003 遣る瀬無い後悔と、傲慢な俺
「私、あの人を殺せなかった」
俺は動けなかった。
腕の中の可愛らしい少女が放った言葉の不気味さに、脊髄の中を駆け巡るような寒気を感じる。
恐怖しているのだ。あろうことか、南雲さんに対して。
冗談だなんて、思えなかった。事実、彼女は泣いていたし、その表情も演技じみたものには見えない。悲しみ、辛み、悔しみ、色々な負の感情が混ざった殺気に似た何かが、肌を撫でている。
「は、はっ」
口から出たのは、空虚な笑い声だった。
「……」
「……」
それからしばらく、数分だろうか、何も喋らずにじっとしていた。というか、何を喋ればいいのか分からなくなって、呆然としていたというべきだろうか。デジタル時計の秒表示だけが、刻々と動いていった。
ニュース番組に映し出された、巨大な宇宙船の爆発。あれを見た時から、南雲さんの様子は明らかにおかしくなった。だから、きっと何かしらの関係があると見て良いのだろう。ただ、それを南雲さんに訊いていいかどうかは、また話が別である。俺だって、触れられたくない話の一つや二つあるわけだし。
腕の中の南雲さんは、とてもおとなしい。規則的な呼吸が体を膨らませて、まるで眠っているみたいだ。
「南雲さん?」
「すぅ……すぅ……」
返事はなく、呼吸音だけが聞こえてくる。抱きかかえる腕を少し緩めて、南雲さんを観察してみると。
「……寝てるし」
どうやら彼女は眠ってしまったようだ。普通、こんな状況で寝れるものなのだろうか。
「……ほんとに寝てる?」
少し肩を叩いてみたり、目の前で手を振ってみたりしたが、瞼を開けることはなかった。どうやら、本当に眠っているようだ。まぁ、映画を見ていたせいであまり寝れなかったというのもあるのだろう。もしくは、精神的に疲弊していたのか。
「はぁ……」
ため息、というか、一息ついた。どうやら、少しは考える時間ができたらしい。とりあえず、南雲さんをソファーに寝かせておくと、彼女は小さくなって心地よさそうに可愛らしい寝息を立てていた。
こんな少女が、「あの人を、殺せなかった」なんて物騒な言葉を口にするとは思えなかった。でも、言ったことは事実だ。あの殺気のような執念というか、そういった類の強烈な意思には思わず背筋が凍ったし、本能的な恐怖のようなものがそこにはあった。
「何を怖がってるんだ……俺は」
自分に言い聞かせるような独り言とともに視線を少し下げると、ふと眠っている南雲さんのブレザーから生徒手帳が零れ落ちそうになっていることに気付いた。それは、彼女が少しでも身をよじれば、落ちてしまいそうなほどに飛び出している。
「……」
何の気なしに、俺はその生徒手帳を手に取った。押し戻すでもなく、置いておくでもなく、なんとなく手に取ってしまっていた。
これは、好奇心なのだろうか。それとも、南雲さんをもっと知りたいと思ってしまう俺の愚かな恋愛感情によるものなのだろうか。
この行為が、一種の裏切りを孕んでいることは、分かっている。でも。
「ちょっとくらい、いいよな」
その欲求に、抗うことはできなかった。
少しばかり罪の意識を感じながら、生徒手帳を物色する。だが、特段の違和感はなかった。校則と証明写真が付いていて、俺の持っているものと変わらないものだ。そうして、パラパラと捲っていくと、最期のページと裏表紙との境目に一枚のカードが挟まっていた。
『IF.co』
少し高価そうな鋼色の重いカードには、端的にそれだけが書かれていた。「.co」ということは、「IF」という会社なのだろう。
「IFか」
英単語のIFと混同している気がしないでもないが、どこかで聞いたことがあるような気がする。社会に大して興味を抱いてない俺が聞きかじったことがあるということは、それなりに有名な会社なのだろう。
手持ちの端末で検索してみると、すぐに見つかった。
惑星開発企業、IF。日本発のグローバル企業で、創業は2073年。2090年現在にかけて、物凄いスピードで規模を拡大している新進気鋭の大企業らしい。惑星開発を謳うだけあって、地球と宇宙の両方を巧みに利用して、色々な技術革新を起こしているようだ。農業用トラクターからロケットまで様々な商品を手掛けていて、その販売拠点は今や世界中に300箇所以上あるらしい。
創業者兼CEO《最高経営責任者》は、南雲良治。
「……ん、南雲?」
