世紀末の世紀末らしい世界

007 女子高校生は、肉親を殺せるだろうか。そんなの、無理に決まってる。

 ぎゅっと瞑った瞼を開くと、そこには女神がいた。


 そんな非現実的な光景に対比するみたいに、その背景には現実感のある見慣れたシェルターの像が写っている。死に際に見ると聞く走馬灯みたいなものかと思って、頬を軽くつねってみたが、ちゃんと痛かった。どうやら、妄想の類でもないらしい。


 ニュースで見たシミュレーション映像によれば、俺たちは今頃巨大隕石に地盤ごとひっくり返されて、文字通り天変地異に苛まれながらぐちょぐちょにされている。シェルターも全く意味をなさない衝撃に巻き込まれて、瞬時に命を落としているはずだ。


 しかし、今も俺の心臓は脈動を続けている。目の前の少女もまた、微かな震えを出しながら、その体温は暖かさを保っていた。


 一応、異変がなかったわけじゃない。あの巨大な爆裂音と地響きには、今まで送ってきた日常とはかけ離れた何かを感じている。あのあと、5回ほど連続で発生した地響きの瞬間は、そろそろ死ぬ、そろそろ死ぬと覚悟して、南雲さんと抱き合っていたものだ。だが、逆に言えばその程度のこと。現に、シェルターの中は特に何も変化なく、強いて言えば地震の影響で物が散乱している程度だろう。


 気付けば、俺のシャツは南雲さんの溢れだす涙でぐちょぐちょになっていて、決して綺麗とは言えない感じになっていた。俺の平たい胸板に顔を埋めるように押し付けられると、濡れてひんやりしたTシャツと彼女の熱くなった顔が触れて不思議な感触がする。


 だが、そんなことが気になるようになってきたということは、それだけ余裕が生まれてきたということでもあった。


「……俺、生きてるのか」


 強く握っていた拳を緩めた。


 上手く息を吸えていなかった肺がスムーズに動き始めると、暗い靄のかかったような視界は徐々に鮮明に映り始めて、止まっていた思考が回りだす。


 なぜ俺は生きているのだろう。本来なら、生きているはずがないのに。アルマゲドンを回避する方法を、人類は持ち得ていない。核爆弾で隕石を破壊する、なんて手段は御伽噺に過ぎず、実際には焼け石に水だ。考えられるとしたら、見知らぬ超常現象が発生して隕石が消えたとか、宇宙人が襲来して地球人を助けてくれたとか、そんな妄想じみた奇跡ぐらいだろう。


 それでも、ともかく。


「すぅ……はぁ……」


 よかった。生きてて、よかった。


 俺は南雲さんの体を強く抱きしめて、その嬉しさを表現した。彼女はされるがまま、俺のTシャツに顔を擦り付けている。その体の震えは、今までの南雲さんとは思えないほど怯えているというか怖がっているというか、どこか弱弱しさを感じさせる。彼女が強く握た背中の生地は、きっと伸びてしまっているのだろう。


 ふと、シェルターの中に黄色いランプが点灯していることに気付いた。確か、何らかの異常を知らせるランプのはずだ。赤ではないので施設の異常ではないはずだが、確か何らかの非常設備が稼働しているときにあのランプが点灯するやつだ。施設が出来た当初に満足げにそう語っていた祖父の姿を朧げに記憶している。


「ちょっと、ごめん」


 俺はひとまず、ぐちゃぐちゃになったTシャツを脱ぐことにした。抱いていた腕を放すが、彼女は引っ付いたままで離れようとしない。仕方がないので、生地を引っ張りながらすこし強引に脱ぐと、彼女が涙をぬぐう場所はTシャツから俺の地肌へと変わったらしい。徐々に肌が湿っていくのが分かった。


「ちょっ……」


 止めようかとも思ったけど、なんだか悲しんでいる様子なので好きにさせてあげることにした。それに、なんかかわいいし。


 脱いだTシャツは、土に汚れていた。きっと、シェルターの外で南雲さんに組み伏せられていた時に付着したのだろう。よく見ると、南雲さんの顔にも土汚れが付着していた。そんな汚れを軽く手で拭い取って、俺はその辺にあった予備のTシャツに手を伸ばした。


