめっ」


 俺は慌てて背中を向けたが、視線の先にある鏡のせいで、脱ぎ掛けの色々が見えてしまう。だから、瞼をギュっと閉じて、耐えるしかなかった。背後で響く布擦れの音は、視界を封じているせいかより鮮明に聞こえている気がする。


 1分ほど経っただろうか。それとも、鼓動が早まっているせいで時間がゆっくり流れているように感じているだけだろうか。肩を軽くたたかれた。


 振り返ると、南雲さんはバスタオルをその華奢なモデル体型に巻き付けていた。それはつまり、それ以外の全てを取り払っているということでもある。タオルからはみ出た柔肌は絹のように艶やかでもっちりとしていた。大きいというわけでもないが、かといって小さいというほどでもない胸の膨らみ。四肢はきゅっと引き締められていて、健康的な肉感があった。


「着替えていいよ。私、目閉じてるから」


 南雲さんは、すこし顔を赤らめながら、平然とした声色でそう言った。さすがに、ここまで来て逃げ出すわけにもいかず、俺もゆっくりと制服のボタンに手を伸ばした。


 それから、二人でバスタオルだけを身に纏って、シャワーを軽く浴びた。すこし辛気臭い顔をしていたら「洗って」と言われて、南雲さんの髪を洗うことになった。ついでに俺の髪も洗ってもらった。


 南雲さんに手を引かれて浴槽へと入ると、お湯の熱さが肌から骨髄に染み渡るみたいに伝わってきた。右肩には彼女の肌が触れていて、その感触はもちもちのすべすべで最高だ。そんな、極楽の湯船にしばらく身を任せた。体の震えは、浴槽の中だとそこまで出なかった。しりとりをしたり、水鉄砲を教えてかけあったり、ちょっと遊んだ。


 おかげで、元気が補充されたというか、少しだけ気分がマシになった。恐怖で混乱していた頭が整理されて、少なくともパニック状態からは抜け出すことができたようだ。沈んでいる気持ちは、未だ底の見えぬ絶望の海の底へと落ちているけれど、恐怖に溺れてはいない。


「……よし」


 湯船から出た後、俺は南雲さんの髪をドライヤーで乾かしていた。しっとりした艶のある黒髪が長い時間をかけてサラサラに変わっていく様子は、ちょっぴり新鮮で楽しい。というか、南雲さんの髪を触ってるだけでも、俺は楽しいけど。


 でも、男のせいぜい数分程度かからないそれとは違い、それは随分と手間のかかる作業だ。きっと、毎日やっていたら嫌になるのだろう。俺が「手伝おうか」と言ったときに、どこか感心したように口を開いた南雲さんの気持ちが、今は少しだけ分かった気がした。


「どうかな?」


 そう訊くと、南雲さんは自分の髪を少し触った。その服装は、ピシッとした制服からパジャマへと変わっていて、そのキャミソールとショートパンツの組み合わせは男心にグッとくる露出度と共に、もこもこした可愛さを兼ね備えた素晴らしいものだった。まぁ、来ているのが南雲さんなので、きっと何を着ていても俺は褒めてしまうのだろう。


 乾き具合を確認すると、彼女は小さく頷いた。


「ありがと」


「こちらこそ」


 ドライヤーのコードを束ねて、棚へとしまい込んだ。そして、計4枚のバスタオルを洗濯機に入れこんでおく。浴槽の自動洗浄をオンにすると、もうこの場でやるべきことはなくなった。


 なくなったのだが。


「……南雲さん、手押し相撲しようか」


 俺はまだここにいたかった。というか、どちらかというと戻りたくないのだろう。あのデジタル時計のあるリビングに。あの時刻表示を見たら、俺の人生があと数時間しか残されていないことが、分かってしまうから。


「ここで?」


 南雲さんは首を傾げた。だが、俺が体制を整えると、彼女も乗り気になったのか、正面で構えを取る。肩幅に立って両手を広げて肩のあたりに添える、よくある構えだ。


「っ」


 先に仕掛けたのは俺だ。軽く弾く程度の強さで、まずは様子見である。その攻撃を、彼女は軽く手で受け、まずはハイタッチのような形になった。その攻防は、徐々に重みを増していき、最終的に互いに力を入れてにらみ合うような形になった。


 だが、こうなると単純な力勝負になるわけで、当然男の俺の方に分があるはず。ゆっくりと、力を強めていくと、彼女は徐々にその重心を後ろに逸らしていく。そして、勝利への道が開けたそのとき。


 不意に手の力が抜けていた。いや違う、力を抜いたのは彼女の方だ。あるはずの抵抗がなくなった結果、俺の力は俺自身へとのしかかり、みるみるうちに前の方へとバランスが崩れていく。足首、膝、手、腕、肩に至るまで、その全身を後ろに下げて重心を戻そうとしたものの、それはもう遅かった。