南雲良治と書かれている。その顔写真は、イケメンな中年のオジサンといったところだが、どことなく雰囲気が南雲さんと似ていないでもない。というか、なんか似ている。眠っている南雲さんと見比べてみると、目元の凛とした感じとかは結構そっくりだ。
「ということはつまり……南雲さんの」
お父さん、なのだろうか。遠い親戚という可能性もあるけれど、この高そうなカードを見る限り、かなり近い親類だろう。綺麗な所作や独特の雰囲気から、なんとなくお金持ちの子なんだと思っていたが、どうやら結構なお嬢様だったらしい。
だが、思い返せば妙な話だ。なぜ、そんな彼女が、この終末の日の深夜に学校を訪れていたのだろう。それに、彼女はいかにも庶民といった感じのカップみそ汁を「よく作るから」と言っていた。それは、決してお嬢様らしいとは言えないだろう。
宇宙船の爆発。惑星開発企業CEOの南雲良治。意外と庶民的な南雲さん。そして、彼女の涙と「あの人を殺せなかった」という言葉。
嫌な想像が頭をよぎる。
「……流石に、ないか」
頭を振って、ごまかした。そんなとき。
プルルルルルルルル。
南雲さんの端末から、着信音が鳴った。耳につく独特の電子音は、眠った意識を覚醒させるには十分な音量だ。
「まずい」
南雲さんが起きてしまう。カードも生徒手帳も、ソファーの上に出したままだ。この一種の裏切りのような行為が知られたら、何を言われるか分からないし、最悪嫌われることになりかねない。
でも、端末まで弄ったと知られたら、彼女はもっと悲しむのではないだろうか。もっといい方法が、あるのではないか。そんな思考はぐるぐる回るけれど、時間が進むたびにリスクは上がるわけで、悩んでいる暇はない。
「っ」
もういい。なるようになれだ。そう思って、俺は南雲さんの端末を開いた。
『よかった。ようやく、出てくれたのね。……夢ちゃん?』
取り上げた際に誤操作をしたのだろうか。どうやら、誤って電話に出てしまったようだ。電話先の人物は、大人の女性といった感じの声をしていて、
電話番号の表示名は、冨樫夏芽。それ以外の情報は、特に登録されていない。
「えっと……」
『……誰ですか?』
その反応は、当然だろう。知り合いに電話をかけたら、知らない男が出てきたのだから。切ろうかとも考えたが、それでは明らかに不自然なので、会話を試みることにした。それに、もしかしたら南雲さんに関して新しい情報が手に入るかもしれない。
「南雲さんの、あー……彼氏です」
ちょっぴり恥ずかしいがそう答えると、電話先のお姉さんは声色をキラキラさせて驚いた。
『えっ。あの、夢ちゃんが?』
「はい。近くにあったので、間違えて出てしまって」
嘘は言ってない。
『……そっかー。あの子はもう、私より大人になっちゃったのかぁ……』
「はい?」
お姉さんは感慨深そうにそう言うと、思い出したかのように真剣な雰囲気で訊いてきた。
『それで、今はどこに?』
その問いに対して、俺は曖昧に答える。
「ごめんなさい。俺、南雲さんにとって貴方がどういう人なのか、知らないので」
すると、彼女は少し優し気なトーンで語りかけてきた。
『……そうだよね。じゃあ、ちゃんと安全な場所にいるかどうかだけでも確認させて。私、彼女の保護者代わりでもあるの』
冨樫夏芽、といっただろうか。彼女は一体、何者なのだろう。苗字も違うし、同年代でも、友達でもない。保護者代わりと自称しているが、最初の「よかった。ようやく、出てくれたのね」という言葉から察するに、南雲さんからは相手にされていなかったのだろう。そう考えると、あまり関係は良好ではないように思えるが、それにしては南雲さんに対して親身である。
どこにいるか、という質問に対して、強引に訊き返されるかと思っていたが、彼女の答えは妙に紳士的だった。まぁ紳士というより、淑女なのだろうが。ちょっぴり、若干拍子抜けだ。
「一応、俺たちが居るのは地下シェルターなので、どんな場所よりも安全だとは思います。まぁ、どうせ12時間後には剥がされちゃうんでしょうけど。」
でも、信用はしない。南雲さんに迷惑をかけたくはないから。ある程度曖昧に答えて、終えることにした。
「それじゃあ、そろそろ切ります。俺、間違えて出ちゃっただけなので」
『まってまって。ほんとに待って、待ってください』
「……」
年上とは思えないほど、へりくだった態度である。もしかして、南雲さんに対してはいつもそんな態度を取っているのだろうか。そんな妙な粘りに負けて、電話を切るボタンを押せずにいると、電話先の彼女は話を続けられると思ったのか言葉を続けた。
