序章 『雨音は湖畔の屋敷に響く』 その92


 どんなところに甘噛みしてもいい権利ってのは、とってもステキなことだろう。男が求める場所なんてものは、大してバリエーションもないものだけれど。噛みついたり、舐めたり、抱き締めたり、調子に乗り過ぎてほほをつねられたりする。


 とても良い夜を過ごせたね。


 愛ってものには、境界線とか輪郭は定かじゃなくなる。そういう絆のつながりは、人生で何よりも大切なことの一つだった。


 ぐっすりと眠り。


 そして、早朝がやって来る。


 夏の早い朝陽をまぶた越しに感じながら、リエルの声に我々は起こされるんだよ。


「さあ、みんな。朝であるぞ!」


「……もう、朝か……」


「心地良い時間は、早く過ぎちゃうものですねえ……ふわあ」


「そうっすね。ついさっきまで、ソルジェさまに……されてた気がするっすのに……っ!」


「自分で言って照れているでないぞ、カミラよ」


「う、うん。ついつい、口走ってしまったっす……」


「分かるぜ。オレも、ついさっきまで色々していた気分だ」


「そうっすよねえ。ソルジェさまあ……っ」


 カミラが笑顔になって、オレの身体の上をすべるように進む。欲しがってるような顔をしているけれど、キスされるだけで終わってくれた。オレは、おはようのキスより濃厚な朝の夫婦活動でも良かったけど……お仕事が、待っている。


「ぷはあ。ああ……愛を補給っすー」


「じゃあ、私も」


 負けず嫌いなロロカ先生に、腕を回されて赤毛の生えたアタマは抱き寄せられる。豊かな胸に押し付けられながら、額に唇を使われた。吸うように唇が柔らかく動くし、顔面の下半分には豊かでやわらかなものがあるから……とてもたまらない。


 でも。


 ちゃんと節度は守る。リエルが怒り出す前に、我々はちゃんと動き始めたよ。豪華な寝室に隣接する浴室で、水をためたバスタブにつかって、石鹸の泡だらけになったりする。楽しいこともしたよ?リエルを指でからかったりもしたが……もちろん、節度は保つ。


 プロフェッショナルだからね。


 すべきことは、ちゃんと分かっている。すべきでないことを、している場合ではないということも。それでも、愛ってのを表現する時間は貴重だからね。ちゃんと、時間の許す限りいちゃつくことは夫婦の義務でもあるんだよ。


 風呂を上がると、遠い地平の果てで朝陽が昇り始めていた。朝飯の時間になるから、ミアを起こしに行く。乙女の寝室をノックする。当然ながらの無反応さ。一秒だって長く眠ることをミアは選んでいるはずだ。


 それも猟兵としての正しい哲学である。


「入るぜ」


 断りのために言葉を使い、ドアを開けて……大きなマクラを抱きしめたまま、あるべきとは逆の位置となった姿勢で眠るミアを見つけた。マクラがあるべき場所には、ミアの足先がいる。相変わらずの睡眠拳法家だ。添い寝していると、あごを蹴り上げられたかもしれん。


 眠っている者の気配は読めんからな。


 それでいて、眠っている者はこちらの気配を読めないとは限らないのが面白い。研究すべき点を含んでいそうなところだな。ミアに近づくと、ぐるりと小さなカラダが回転するシーンを診れた。足刀にあご先を蹴られそうになる瞬間に先んじてね。


 読めていなくても、予想はしていたから躱せるよ。


 これぐらい躱せていないと、ミアのお兄ちゃんをやることなんて出来やしないからね。


「ミア、ミア。おーい……朝ごはんだぞ」


 魔法の言葉を使う。朝ごはん。成長期のミアにとっては何よりも大切な行いだな。寝ぐせのある黒髪のなかに生えたケットシーの愛らしい猫耳がピコピコと動く。黒真珠の瞳がゆっくりと開いた。寝ぼけて、ちょっとよだれがあふれている口もとも開く。


「ごーはーん……っ!」


「そう、ごーはーん」


「やったー!……ゴロゴロからの、ぴょーん!」


 ミアは勢いよくベッドの上で転がり、跳躍用の姿勢を作ると、カエルさんみたいにビョーンと跳ねて来た。宇宙で一番可愛らしい行動だよね。シスコンだから、そう思うんじゃないと思うよ。宇宙の真理ってやつさ。


 だから。


 お兄ちゃんは義務を果たすよ。


 両腕を広げて、飛びついてくる笑顔を受け止めたから、しっかりと抱きしめる。


「えへへ」


 寝ぼけたミアの笑い声は、幸せな調べだよ。満足そうだからね。その幸せを感じられる黒髪にお兄ちゃんは、あご先を乗せていく。いつもの兄妹の儀式が無言のうちに始まるよ。ミアはアタマをぐりぐりと動かして、お兄ちゃんのあごを揺らしてくれた。


 すごく。幸せになれるよね。


 だから、これは大切な兄妹の儀式なんだよ。


 幸せに浸っていると、ミアの耳がピョコンと反応する。


「どうした?」


「美味しいにおいが、やって来てる。これは、焼き立てのパンだねっ」


「おお。そうみたいだな」


「にゃふふ。良いねえ。メイドさんたち、美味しいパンを用意してくれているっぽい。こんなに朝早くなのに、感謝だよねえ」


「まったくだ。さてと、食べに行こうぜ」


「うん。お兄ちゃん、肩車モード。このお屋敷ね、屋根が高いから。出来ちゃうよね?」


「おう。やってやるぞ」


「やったー!……よいしょ、よいしょ」


 お兄ちゃんの胴体にしがみついて、背中に回り、そのままよじ登る。器用なもんだ。木登りの技巧を感じられる。訓練にもなるよ。竜乗りのね。我々は、常に、竜騎士だ。


「じゃあ、ゴー!」


「おう、いざ朝飯だな!」




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