 前に行き過ぎた重心は、みるみるうちに崩れていき、俺の体は前へ前へと倒れていく。そして、最終的に着地したのは南雲さんの胸の中。柔らかい双丘の中に、顔を埋めていた。つまり、俺の勝ちということだ。


 試合ゲームにまけて、勝負に勝った。キャミソール一枚越しの、この感触を味わえただけでも、完全勝利といっていいだろう。


「ざんねん」


 南雲さんは勝ち誇っているつもりなのか俺の頭に手を置いているが、それで勝負に勝つのは俺の方であることは、言うまでもなく明らかだった。


 それから、もう3回ぐらい腕相撲をやった。結構本気でやったつもりだったのだが、結果は全敗。でも、うち2回はまたラッキースケベにありつけたので、結局俺の勝ちみたいなものだった。


「……あ」


 ふと、南雲さんに手を引かれた。連れられるように歩き出してすぐ、脱衣所の扉を越えていた。それから、もう一つ部屋の扉を抜けて、廊下に出る。


 すると、南雲さんはこちらを振り返って、俺の顔色を観察するように数秒見つめてきた。


「……こわい?」


 彼女には、全て見透かされていたらしい。俺が頷くと、その答えとは反して彼女は小さな力で俺の手を引いた。それは、抵抗しようと思えば簡単に振り払うことのできる力で、決して強引というわけじゃない。彼女も、それを意識してやっているのだろう。


 俺は、彼女のそんな小さな力に抵抗できずに、リビングルームへと足を進めていた。


 刻々と動き続けるデジタル時計が示す時刻は21時28分55秒。


 俺が死ぬまで、あと3時間だ。


 現実味が出てきた死へのカウントダウンに、嫌気がさした。


 南雲さんが腰を下ろしたのは、いつものソファーだ。俺も彼女と肩を並べて、腰掛ける。すぐ正面では壁掛けのデジタル時計がその秒表記を刻々と動かしていた。


「……もし、神様を信じてたら、死ぬのは怖くないのかな」


 ふと、そんなことを思った。


 南雲さんの小さな手指が絡まって、風呂あがりの暖かい体温が伝わってくる。その心地よさに縋るように、俺は意識を向けていた。


「分からない。私も、信じてないから」


 それは朗報だ。もし、信じていたら、俺は何と言えばいいか分からなかったから。


「俺は今、初めて母親が羨ましいと思ってる。新興宗教に嵌っちゃってたんだけどさ。あれだけの狂信者だったら、きっと死んだらナントカカントカ様が救ってくれるって、本気で思ってるんだろうから」


 南雲さんの返答はなく、ただ俺に身を寄せるだけだった。


******


 22時00分00秒。何をしようかと考えていたその頃、この家にアレがあることを思いだした。


「……やるか」


 ソファーを立ち上がり、クローゼットの中を漁ってみる。すると、開いてすぐのところに機材がまとめられていた。コード類を繋いでスイッチを押すと、無事にランプが点灯したので、どうやらまだ使えるようだ。


「なにそれ?」


 それは球体の重い機材だが、プロジェクターでもスピーカーでも、ガイド付き地球儀でもない。とっても高いのに、殆ど役に立たない、祖父拘りの逸品である。


 部屋の中央にセットしたあと、全てのLED電球の電源を切り、光源を絶った。


 すると、そこには、小さな小さな光の粒がある。部屋全体を覆い隠すようにまばらに散りばめられたそれは、都会では絶対に見ることのない完璧な状態の星空を形作った、偽物の天球を映し出していた。


「プラネタリウムだよ」


 それは、たとえ偽りだったとしても、初めて見た時は感動で言葉を失ったものだ。何十万もした重くて扱いづらい機材であるが、表現の繊細さは格別で、暗い夜空に瞬くような星々は、まるで本物みたいだ。


「南雲さん、おいで」


 プラネタリウムに微かに照らされた室内は、暗くて足元が見えにくい。なので、ソファーに座っている南雲さんの手を引いて、ゆっくりとベッドへと移動することにした。このベッドは、元はと言えば偽りの天体観測のために用意されたものなのだから。


「ほら」


「あ……うん」


 ベッドを手差(てざ)して促すと、南雲さんは少しぎこちない動きで腰を掛けた。そんな彼女の肩を軽く押して、一緒にベッドへと横たわる。


 すると、そこには視界全面の星空が広がっていた。


「どうかな?」


 南雲さんは驚いて言葉も出なかったのだろうか、その問いに対する返事をしなかった。だが、そうなるのも頷けるくらい、これは綺麗だ。


 都市の光に照らされた夜空は、こんなに綺麗じゃない。雲の影響もあるし、きっと殆どの人が本当の星空を見たことが無いのだろう。だから、この偽りの本物が、幻想的なほどに綺麗に見える。


