第26話 秘書泌処

「こうしてあなたに髪を乾かしてもらうなんて久し振りね」


 スツールに座り穏やかに微笑む主を鏡越しに見て、


「そうですね」


 志桜里しおりもまた頬を緩めた。


「三、四年ぶりでしょうか」

「そんなに経つかしら」

「はい。わたくしも正確には覚えておりませんが……以前最後にこうしたのは、たしかお嬢さまが中学に上がるかどうかの頃だったと記憶しております」

「そう」


 ドライヤーを当てながら手櫛とブラシを使い分け絢音の絹糸のような黒髪を丁寧に丁寧にすいていく。会話を交わす程度でその手元が狂うことはない。


「相手があなただからかもしれないけれど、ひとに髪を触られるのって案外気持ちがよかったのね。あの頃はそんなこと思いもしなかったわ」

「そう……ですか」


 志桜里が仕える白百合家の令嬢──絢音はとても自立心の強い少女だ。


 白百合家で働き始める以前は、いわゆる「お嬢さま」という人種に対し「わがまま」であるとか「一人では何もできない」だとか、ありがちな偏見を志桜里も少なからず抱いていたのだが、「百聞は一見に如かず」というかなんというか、実際に関わってみて、イメージと実像はこうもかけ離れているものか、と愕然とした覚えがある。

 

 初めて会った頃から自分で「できること」で他人の手を煩わせる姿を一度も見たことがない。その上「できないこと」に関してはきちんと他者に任せる度量も持ち合わせているのだから敵わない。


(本当にもう、このかたは……)


 素晴らしい主なのだが、欲を言えばもう少し何かさせて欲しいとも思ってしまう。


「なあに? 変な顔してどうしたの?」


 どうやら複雑な心境が顔に出てしまったらしい。気づけば鏡越しの絢音が背後に立つ自分を見上げていた。表情や態度に内面が滲む。それは本来、使用人として褒められたことではない。


「いえ」

「その顔でなんでもないってことはないでしょう?」

「…………」

「いいから言いなさいよ。今夜は無礼講よ? あなたも沙織里もだけど……使用人としての立場は一旦忘れなさい」

「は、はぁ……」


 志桜里は困り果て、弱々しく眉尻を下げた。こうして時折、突拍子もないことを言い出すのも主の特徴だ。こうなれば一定の納得を得るまで梃子でも動かない。

 なので、


「その、今まさに『無礼講』とお聞きしてから言うのもなのですが──沙織里に……うちの妹の振る舞いに少々呆れていた次第です」


 少し離れた別の鏡台の前で嬉々としてユウキのお世話をする沙織里にちらりと視線を向けた。

 それを目で追い、


「ああ」


 と、絢音が納得の表情を浮かべる。


(沙織里、ごめん!)


 誤魔化しのため、犠牲にした妹に心の中で謝る。いやまあ、それはそれとして全く呆れていないということもないのだが。


「いいのよ別に。今まで沙織里にはあまり仕事らしい仕事をさせてあげられてなかったし。世話のし甲斐のあるユウキが来てくれて、はしゃぐ気持ちも理解できるもの」

「それは……」


 本来、沙織里は志桜里が絢音の父の秘書になって以降の代役として白百合家に入ったのだが、正直、絢音は全く手のかからないお嬢さまであるし、ちょっとしたことであれば白百合家当主の秘書という肩書きながら実際はその娘絢音の付き人をしている沙織里が片付けてしまう。


 それはつまりどういうことかというと──


「ぶっちゃけ、私の専属メイドなんていっても閑職もいいところだったものね」

「ええと……」


 事実なだけに「違います」とも言えずコメントに困る。


「まあ、悪いとは思っていたのだけど、こればかりはどうしようもなかったしね。ほんと、ユウキが来てくれてよかったわ」

「……そうですね」


 一応、先輩使用人という立場からは「あんた、先ずはお嬢さまのお世話を優先しなさいよ!」と思わなくもないが、それ以前に沙織里は幼い頃からずっと自分の後ろをくっついてきたかわいい妹なのだ。その妹がようやく職業メイドとしての本懐を遂げ、楽しそうに働いている姿には、少しばかりじんとくるものがある。


 それに何よりユウキが沙織里に構われてテレテレとしている姿は──


(はぁ……、尊い……)


 衝撃だった。


 あの日、絢音のクラスメイトの「少年」──真田勇気の命を救わんと絢音と共に真田家に突入し、彼の部屋の扉を蹴り破った先に倒れていたのは、どういうわけか少年ではなく「少女」だった。

 

 ──華奢な肢体、血の気のない青ざめた顔はまるでビスクドールのようで……。


 志桜里の知る限り主である絢音と同年代で彼女以上に美しい少女など他にいないが、あの日見たビスクドールのような少女には言葉では形容しがたい不思議な──否、異常なほどの魅力があった。それが何に由来するものなのかは今でもわからない。しかし、あの日……人工呼吸という名のファーストキスを彼女に捧げて以来、志桜里はすっかり彼女に魅了されていた。


 だからつい、「例の連中」の処分には力が入ってしまった。絢音には過小報告しているが、主犯の男に対しては「どうせ後でいろいろと治す直すのだから」とけっこうやり過ぎてしまった自覚がある。


 それに秘密はそれだけではない。ユウキを想い、毎晩のように自分を慰めている。そしてその際、使用しているのはこっそりと入手したユウキの使用済み下着だ。くんかくんかすると堪らなく幸せになれる。


(……ああ私って、なんてヤバい女……)

 

 志桜里のまだ冷静な部分が激しく自己嫌悪をもたらす。もはや処女を拗らせたどころの話ではない。当たり前だが、こんなこと絢音はもちろん、沙織里にだって言えやしない。


 だというのに──


(はぁぁぁ……)


 先ほど浴場で見た──見せつけられた──光景が脳裏に焼き付いて離れない。沙織里の手でかわいらしく喘ぎ悶えるユウキの姿。


(あれだけで私、一ヶ月は戦える)


 が、それはそれとして……


(沙織里が羨ましい……!)


 ユウキを独占したいだなんて、そんな大それたことは言わない。そもそも大前提として、彼女は絢音お嬢さま自らの主人の想い人だ。まだはっきりと聞いたわけではないが、そんなことは見ていればわかる。沙織里など言うまでもなくあからさまだし、遥や笙子たちからもユウキに対する並々ならぬ想いを感じる。自分はきっと一番にはなれない。


(けど……)


 ──それでもいい。


 いつか絢音とユウキが結ばれた暁に。時々でもいいからお情けをいただけるなら。


(し、志桜里お姉ちゃんて、呼んでくれないかな?)


 ユウキは押しに弱いようだし頼んだらイケる気がする。


 ──し……、志桜里お姉ちゃん……。


「……っ」


 恥ずかしそうに頬を染め、おずおずと自分を呼ぶユウキ……。

 その様子を想像しただけで下腹の奥がきゅんとしてしまう。


(ま、まずはもう少しお近づきにならないとね……。お嬢さまは先ほどはっきりと仰ったわ。今夜は無礼講……無礼講よ……!)


 仕事のこともあり、他四人に比べ出遅れている自覚のある志桜里は、秘かに決意を固めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る