第四話 『迷宮都市オルテガと罪科の獣ギルガレア』 その557
―――レイチェルは、どこか楽しんでいたね。
夫とサーカス団の仲間が、どんな殺され方をしたのか全て記憶しているから。
最高の日々の果て、最悪の結末が待っていた。
息子を産んでいるあいだの、不在だった巡業の先……。
―――ひとり残らず、殺されたんだ。
覚えているよ、忘れることなんて不可能だから。
『人魚』の愛は、海より深い。
それほどの大きな愛が、帝国兵どもに襲いかかるのさ……。
―――直接的に、八つ裂きにしてやりたくもあるけれど。
キケの善意を無下にすることは、今夜はしない。
あっという間にマストの頂点に登ると、ギチギチと鳴く『諸刃の戦輪』を取り出した。
左右の手にそれらを持つと、レイチェルは思い切り叩き合わせる……。
―――自ら動く呪われた鋼は、何ともおぞましい雰囲気を持ってはいたけれど。
叩き合わされたときに奏でられた音は、おどろくほどに澄んでいた。
いつもギチギチと鳴いているのに、意外なことだよね。
その音色は力強くて、夜の海上をどこまでも駆け抜けるようだ……。
―――戦闘に備えて身構えていた者たちが、敵味方の別もなく。
一度の音に、耳を奪われていたんだよ。
キケも含めて、この場にいる誰もがレイチェルを見つめていた。
戦場の過度に高まった緊張感を、レイチェルは利用している……。
―――彼女は、左右の手のなかにある呪われた鋼を楽器にし始めたんだ。
耳心地の良い清涼な金属音が、リズムを持ちながら海上に響いていく。
漁師たちも帝国兵どもも、もちろん最初は戸惑いもしたけれど。
この美しい音色に、ゆっくりと心を奪われていくのさ……。
―――海に生きる者たちにとってね、歌というものは特別な価値を持っている。
レイチェルが奏でているこのリズムは、ある意味ではシンプルなものだったが。
それは明確な意味合いを持っているという証でもあって、漁師たちはすぐに理解したよ。
『中海』南部地域に伝わる音楽が帯びた特有のリズム、まさにそれだったからね……。
「引き歌だ、引き歌だ!」
―――漁師たちはレイチェルの意図を、またたく間に理解した。
彼女の心を読み切ったわけじゃないけれど、この伝統は深層心理まで刻まれている。
海の男たちにとって、歌というものは労働と密接に結びついているものさ。
船は腕力を用いて操られる、巨大な帆もそうだし船体の重量もそうだ……。
―――港に入れば、これらをつなぎ留めなければならない。
とてつもない重量をつなぐロープは、あまりにも太くて重たいものだ。
これを操るだけでも、大仕事になるよ。
家の何倍も大きな船を、腕力だけで動かすということだからね……。
―――海に浮かんだ船を、引っぱるときもある。
地獄のような重さだし、船を修理するときに丘に引っ張り上げるときもあるよ。
これはさらにけた違いの重量との戦いだ、浮力の加護は一才なくなるから。
大勢の男たちを集めて、ただただ人力に頼る……。
―――そのときに使われるのが、『引き歌』だ。
恐ろしく疲れ、とてつもなく危険な労働。
船の総重量を動かすだけでも地獄だが、それを支えるロープが切れたら?
爆発音とともに、人を打ち据え叩き潰す力が暴れる……。
―――ロープは、力の権化となるものだ。
素晴らしい労働の道具であると同時に、大事故のもとさ。
弾けたロープはどんな屈強な男の肉体でも、あっさりと破壊してしまう。
危険な労働の現場では、意識を集中し統率を保たねばならない……。
―――そうでなければ、命の危険があるからだ。
それと同時に、楽しみでもある。
どんな苦行であったとしても、娯楽がその苦しみを和らげることは誰もが知っているね。
海の男たちも労働の痛苦に耐えるため、自然と歌に魅入られてきた……。
―――本能みたいなものだから、ほとんど完璧な再現性を持っているよ。
まるで数学みたいな再現性だ、本能からは誰も逃れられない。
『引き歌』も、そのひとつ。
漁師たちの体は、レイチェルの作り出したリズムに動かされていくんだ……。
―――足で船を踏んで、肩の動きがだんだんと一致していく。
船を引け引け、単調でありながら力強さと生命に満ちた海の男たちの歌。
レイチェルはこの土地に伝わる、『引き歌』の特徴的なリズムを把握している。
それはサーカス団の仲間のひとりから、教わったものでもあるし……。
―――勉強熱心で、芸ごと全般に対しては異常なまでのオタクであった夫から。
しっかりと音楽的教養を、習っていたからでもある。
実際に耳で聴いて学び、『プレイレス』特有の音楽理論も修得済みだってこと。
音楽というものは、他の芸術と同じように勤勉な天才を愛してくれる……。
「んー。るー……」
―――レイチェルの美しい声が、星空の下に広がっていたよ。
『引き歌』の始まりを理解していた漁師たちは、彼女のさえずりに従った。
人魚のそれとは異なり、野太くて蛮族めいたものだ。
労働の痛苦には、いつも怒りが伴いもするからね……。
「さあ。怒りの『引き歌』を、始めましょう」
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