 そんなちょっとした身支度を済ませて、とりあえず手を伸ばしたのはポケットの携帯端末だ。片手で軽く検索をかけようとおもったのだが、そもそもインターネットに接続できていなくなってしまったらしく、何も調べることは出来なかった。一応、ニュースアプリに残っていたアーカイブデータによれば、つい数時間前まで世界中が隕石の情報で交錯していたのは確かなようで、特に目新しい情報は何も出ていなかった。衝撃の規模とか、その後の地球とか、様々な記事を流し見したが、やはりあの隕石は地球全土の地盤を剥がして全ての大型生物を死滅させるものだったようで、科学者たちの見解では生き残るのは微生物だけだろうという結論が出ていたようだ。災害といえばラジオみたいなところがあるので、とりあえずラジオ機能を開いてみたのだが、どの基地局も放送している気配はなく、ノイズだけが流れていた。


「……って、地下だからラジオは無理か」


 俺は端末を再びポケットに入れた。


 考えれば考えるほど、俺が今生きている意味が分からない。だが、こうして息をしている以上、きっと巨大隕石の衝突は起こらなかったと考えるのが妥当である。ただ、隕石を回避しうる手段を人間は持ち合わせていないはずなのもまた事実。やっぱり、宇宙人襲来でもあったんだろうか。


 例えば、今もすぐそこに……なんて。


「……ないな」


 自分で言って不安になって、ちょっと辺りを見渡してみた。すると、すぐそこには俺たちの足跡がくっきりと残っていた。玄関で靴を脱がずにそのまま部屋まで来てしまったので、そのせいで床が汚れてしまったのだ。あの時は、南雲さんが強引に押し込んできたから、脱ぐ暇が無かったのである。


「……?」


 そういえば。


 あの時、なぜ南雲さんは踵を返して俺をシェルターへと押し込んだのだろうか。


 あのときの俺は色々な葛藤の後、傲慢にも彼女の自殺を無理やりにでも阻止して人生の最期に妥協点をつけるつもりでいた。その計画を実行するタイミングを計って、じっと様子をうかがっていたのを覚えている。


 だが、その直前に彼女は銃を下ろして、踵を返した。そして、俺を強引にシェルターへと連れ込んだのだ。


 彼女はシェルターの中へと入ろうとしなかったけれど、俺が手首を少し強引に引っ張ると、彼女は少しの抵抗のあとすぐ諦めたようにシェルターへと入ってきた。まるで、今までの取っ組み合いが嘘みたいに、あっさり。


「……」


 きっと、偶然ではないのだろう。彼女は何かを知っている素振りだったし、罪とか血肉が云々とか難しいことを言っていた。まぁ、要はこの騒動に対する責任感を感じていたのだ。だから、今もこうして俺の腕の中で震えて涙を流している。そろそろ枯れるんじゃないかってほどの涙を流して、現実逃避でもするみたいに顔を埋めているのだ。


 でも、色々な葛藤の中で、最期に彼女が選んだのは俺の生存だった。だからあのとき、唐突に彼女は踵を返し、俺の手を引いたのだ。


『私の体は、これから死ぬ大勢の人々の血肉で出来ているの』

『あいつの頸動脈にこのナイフを突き刺せていれば、この惨劇は起きなかった』

『これは私の責任』

『私は見たくないんだ。私のせいで、目の前の人が溶けていく光景を』


 今でもその光景が思い出せるほどに、鮮明に記憶された彼女の独白は、こうして生き残っている今になると違う風に聞こえてくる。


 シェルターの外では、一体何が起こっているのだろうか。彼女の言葉が妄想の産物でないのなら、実際にシェルターの中に居なかった大勢の人間は文字通り溶けて消えていったのだろうか。


 なぜ、彼女が知っているのだろうか。


 彼女が「殺せなかった」と嘆いたあいつ。南雲良治は、何を考えているのだろうか。


 そんな疑問を頭の中に抱えながら、ひとまず俺は行動を起こすことにした。


「……よしよし」


 少なくとも、こんなに弱弱しい彼女を放置するわけにもいかないから。


 とりあえず、南雲さんの体についている物騒なモノを全部取り払うことから始めた。太もものホルスターについた拳銃を取り出して、硬くなった手に握ったままのバタフライナイフも指を一本一本ほどいて取り上げる。一応、ホルスター自体も取っておいた。それから、ポケットに錠剤が複数個見つかったので、これも一応彼女の手が届かない所に置いておくことにした。


