第6話 スーサイド(2)
「………………。ふう……」
築十五年を迎えた二階建て住宅。その二階に与えられた自室の机で、遺書を書き終えた勇気は深くひとつため息をついた。それから鍵の掛かる引き出しから日記帳を取り出し机の上に置き、その上に遺書を重ねる。
「これでよし、っと」
遺書その物は簡潔に。両親に向けては月並みだが育ててくれたことへの感謝と、先立つ不幸に対する謝罪を。そしてその理由として佐伯たちを告発する文章を書き、詳しくは日記帳を見て欲しいと添えた。日記には四月から勇気が佐伯たちに受けてきた仕打ちの全てが詳細に記されている。
最後に、これについてはここに書いていいものか迷ったが、
昨夜、佐伯たちの手によって例の画像が公開されたと知ったとき、真っ先に浮かんだのは怒りや絶望、焦りなどではなく、受容と諦めの気持ちだった。まったく、とまでは言わないが、勇気の心には波風がほとんど立たなかったのだ。
もとよりいくらか自覚はあったが、自身の心がとっくに限界を超え疲弊し、擦り切れていたという事実には、さすがに乾いた笑いを浮かべるしかなかった。
そこから先、一晩かけ、勇気はただ機械的に──淡々と死ぬための準備をした。
と、言っても別に大したことではない。単に死後に他人に見られたら恥ずかしいもの、気まずいもの(主に猥褻動画や画像、猥褻図書の類い)を処分しただけだ。勇気とて一応年頃の青少年の端くれであるからしてそういった物をそれなりに所持しており、それを自分がいなくなった後で両親や知り合いに発見されるという悲劇だけは避けたかった。
(死後に性癖を知られるとか、どんな罰ゲームって話だし)
まあ言ってしまえばエゴのようなものだが、ささやかな願いとして死んだあとぐらいしめやかに悼まれたい、と思うのだ。
PCのDドライブをクリーンアップし、現物があるのものについては夜中にそっと家を抜け出し、近所のゴミステーションに捨てた。
この時点でもう準備はほとんど終わったといっても差し支えなかったのだが、実際に死ぬのは翌日──両親が仕事で留守の間に──と既に決めていたので、再び自室に戻った勇気は少々手持ち無沙汰になり、部屋を掃除することにした。これも身辺整理の一環というか……長年親しんだ場所を最期に綺麗にしてから終わるのも悪くない。そんな風に思った。
さすがに掃除機を使うわけにはいかなかったが、明け方まで数時間かけ部屋を綺麗にし、その後シャワーを浴びて一度仮眠を取った。
我ながらこんな状況でよく眠れるものだと思ったが、人間、疲れていれば案外眠れるものらしい。
朝、いつもより遅めに起きて、いかにもな顔で母親に「体調が悪いから今日は休みたい」と伝えると、あっさりと承諾され彼女は学校に連絡を入れてくれた。その際、少しだけ身構えたが、どうやらこの時点では両親や学校側はまだ件の画像の存在について把握していなかったらしい。
(まあ、そりゃそうだろうって感じだけど)
教員たちの場合、年齢層に幅があるためどうだかわからないが、少なくとも既に四十代半ばである自分の両親が、夜中や早朝にSNSやネット掲示板などの巡回をしているとは思えない。
ともかく、いつもどおりまずは父親が出かけ、少し遅れて母親も出ていった。家に独りになった勇気はそれから遺書をしたため……そして現在に至る。
時刻は十時を少し回ったところだ。
勇気は椅子を引いて立ち上がると、そのまま椅子の背もたれを掴んで引きずりつつ部屋の中央へと運んだ。
部屋の中央には床にレジャーシートが敷かれ、天井付近の梁からは荷造り用の紐がぶら下がっており、その先端部分はちょうど人の頭が通り抜けられるくらいの輪っかになっている。もやい結びというらしい。ネットで調べた。
今からこれで首を吊る。
それで全部終わりだ。
「うん……しょっ……とぉ……っとっとっと」
落ちないように気をつけながら椅子の座面に上り、立ち上がる。これから死のうというのに、こうやって椅子からの落下になど気をつけるというのも妙な話だ。勇気はそれがおかしくて、少しだけ笑ってしまった。
「………………ふぅぅぅ」
両手で紐の輪っかを持ち、長く深く息を吐いた。
今さら怖いなどとは思わないが……さすがには緊張する。
輪っかに頭を通す。ここから先へ進めば、もう後戻りはできない。
「………………よし」
と、その時。
────♪
「?」
玄関でインターホンが鳴った。
まさか両親が帰ってきたということはないだろう。二人ならどちらであれ自分の鍵を持っている。あるとすれば来客……も可能性としては低そうだ。たぶん新聞の勧誘か何かのセールスだろう。
(……邪魔しないでほしいんだけど)
当然、出るつもりなどないのだが、なんとなく気が散る。
────♪
────♪
────♪
「なんなんだよ……」
まさかの連打だった。
平日日中の真田家は基本的に全員留守なのだが──だから知らなかっただけで──こういうことはよくあるのだろうか。
────♪
────♪
────♪
(いや、しつこすぎるでしょ……)
さすがにこのピンポンの嵐の中では死ぬ気にもなれず、勇気は両手で持った首吊り用の輪っかに頭を突っ込んだままという、はたして緊迫してるんだか間が抜けてるんだかよくわからない微妙な体勢のまま、耳を澄まし玄関の様子を窺い続けた。
すると。
!! !! !!
