序章 『雨音は湖畔の屋敷に響く』 その81


 風に乗ったゼファーの飛翔はスムーズで、あっという間に湖面を越えてくれる。旋回を使う減速ではなくて、翼を広げて風を掴んで遅さを得た。


 ゆっくりと降りて行きながら、蹴爪で水面を切り裂き湖に乗る。氷の上をすべるようにはいかないが、ゼファーは心地よさそうだ。水を裂く楽しみ―――子供の頃にはあったヤツだな。まだ仔竜だから、それを素直に楽しめるんだよ。


「わーい!大きな波だー!」


『えっへへ!たーのーしーいー!!みんなも、たのしいよねー!』


「ああ。オレも好きだぜ、こういう波!!」


 水面を蹴ったりもするからな、オトナでも。今年はした記憶はないが、去年の夏は確実にしている。水の重さってのは、壊す感覚がタノシイからね。


『とーちゃくっ!!』


 水を切る旅はすぐに終わる。岸辺にたどり着くと、ゼファーは首を左右に振った。まだ遊び足りなさがあるのだろうが……雨を見上げる。ちゃんと考えてくれているんだよ。『パンジャール猟兵団』にとって、最良は何かを。


 自分をガマンすることも、一緒に生きるときには必要なことだった。たとえ、全ての生命の頂点に君臨する竜であっても、その法則からは逃れられはしない。しっぽをね、ぶおん、ぶおん、と大きく振りながら歩いて、夏風邪を引いたジャンの待つ屋敷の前まで行ってくれた。


『ちゃーくち!』


 竜の腹を地面に寝かせて、我々が飛び降りやすくしてくれたよ。


 『ドージェ』だからね。ちゃーんと、偉い仔竜の首根っこをね、わしゃわしゃ撫でて笑い声を聞いたよ。ミアも同調してくれる。お兄ちゃんと一緒になって、わしゃわしゃが倍増したな。


『きゃはは、くすぐったーい!』


「いい子だから、ご褒美だよ!」


「うむ。ゼファー、遊びよりも私たちのことを考えてくれたわね」


『うん。じゃんをー、ほうちしてたら、かわいそうだからー。でも、これからー。もういっかい、みずうみを、つめできりさきにいきたいっ!……だめ?』


「いいぜ。楽しんで来い。鎧は、後でまた拭いてやるからな!」


『えへへ。やったー。じゃあねー、みんな。じゃんにね、よろしくー』


 愛らしいウインクを残して、ゼファーは鼻歌まじりに湖へと向かう。仔竜の動きというものは、じっくりといつまでも見つめていられるものだがね。小雨が服に染みることは、夏風邪を招くかもしれない。サウナで温まったはずの身体を冷ますことはない。


 まあ。夏だから。


 蒸し暑さはあるんだがね。油断は、すべきじゃない。ジャンが風邪を引けたということは、我々の誰がそれを引いてもおかしくないということなのだから。


「お兄ちゃん、早く。濡れちゃうよー!」


「ああ。すぐに行く」


「……では、私はアトリエに戻るぞ。ミスター」


「送って行くべきだな、レディーを」


「『放浪派』の芸術家には、要らん気遣いだ。どうせ、またすぐに来る。夕飯を漁りにな!」


「おう。待ってるよ」


 小雨のなかを楽しそうに歩く。雨を知覚することで、マエスにしか分からない記憶だとか、感性を磨いているのかもしれない。『とんでもない芸術家』は、やはりいつでも興味深さを帯びているな……。


 ニンマリと笑い、ミアが扉を開けたまま待っててくれた玄関から屋敷に入ったよ。


「お帰りー」


「ただいま」


 『家族』らしいあいさつをする。ここは家というわけじゃないが、『放浪派』と同じぐらい旅の空を味わっているであろうオレたちはね、こういう会話の大切さがよく分かっているんだよ。


『くえええ!!』


 不意打ちを狙い、白い『フクロウ』が屋敷の廊下を飛び抜けて来やがった。


「……相変わらず、オレのアタマを爪で切り裂きたいってわけかよ!」


「ほいっ!」


『くえっ!!』


 オレの頭皮には厳しいタイプの『白フクロウ』なのだが、ミアにはやさしいらしい。まあ、別にいいけどね。ミアに甘い生き物は、当然ながら大好きだ。『白フクロウ』は見事に羽ばたきを操り、ミアの突き上げた手のひらの上に着地する。爪を立てないように、曲がった太い爪が反り返っていたよ。どうして、オレの赤毛に対してはその気遣いを持てないのか……。


『くえええ!!』


「はいはい。お疲れさま。カミラ、チーズあるかな?」


「あるっすよ。ポーチのなかに……はい、どーぞ、『フクロウ』さん」


『くえええ』


 女子に甘いところを見ると、やはりオスなのだろう。カミラからチーズの切れ端をくちばしのなかへと放り込まれて、嬉しそうに首を持ち上げて丸呑みしていく。


「じゃあ、お手紙を回収だよ……っと」


 暗号文が詰まった足環が、妹の手で外される。だから、お兄ちゃんは受け取ろうとしたのだが……巨人族の長い腕に先を越されていたな。


「仕事の暗号文は、私が目を通しておきましょう。団長、今日はしっかりと休息をしてください。朝から殺人事件を解決までしました。つまり、どういうことだと思いますか?」


「オレは役に立つ男だ」


「働き過ぎだということですよ。しっかりと、お休みください。緊急の案件であれば、当然ながら伝えますから」


「私も目を通しておきますので、ご安心を。『ストラウス商会』の動きも、ある予定なので……ソルジェさんは、お休みを。休むのも仕事です」


「……わかった。じゃあ、ジャンの様子でも見てくるよ」


「私も行こうかな?」


「ミアちゃんは、行かない方がいいっすよ。風邪、うつったら大変っすから」


「うむ。森のエルフで夏風邪を引かない私と、ソルジェで行こう」


「オレは夏風邪を引いたことがあるぜ?」


「も、森のエルフも、あるからして……っ。その、免疫が頑丈で、風邪を引きにくいだけということを、伝えただけで。アホだからでない、ぞ」


 ふくれる顔のヨメさんエルフは可愛いものさ。


「意地悪に、笑うではない」


「リエルが可愛いからさ」


「それは、そうである……っ。が、少し、からかわれている気持ちは消えんぞ!」




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