「ふんむっ」


 人生初のお姫様抱っこは、なんともギリギリでふらついたみっともない感じだった。べつに、筋肉がないというわけでもなく平均くらいはあるのだが、やはり人体というのはそもそも重いもののようで、物語のようにそう簡単にいくものではないらしい。これで「重い」と口走ってしまったら失礼になるなんて、社会は理不尽極まりない。


 腕を攣りそうになりながらゆっくりとベッドに南雲さんを下ろして、荒くなりそうな息を必死で抑えた。そして、彼女の体に布団をかけて。


「……あれ?」


 ふと、自分の頬に涙が流れていることに気付いた。


 別に、辛いことがあったわけじゃない。悲しかったわけじゃない。でも、無意識に涙が出ていたのだ。それを意識した途端、その涙は徐々に流量を増していき、いつしか子供の頃にした大泣きのように馬鹿みたいに涙が出てきていた。口の奥が熱くてもどかしいし、息も熱い。


 気が緩んだからだろうか。


 俺は溢れ出る涙を腕で適当に拭いながら、荒い息を抑えて南雲さんに背中を向けた。泣いている姿を、見せたくなかったから。そんな俺に、彼女は手を繋いできた。


 生きてて、よかった。


 俺は心底そう思った。


******


 泣いて、泣いて、馬鹿みたいに泣き続けて、気づいたら目が覚めていた。なんか、昨日もこんなことがあったような気がする。うっすらと目を開くと太陽の光が微塵も届かない人工的な薄明かりに照らされた部屋が、ここが地下だということを教えてくれた。


「っ」


 伸びる代わりに少し体をこわばらせると、腕の中にいる彼女の体がピクリと反応した。どうやら起きていたらしい。ただ、それ以外の反応はなく、不貞腐れたようにじっとしている。そんな彼女の後頭部を慣れない手つきで出来る限り優しく撫でると、俺の心が幸せに満たされた。犬や猫を飼ったことも撫でたこともない自分であるが、きっとどんな生物よりも最高であることには違いない。


 のだが。


「……」


 頬が熱い。


 徐々に熱を帯びてきたそれは、自分で見たら吐き気がするくらい紅く染まっているのだろう。やばい。めちゃくちゃ恥ずかしい。なんでだ、こんな今更。頭を撫でるくらい昨日なら平然とやれていたはずなのに。


 俺は徐々に強張っていく手を離して、ゆっくりと南雲さんから遠ざかり、そのままベッドから降りた。すると、南雲さんは華奢な手だけを布団の中からチンアナゴのようにぬっと伸ばして俺の手首を掴む。少し強引に引っ張られた結果、俺はバランスを崩して再びベッドへと倒れ込んだ。


「ちょっ」


 反射的に閉じた瞼を開くと、すぐそこには南雲さんの顔があった。少し動けばおでこがくっついてしまいそうな距離だ。制服姿ままベッドに寝転がる彼女の姿は、どこか特別感がある。そんな彼女は、すこし不貞腐れたような顔で言った。


「……いかないで」


 元気はなさそうだ。そのうえ、少し不機嫌な様子である。あのとき、彼女が「やり残したこと」をできなかったのは、端的に言えば俺のせいなので、きっと俺に対していろいろな感情が渦巻いているのだろう。


「……もしかして、怒ってる?」

「そうかもね。君に色々、台無しにされたから」


 素直にそう訊くと、南雲さんは俺の体を抱き寄せながらそう答えた。その行動も口ぶりも、そこまで怒っているようには見えないが、彼女が言うのならそうなのだろう。


「あ、あの。胸が……その」

「……いまさら?」


 そんな若干シリアスな彼女の心境とは裏腹に、俺の心境は思春期真っ盛りといったところだ。さっきから、彼女の肌の感触が気になって仕方がない。触れているだけで痺れるような感覚がするし、鼓動も高鳴るばかりだ。


 昨日はすぐに慣れたのに、なぜ今になってこんなにも意識してしまっているのか。その答えは明白だ。それは、吹っ切れていないから。昨日は、人生最期という言い訳があった。だから、何をやっても許される空気というか雰囲気というか、そういう非現実的な感覚がどこかにあった。でも、今日はそうではない。少なくとも、明日はありそうに思える。なんなら、1年。何十年あっても、おかしくない。


「なんか……その、急に現実感が出てきたって、いうか」


 この非現実的な妄想のような状況。つまるところ憧れの少女と同じベッドの上で抱き合っているという事実。これは、理想であり最高のシチュエーションであるが、同時に現実でもある。