『彼氏くん、いい?絶対に夢ちゃんを、そこから出しちゃダメ。彼女はきっと心を痛めてるから、常に見守っていて。そして、彼氏なんだから、慰めてあげなさい。この際、別に何してもいいけど、とにかく絶対にそこから出さないで。もしどうしても出たいのなら、君も一緒に出なさい。それなら、彼女は出ないだろうから。それと、忠告を一つ。電話での会話時間が3分を過ぎると、探知される可能性が出てくる。この電話も、残りあと1分だけよ。本当は私以外からの電話には出ないでって言いたいところだけど……』
急いで、電話を切った。
「……逆探知か。全然考えてなかった。今のやつ、大丈夫だったかな」
忠告を聞いた途端、この電話も逆探知されるかもしれないという考えが頭をよぎって、電話を切ってしまった。まぁ、そもそも逆探知のために会話を引き延ばしていたのなら、忠告なんてマネはしないのかもしれないが、ひとまず安全第一である。
「はぁ……」
ため息を、一つ。どうやら、危機は去ったようだ。
と、思ったのだが。
視線を下げると、ジト目の南雲さんと目が合った。体はソファーに寝転がったままだが、彼女の瞼は完全ではないものの確かに開いていて、若干の不快さと愛嬌を兼ね備えた絶妙に可愛らしい顔をしている。
「勝手に、出たんだ?」
その声は普段とあまり変わらないけれど、若干の怒気を孕んでいる気がする。でも、決して軽蔑されているわけではないのだろう。彼女はただ、不快に思っているのだ。
「ご、ごめん」
素直に謝った。というか、謝るしかなかった。悪いのは一方的にこちらであって、言い訳の余地もなく南雲さんは完全に被害者である。俺はソファーの側に正座して、顔を俯かせた。
「どこから?」
そう訊くと、南雲さんは小さく息をついて、のそりと起き上がりながら問いに答えた。
「たぶん、最初から。着信音が鳴ったとき、うっすら目が覚めてたから。相手が冨樫さんだったし、泳がせてみた。君がこんなことするなんて、思わなかったな」
「うっ」
彼女は綺麗な声を、淡々と責め立てるように動かして、精神的ダメージを与えてくる。やった分際で言うのもなんだが、俺は素直に申し訳なさを感じていた。
「ごめん」
「……」
「ほんとに、ごめん」
「じゃあさ」
すると、南雲さんは案外あっさりと、解決策を提示した。
「一回だけ、私のお願いをなんでも聞くって、約束して」
そんな彼女は、一変して優しい微笑みを浮かべている。上げて落とす、というのは、こういうことを言うんだろうか。その切り替えの早さを見ると、実はそんなに怒っていなかったのではないかと疑ってしまうけれど、悪いのは俺だ。指摘するわけにもいかない。
提案は、シンプルだった。一度だけ、なんでも言うことを聞く。それだけだ。もし俺が、南雲さんのような女の子だったら絶対に断るべき話だが、そうじゃないのなら大した話ではない。べつに、自分の行動でどうにかできる大切な何かがあるわけでもないし、どのみち今日が最期ならば、何を差し出しても構わないだろう。
「……よろこんで」
南雲さんから提示された解決策を、俺は呑んだ。すると、彼女は俺の肩を掴んできた。そして、念押しするように訊いてくる。
「ほんとうに?」
そんな彼女の目を見て、俺は答える。
「本当に」
その言葉に、嘘偽りはない。つもりだ。
「じゃあ、これで仲直り」
南雲さんは、唇を捧げてきた。キスには慣れてきたけれど、未だにその胸の鼓動は高鳴りを抑えられぬまま、心を無理やり揺らすみたいに刺激してくる。それはいつも変わらず、柔らかくて瑞々しい。
「……座る?」
唇を離すと、彼女はソファーを軽くたたいた。どうやら、この件はこれで終わりということらしい。不機嫌な様子もないし、もしかしたら最初からあまり怒っていなかったのかもしれない。その場合、彼女は「約束」をするために少しばかり演技をしたことになるが、流石にそれは考え過ぎだろうか。
「……」
そんなことを考えてしまうのも、南雲さんが原因だ。彼女のあの言葉は、今でも俺の脳裏に深く刻み込まれている。あのときの顔も、仕草も、空気も、何もかもが、脳のニューロンに記憶されて、離れなかった。
でも、それを訊くべきか、未だに迷っている。
触れては、いけない気がして。
悩んで、考えて、想像して、嫌になって。ただ、それでも、訊きたい。なぜなのだろう。これは、単なる好奇心ではない。痛くて苦しくて辛いけど、それなのに馬鹿なんじゃないかと自分でも思うほどに、触れたい。彼女の心に、触れたい。
