序章 『雨音は湖畔の屋敷に響く』 その82


 とにかく、風邪にかかりにくさに定評のある二人でジャンのお見舞いに向かう。階段を上がると、掃除をしていた雇われメイドさんと遭遇した。流麗な所作でお辞儀される。


「お帰りなさいませ」


「ああ。ただいま。ジャンは、どんな調子だい?」


「ジャンさまはもうお熱も下がりましたし、順調に回復なさっておられるようです。お料理もご自分で食べられていました。私がスプーンで食べさせようとすると、身を震わせていましたが……」


「それは夏風邪とは別の原因だよ。女慣れしていないのさ」


「なるほど。そういうサービスも手配した方が?」


「いらんぞ。エッチなことは覚えさせんでいいのだ」


「そう。近いうちに教えてくれるパール・カーンという相手もいるんだ」


「かしこまりました。では、私はお掃除に戻ります。御用があれば、何なりとお声かけくださいまし」


「そうする。ありがとう」


 会釈されて、雇われメイドは立ち去って行く。この広い屋敷を掃除して、清潔に保つということだけでも、なかなか大変な行いじゃあるし……。


「さらりと、エッチなサービスのことをにおわせておったような気がするのだが。『モロー』のメイドは何を考えておるのか……」


 想像以上に高級なおもてなしを受けていたのかもな―――という発言は、男同士にならば使いやすいけど、ヨメには使うべきじゃない。


「ちょっと、変わっているらしいね」


 無難な言葉で茶を濁しておくことにするよ。あんまり、しょうもない言葉を使い過ぎると、『歴史上で一番偉大なヤツ』への道が遠のくような気もした。


 絨毯の敷かれた廊下を歩き、ジャンの寝室へと到着する。気配で、オレたちがいるのは理解しているだろうが、ノックするよ。礼儀だからね。


 コンコンとドアが良い音で鳴ると、すぐさま返事が戻って来た。


『は、はい!ど、どうぞです、団長!リエルさん!』


「入るぜ」


「邪魔をするぞ」


 部屋に入る前から、分かっていたことではあるんだがね。我らがジャン・レッドウッドは『狼』モードに化けていた。


 ベッドの上に毛布をかぶった大きな犬……じゃなくて、『狼』がいて、こっちを見つめてくれている。


「どうして化けておるのだ?」


『そ、その。こ、こっちの状態の方がですね。さ、寒さとかに、少しだけ強いような気もしますし……よ、より頑丈になれるというか、傷の治りとかも早いんですよね』


「自然治癒力が上がるというわけか。それならば、その姿で過ごした方が夏風邪の治りも早いかもしれぬな」


「いい試みだ」


 ジャンにとっても確証があるというよりも、実験といったところなのだろう。しかし、その予測が正しければ、今後の人生にとって大きな武器ともなってくれることだ。


 それはジャンの健康にとって意味あることであるし、喜びそうな者を何人か知っている。


「パール・カーンに伝えれば、『狼男』の研究が進んで喜ばれるかもな!」


『そ、そう、かも、しれませんねっ!』


「喜ぶさ。呪術の研究者には、貴重な情報となりかねん」


 オレの予想が間違っていなければ、『メルカ』のルクレツィアお姉さんも喜ぶだろう。『呪われた血』を持つ者は、とても希少な存在でもあるし……『狼男』や『熊神の落胤』たちの身体能力は強力無比だ。研究対象とする価値は、どう考えても十二分にある。


 それに。


「もし、パールの研究に関係が無かったとしても、貴重な会話のためのアイデアになるだろ?」


『そ、そうかも、しれません』


「そうなんだよ。ちょっとしたことでもいいから、自分のことを手紙に書いたり、会ったときには言ってみたりするといい」


『りょ、了解です!』


 犬の……いや、『狼』のしっぽがベッドの上で嬉しそうにブンブンと振られている。ああ、このモードならば、メイドさんたちも食事を自ら食べさせてやろうとするかもしれんな。


「……メシは、食えたな?」


『はい。お、美味しかったです。イワシ料理と、あ、温かいコーンスープが最高でした』


「オレたちと同じメニューだぜ」


『そ、そうだったんですね。嬉しいです』


「ああ。オレもだよ。皆で同じメシを食べられたってのは、いいもんだぜ」


『はい!』


「それで。ジャン・レッドウッドよ。風邪の方は、どうなのだ?メイドからは経過は良好と聞いてはいるが」


『ね、熱も下がりましたし。関節の痛みも、き、消えてますね。それに、魔力じゃなくても、きゅ、嗅覚でゼファーが戻ったことも感じ取れたので、鼻も、機能しています……雨でも、こ、ここに近づいているヒトも、分かりますし……順調です。そ、その、たぶん、見えると思います。そこの窓から……』


「客が来るか」


『お、おそらく。鋼のにおいは、し、しませんので。エルフと、人間族……馬と、香水と……『モロー』の、き、北の方のにおいですね』


 窓へと向かっていたリエルが、オレの予想していた者たちの名前を口にした。


「クロエとロバートが来たようだぞ」


「『ツェベナ』の役者と、その妻というわけか。このタイミングで来たのは偶然ではないな」


「うむ。出迎えてやらねばなるまい。ソルジェは、行くと良いぞ。私はジャンの脈と舌の色を診て、夏風邪にトドメを刺すための秘薬を煎じておくから」




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