序章 『雨音は湖畔の屋敷に響く』 その87


 マエスの集中力を邪魔しないように、アトリエの隅に寄る。ロバートはニコニコしていた。


「こうやって、隅に寄ることも訓練になっていますね」


「マエスの集中の『外』を探ったからか」


「ええ!さすがです!」


「……えーと。私にはついていけなさそうね」


「そんなことないよ。ヒトの集中力というものは、目にこそ見えないけど。こうやって感じ取ることは出来る。それは、ヒトが本能的に持っている力でもあるんだ」


「芸術家の言っているコトって、難しいわね。椅子に座って、見物しておくことにする」


「そ、そっか。面白いんだけどなあ……」


 無理強いしても良くない。たしかに、これはおかしなレッスンだった。見えないものを感じ取る。気配の取り合い。武術家や芸術家でもなければ、意識することもない世界だ。


「じゃあ、その。レッスンを始めますね!」


「頼む」


「私たちの流派では、演劇において大切なものの一つが『間合い』です。これを決めているのは、まずは動きなのですが……それだけでなく、ヒトが持つ精神的な圧です。気配、そういうものですね」


「……やっぱり、私には分かりそうにない」


「いや、これは、その……説明はしにくいんだけど、本能的に皆が持っていて、普段から使っているんだ。意識しないだけで実在しているものでね?」


「具体的には?」


「え?そう……だね。ストラウス卿、その……『殺気』を放てますか?」


「当然な」


「では、お願いします」


「おう」


 意識を集中する。戦いの準備を……心構えを作る。むき出しの闘争本能、剣を鞘から抜くのと同じように……戦闘へと備えようとすればいい。『殺す』。その意志を、ちょっとだけ放つ。


「……ッ!?」


 クロエの体がビクリとはねたので、すぐに『殺気』を消した。休日モードのお兄さんだよ。


「ほら、見えないけど、実在しているよね!」


「……そう、みたいね。ストラウス卿に、襲われるかと思っちゃったわ」


「言い方が良くないな、人妻よ。オレがスケベ野郎みたいじゃないか」


「『殺されそう』っていうのも、良くないでしょうに。でも……そうね、身をもって『見えないけどあるもの』ってのを体感させてもらえた」


「そうだよ。これが、『気配』の一種で、『殺気』」


「不思議ね。魔力とは、違うのね」


「うん。とても細かなもので作られている。表情とか、ちょっとした姿勢。そういうものから『にじみ出るように放たれ』て、ヒトが知覚することが可能な感情的で、本能的な信号。それが、『気配』。私たちの流派では、その気配を間合いに一致させることで、表現の力を強めているんだよ」


「器用なことをしてるのね。『気配』と、『間合い』を、一致?……そんなこと、出来るの?」


「出来るさ。だからこそ、演劇という『作り物』のはずの動きに、ヒトは感動することもあれば……悲劇に涙することだってやれる」


「ああいうのは、感情を見ているからじゃないのかしら?悲惨な目に遭っている姿に、共感してる……から?」


「それもあるけれど、間合いもあるんだ。えーと……これが、『悲しい間合い』」


 我々から数歩離れ、ロバートは振り返りながら笑顔を浮かべた。両手を広げ、まっすぐにクロエを見ている……。


「素直に感じてね、クロエ。今、私の笑顔は、どんな印象かな?」


「……嘘っぽいわね」


「そう。笑顔って、本当なら明るいはずなんだよね。でも、こうやって周りからの交流を拒絶するための間合いを作るだけで、嘘くさくニセモノじみてくる。まるで、強がっているように不自然だ」


「それが、『悲しい間合い』ってことなのね」


「うん。クロエは演劇の訓練をしていないけれど、ちゃんと『悲哀』をこの間合いに感じ取ってくれた。まあ、多少の顔芸とか、肩の高さを変えてもいる……つまり、身体の動きでも印象操作をしてはいるけれど、間合いこそが大きな意味を持っていた」


「……分からないわね。でも、うん。おかしなことだけど、感じられはする。『悲しそう』だから、近づいてあげたくなったもの」


「そう。それでいいんだよ。『分からなくても感じられる』。実在している証だよ」


「私の旦那さまは、見た目が良いだけじゃなくて、そういうテクニックも使って魅力を操っているわけね」


「うん。でも、プライベートじゃ、やらないよ」


「ええ。意図的に、感情なんて操らないで欲しいもの」


「本物の感情のときは、演技は要らないからね。クロエには、勝手に『恋焦がれた男』の間合いを使っている。近づきたがっている。足先を君に向けて、切なげに交流をねだっているんだ。だから、私の感情って、君にバレバレだよね?」


「バレてる。貴方は、舞台以外だと素直なんだと思う」


「そうなんだ。とくに君の前では―――っと、失礼、ストラウス卿。いちゃついてしまいましたね……っ」


「新婚なんだから、構わんよ」


「ええ。でも、授業はしておかなくちゃ。このテクニックは、ストラウス卿を助けられると思います。敵の気配を、より探りやすくなるための指針を、もしかしたら教えられるかもしれません」


「なるほど。それは、良いコトよね。敵から殺されにくくなるかもしれない。だから、ストラウス卿は、この力を欲しがったんだ?」


「まあ、そんなところさ。マエスと絡んで、色々と発見があったんだよ。『プレイレス』の芸術家たちの知覚の力は、オレを強くしてくれそうな気がしている」




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