 寸前にある瑞々しい唇も、惜しみなく押し付けられる胸も、絡み合う脚も、その香りも、温もりも、感触も。恐怖に気を取られていたときは気を逸らすための手段に過ぎなかったけれど、今になると俺には眩しすぎる魅力である。


「……そっか」


 すると、彼女の雰囲気が少しだけ和んだ気がした。下がっていた口角が少し上がって、密着度がさらに増していく。そんな最中、彼女はゆっくりと言葉を続けた。


「私は……逆。ぜんぜん、現実感がない」


 彼女は少し俯きながら、慎重に言葉を選んでいった。その真剣な声色に、俺の浮ついた心も少し沈んで落ち着いてくる。


「今、このシェルターの外がどうなってるか、君は知ってる?」


 その問いを聞いて、俺は少し頭を働かせた。


 まず、大前提として。巨大隕石は落ちていない。それは、俺たちが生きている時点で明らかなことだ。


 だが、シェルターの電気と水道、換気システムすらも、現在は非常用ランプが点灯して外部とは独立して動いている。この状況から鑑みるに、少なくとも生活インフラが全滅するくらいの大規模な災害が起こっていることは間違いない。


 それらの原因として、確実にあの地揺れが影響しているのは間違いないのだが、それは決して偶然発生した地震というわけじゃないはずだ。まぁ、地震王国の日本では考えられなくもないが、可能性は低い。人類最期の日の、最期のタイミングで、突然巨大地震が5回ほど連続で発生するというのは、あまりにも出来過ぎているから。


 それより、たとえば隕石が分裂して近くに5つぐらい落ちて、その衝撃があの地揺れだった、としたらどうだろうか。それぐらいなら、隕石と関連して地揺れが発生したことにも納得できるように思う。だが、その場合は隕石を破壊するヒーローか宇宙人が必要になるので、案としては微妙である。


 落ちるはずの、落ちない巨大隕石。それと同じタイミングで起きた、大きな地揺れ。巨大な爆裂音。


「……核戦争、とか?」


 これは、人為的だ。少なくとも、昨日から地上に出ていない南雲さんが答えを知っている素振りを見せている時点で、その裏には彼女の父、南雲良治の惑星開発企業IFが関連していることは間違いない。これが最大のヒントである。


 昨日のニュースで、世界各国の要人たちが失踪しているという内容のものを見た。そして、次に見たニュースでは謎の巨大宇宙船が爆発していた。単純に推測すれば、権力者たちはあの宇宙船に逃げ込んでいたのだろう。けれど、それが爆発した。つまり、世界各国の有力者たちは「不慮な事故」でまとめて星屑と化したのだ。


 そして、しばらくして隕石が落ちたような衝撃が辺りを覆った。だが、科学者たちの予想は外れ、人類は滅びなかった。


 考えるべきは、この状況が人為的なものであるということだ。


 人に隕石を動かす力はない。もし、その技術を持っていたなら、隕石騒動はここまで大きなものにはならなかったはずだ。かといって、偶発的な自然現象だとしたら、人類は滅びている。


 さて、隕石はどこへ行ったのだろう。


 恐らく。


 あれは偽物だ。


 偽物の星屑である。


 惑星開発企業IFが手掛けた世界中の科学者を騙す偽物の巨大隕石。たとえば、これが戦争の道具になっていたとしよう。たとえば、経済的に追い詰められている共和国が逆転のために戦争を仕掛けるとして。たとえば、世界全土に混乱を招くために隕石とノアの泥船を使ったとして。報復攻撃を防止するために同盟国以外の地球全土に対して、核ミサイルを放ったとして。それでも、世界規模の核攻撃なら絶対にどこからか核による報復はあるはずで。きっと、痛み分けになって世界全土は既に核の炎に包まれている。


 だが、その結末を知っている人間は、その後への備えをしているはずだ。その組織は、つまるところ戦争の勝者である。


 それは、偽の星屑を創り出した惑星開発企業IF。そして、戦争を仕掛けた国。この2つだ。


 仮定だらけの、杜撰な憶測だ。だが、少なくとも今までの宇宙人説とかスーパーヒーロー説より、余程説得力が高い。


 もし、この壮大な世界征服の計画を「南雲良治」が立案し実行したなら。


「……」


 南雲さんが、父親を殺したいほど憎むのも、分からないでもない。


 自分の親が友人を殺したら、何を思うだろう。クラスメイト、同級生を、高校生を、学生を、人間を、それらの持つ全てを皆殺しにしたら。自分は、何を思うだろう。


 少し、俺の過去と状況が似ているように思う。父親を自殺に追い込んだ母。資産を食いつぶして、訳の分からない宗教活動に消えていった金と、憔悴していく父の姿、そして父親の親戚から自殺を知らされたあの瞬間。俺は、何を思っていただろうか。