これは、恋なんだろうか。
思ってたのと違う。イチャイチャするだけの、いうなれば体だけの関係と言うやつに違和感を持っていたのは、これが原因なんだろうか。
関係に支障をきたすことには触れず、近づかない。それを徹底して、人生の最期に楽しさだけを集めてまとめて抱えて、ぐっすり眠るつもりだったのに。
こんな最高の彼女が出来て、満足していたはずだったのに。
「あの人って、誰のことなの。南雲さん」
触れてしまった。俺は、愚かだろうか。きっと、過去の俺なら指をさして笑うことだろう。なんて馬鹿なんだと。でも、それがきっと恋というものなのだと分かってしまったから。今は、これが正解だと確信を持っている。
南雲さんは、小さくため息をついた。
「ダメ。君も、分かってるくせに」
そして、平然とした表情で淡々と、彼女は明確に拒否をする。
「それが、お願い?」
一応聞いておく。そうであれば、俺は約束通り従わなければならないから。
「違う。ただ、私が答えないだけ」
だが、違ったらしい。というか、もっと冷徹な答えだった。たとえ、どんなに訊かれたとしても、彼女は答えないつもりのようだ。
それならば、彼女に訊いても、もう意味はないのだろう。
でも。
「……
その名前を出した瞬間、南雲さんの表情は一変して、凍えそうなほどに冷たい目をするようになった。どうやら、最悪の推測が当たっていたらしい。
南雲さんの言う、あの人。
殺せなかった。つまり、殺したかった人。
それは、「南雲良治」なのだ。
なぜだろうか、彼女は俺の体に重心を乗せて、押し倒すように体を動かした。そして、その華奢な手は、俺の首へと乗せられている。喉仏を中心に、両手で頸動脈を軽く抑えるみたいに添えて、軽蔑した目線で俺の瞳を覗いていた。
「元気だけど、なに?」
彼女は、自分がカマをかけられていることを、ちゃんと理解できているだろうか。その声は冷たく、怒った仕草を見せた時の彼女より、より一層恐ろしい。
「お父さんは、大事にしなきゃダメなんじゃないの?」
次の問いは、彼女と南雲良治の関係性を調べるためのものだ。正常に話が進めば、きっと父と娘ということなのだろう。生暖かい息をゆっくりと吐きながら、返答を待った。
「驚いた。君まで、お父さんにやられてたなんて」
確定した。南雲良治は、南雲さんの父親だ。やられてた、というのは買収された、ということなのだろう。そして、彼女の口ぶりから推測するに、そういう人間が何人かいるらしい。
そんなことを考えていると。
南雲さんは冷たい表情のまま、瞳に涙を溜めていた。それはやがて、一杯になって、ぽとりと俺の頬へと落ちていく。ひとつ、またひとつと、留まることを知らない彼女の涙は、熱くて冷たい、不思議な感触がした。
その時になってようやく、これが取り返しのつかないことなんだと、気づいた。
「……ごめん。ごめん、南雲さん」
許してもらったばかりなのに、また酷いことをしてしまった。本当に、最低だ。俺はなんて傲慢なのだろうと、自分でもそう思うけれど。
それでも、俺はこの選択を間違いだとは思っていない。
なぜなのだろうか。
「言い訳はいらない。あいつは今、どこにいるの」
南雲さんは涙を流したまま、俺に訊いてきた。でも、何も知らない俺が、そんなことを知るわけもない。
「カマをかけたんだ」
「嘘」
そんな自白も、意味をなさない。彼女はもう、俺を信用できなくなってしまったようだ。でも、彼女は俺の首に添えた手を、未だ動かそうとしない。そこに力は一切入っておらず、ただ軽く添えられているだけだ。命を握られていることに恐怖感はあるが、ただそれだけ。決して、刈り取られる気配はなかった。
それならば、やれることはある。
俺は、南雲さんを無理やり抱き寄せた。少しだけ抵抗はあったけれど、それも一瞬のことで、簡単に捕まえることができた。
そして、抱きしめる。
理性とか、論理とか、そういったものをすっ飛ばした、力業だ。
「大丈夫。俺は南雲さんの味方だから。だいじょうぶ、だいじょうぶ」
時間は刻々と流れていく。時刻は12時32分。人生の終わりまで、残り半分を過ぎたというところだろう。俺と彼女の関係は、これで壊れてしまったのだろうか。そんなことを思いながら、俺はおとなしく腕の中で震える彼女の頭を、丁寧に撫で続けるのだった。
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