 まぁ、こいつらの欠片に、人類文明は滅ぼされるのだと考えると、憎さを感じなくもないのだが。ここの光は所詮造り物で、憎むべき、空から降ってくる本物のほうだろう。


 もしかして、町の人々もこうして、空を見上げていたりするのだろうか。


「……こわいの?」


 どうやら、手の震えが伝わってしまったようだ。南雲さんは横たわったまま、俺のほうへと体を向けていて、その双丘は重力によってすこしつぶれている。


「ごめん。カッコ悪くて」


 すると、南雲さんは近づいてきて、偽りの空を見上げる俺の顔をすこし強引に動かした。疑問に思いながらも、とくに抵抗せずにいると、南雲さんの唇は寸前まで迫っていた。


 そして、唇を重ねた。


 お互いに、少し慣れてきた節があるそれは、1回2回3回と連続で奪われて、星空なんてくだらないと思えるほどに最高だった。何より、南雲さんからしてくれるのが、最高に良い。


「どうだった?」


 そう訊かれて、俺は前と同様の答えを返した。


「……よかった」


 すると、なぜか南雲さんは微笑みを浮かべて、少し嬉しそうに言った。


「そっか」


 それからしばらく、抱き合っていた。きっと、これが最期じゃなかったら、俺はそういう気分になって、色々なことをしたのだろう。だけど、本能的な死への恐怖は、三大欲求すら上回るもので、俺の頭を空回りさせる。そのせいで、俺は一向にそんな気分になれなかった。


 それも全部、南雲さんのせいなのだが、それに文句を言うのは贅沢が過ぎるというものだろうか。


******


 時刻は23時43分21秒。


 俺は、眠った。


 という、素振りを見せたというほうが、正しいだろうか。人生の最期に、狸寝入りである。何ともまぬけであるが、これも仕方のないことだ。全ては、俺のやり残したことを、やり遂げるために。


 くぅ、くぅ、とわざとらしい寝息を立てている。腕の中の南雲さんは、目を閉じているが、俺の予想では恐らく目を覚ましていた。


 数分経った頃、南雲さんは瞼をゆっくりと開けた。そして、俺の目の前で手をかざして、眠っているかどうかを確認する。絡みついた腕と足を、ゆっくりと丁寧にほどいていくと、彼女の行動を阻害するものは何もなくなった。そして、少しの間のあと。


 最後に、唇を奪われた。


 そのまま、南雲さんはひとことも喋らずに、俺を起こさないようにそっと体を動かしている。そして、ベッドの脇で着替え始めたようだ。俺の背後で起こっていることなので、音でしか分からないけれど、確かに布擦れの音がして、恐らくその長さからして制服に着替えている。


 その音が止まると、今度はペンで何かを書くような紙の音が聞こえた。数秒後、極力音を立てないように、慎重に紙を千切る音が鳴る。


 そして、扉を動かす音が聞こえた。きっと、この部屋から出ていったのだろう。


 それを聞いて、俺はゆっくり起き上がる。音を立てないようにして、忍び足で。机の上の書置きには、「じゃあね」と書かれていた。そんな紙切れを放り捨てて、そのままゆっくりと玄関へと向かっていく。


 少し、驚かす意味も込めて、勢いよく扉を開けた。


「シェルターの扉は、俺じゃないと開けられないんだ。南雲さん」


 俺は、少し怒っているのかもしれない。それでも声は優しく、彼女を気遣っているつもりだ。扉を挟んだ先にいた南雲さんは、その重厚な鉄扉のハンドルを握り、ガチャガチャと動かして何とか開けようと試行錯誤していたようで、事実あと数ステップで開くところまで来ていた。無論、俺しか開けられないというのは、ブラフだ。


「……そっか」


 制服姿の南雲さんは視線を逸らして、すこし悲しげな表情を見せた。短いスカートの太ももには、何やらホルスターのようなものがついている。そして、その手にはいつか見たバタフライナイフが握られていた。その刃は閉じられているけれど、内側には鈍い刃が隠されていることを、俺はもう知っている。


「あのさ」


 そして、金属製の重厚な扉から手を離すと、俺の方を真っすぐ向いて問いかけてきた。


「……約束、覚えてる?私の言うこと、一回だけ何でも聞いてくれるってやつ」


「覚えてる、けど」


「じゃあさ、宝仙くん」


 そして、微笑みを浮かべて、さも当たり前のことを言うかのように、告げるのだ。


「私を、ここから出してよ」


 俺はこの先の結末を、未だ知らない。ただ分かっていることは、彼女がまだ俺に恋していないということだけだ。それが叶うまで、出来ることなら俺は、眠りたくないと思っている。


 それはたとえ、彼女のやり残したことを、無下にしたとしても。

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