 それは、匂いすら記憶に残っている。


 殺したくなった。全ての元凶を知って。全ての事実を知って。そして、手遅れであることを知って。


 口の中が苦くて。頭がズキズキして。抑えられないほどに湧き出る衝動は、思考回路をバグらせたみたいに俺の体から力を奪って。


 涙は出なかった。


 その日の朝、俺は包丁を持った。明朝に帰ってきた母の寝首に、その切っ先を突き立てて。


 でも。それでも。やっぱり、殺せなかった。


『私、あの人を殺せなかった』


 気付けば、頭の中ですべてが繋がっていた。


「……君、どこまで気付いてるの?」


 彼女は、俺の瞳を覗き込むみたいにじっと見つめて、俺の様子をうかがっている。それもそうだ。自分でも、深刻な顔をしている自覚がある。苦虫を噛み潰したような、そんな顔をしているのだろう。


「あ……」


 枯れたはずの涙が、重力に従って流れていく。でも、思ったほど出ていないのは、きっと昨日に大量消費したおかげである。目頭は熱いままだけど、数秒経つと涙も収まってきて、視界の靄がなくなってきた。


「……いや、その」


 深呼吸をひとつ。感情を落ち着かせた。俺だけかもしれないけど、少なくとも俺はこれで何度も救われている。


「……ちょっと、辛い記憶の追体験をしたところでさ」


 すると、南雲さんは俺の顔に手を伸ばして、涙を指で軽く拭ってくれた。その手つきはぎこちないけれど、嬉しいことには違いない。


「……ごめん」

「いや、俺が勝手にやっただけだから」


 俺に涙を流させたことに対して、謝っているのだろうか。それとも、この事態を起こした南雲良治に始末をつけることができなかったことについて、言っているのだろうか。どちらにせよ、それは彼女の責任ではないはずだ。


「南雲さんが謝ることじゃないよ」

「……」


 このシナリオが正しかったとしよう。


 その場合、もし南雲さんが南雲良治を殺していたら、彼女はスーパーヒーローになれた。彼女の手によって、世界は実際に救われたのだから。


 でも、殺せなかった。その結果として、いま世界は核の炎に包まれている。


 彼女は、ヒーローになれなかった。


 彼女は悔やんでいる。自らの弱さに負けて、世界を救えなかったことを。ヒーローになれなかったことを。悔やんで、悔やんで、自分を責め続けた結果、最終的に選んだのは自らの死。昨日の夜の一件は、つまりそういうことなのだろう。


 確かに、その事実を知って責め立てる者もいるかもしれない。もし、あのとき手を数ミリ動かしてあの頸動脈を掻き切っていれば、それだけでインスタントラーメンを作るよりあっさりと世界の平和が保たれたかもしれないのだから。この核戦争で命を落とした数々の見知らぬ怨念たちのいくつかは、きっと彼女にそう語りかけているのだろう。まぁ、幽霊なんて信じちゃいないけれど。


 さて、そこに似たような経験をしたことがる俺がいるわけだ。実際、母親の首筋に包丁を突き立てたこともある。そんな俺から見て、彼女はヒーローに成り得たかと聞かれれば、無論こう返すだろう。


 そういう問題じゃないだろ、と。


 大義、というものがある。合理性、というものもある。それらは、とっても素晴らしいものだ。でも、決して理屈ではどうにもならないことも、世の中には存在するのである。だから、人は馬鹿みたいに意味のない時間を過ごしたり、逆に変なことにこだわるようになったりする。そういうことを全部無視して、世界の平和のために全てを捧げる人間がいたなら、きっとそれはスーパーヒーローになれるのだろう。俺だって、そう思う。


 でも、人間はそういう風に出来てない。それが出来るのは、きっと狂人だけだろう。


 彼女はヒーローに成り得たか。その質問はつまり、こうだ。


『一般的な女子高校生は、肉親を殺せるか』


 そんなの、無理に決まっている。

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