!! !! !!
「!?」
何かを強く叩く音。
いや、何か、じゃない。
明らかに誰かが玄関の扉を思いきり叩いている。意味がわからない。
そして──
──ん!
!! !! !!
──くん!
!! !! !!
──だくん!
!! !! !!
──んでしょう!?
!! !! !!
「え……」
扉を叩く音に混じって、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
(うそだろ)
信じられない。
「どうして……白百合さんが」
────♪
────♪
!! !! !!
──ねえ!
!! !! !!
──いるんでしょう!?
!! !! !!
──お願い!
!! !! !!
──出てきて!
!! !! !!
──おかしなこと考えちゃだめよ!!
「!? まさか……」
!! !! !!
──ごめんなさい!
!! !! !!
──私が甘かったわ……!
!! !! !!
──私、なんにもわかってなかった!
!! !! !!
──今度こそ守るから!
!! !! !!
──私の全部で守るから!!
!! !! !!
──だからお願い! 顔を見せて!
「……っ」
間違いない。
白百合は勇気の行動を読んでわざわざ止めにきてくれたのだ。
今朝、実際に顔を合わせた両親ですら気づかなかった勇気の心の
だというのに彼女はおそらく想像だけでその可能性に至りこうして駆けつけてきたのだ。
!! !! !!
──真田くん!
!! !! !!
──真田くん!!
「~~~っ」
もうとっくに擦り切れてしまっはたはずの勇気の心。
しかし、それでも僅かに残されていた柔な部分を、白百合の声がきゅうと締めつける。
「……っく」
勇気は思わず紐から右手を離し、その手でTシャツの胸元を強く握り締めた。
(なぜ……)
どうして彼女はここまでするんだろう。
白百合絢音──学園のマドンナ。
芸能人でも滅多に見ないような美貌に勇気よりも少し高い身長、そして抜群のプロポーション。腰まで届く黒髪は絹糸のようなストレートだ。
成績は毎年のように東大現役合格者を輩出する翔山高校で常に学年上位、おまけに運動まで人並み以上にこなしてしまうという、まさに非の打ち所のない完璧超人である。
どこをどう比べても勇気とは釣り合わない。あちらは主人公でこちらはモブ。普通なら一生交わらないはずの世界線を生きている。
何の因果かふたりの世界は昨日たまたま交わったが、放って置けば再び離れていったはず。なのにそれを強引に繋ぎ止めたの彼女だ。
『私はお節介な正義の味方なんかじゃない』
そう言ったかと思えば、
『あなたを守るわ』
などと言う。
わからない……。
やっぱり、勇気には白百合の気持ちがわからない。
「──いや」
そうじゃない。
(別にもう、わかる必要なんてないんだ)
こうして白百合が駆けつけてくれたことには感謝したいし、正直なところ感動すら覚えたが、だからといって勇気はもう死ぬことを翻意するつもりはない。
別に意固地になっているとか、そういうことではないのだ。単純にもう疲れてしまったのである。
生きていくために必要な大切な「なにか」がもう自分の中には残されていない──こぼれ落ちてしまった。勇気はそう感じている。
「ごめん」
そう呟いて、勇気は再び両手で紐の輪っかを掴んだ。
あとは踏み台にしている椅子を軽く蹴飛ばせば、それでこの世ともお別れだ。
(白百合さん……僕にひとに相談する勇気があれば。たとえばもっと早くにきみに助けを求めていれば。違う未来もあったのかな……)
目をつぶる。
「?」
おや、と今になって気づいたが、いつの間にか玄関が静かになっていた。
(諦めてくれたかな。けど……)
やっぱり、こうしていざ本当に去られてしまうと。
(寂しいかも)
ひどく矛盾している。たはは……と、勇気は目を閉じたまま苦笑いを浮かべ──────足元の椅子を蹴り倒した。
────!!
重力に引かれ、紐が首に食い込む瞬間、遠くでガラスの割れる音がした──……。
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