序章 『雨音は湖畔の屋敷に響く』 その70
静かに流れる旋律と、その裏側には水滴みたいな拍がある。屋根の軒先から落ちて、土に当たって弾けながら小さな穴を開ける……雨垂れの気配がそこにはあった。
のんびりとした小雨の旋律に聞き惚れていると、旋律が気配を変えていく。
ミアの耳が縦に伸びるように動いていたよ。探したんだ。何をかって?……竜騎士ならば、この空の気配を感じ取ったのならば、探さないといけない。雷の音を。雷の光を。
「……ゴロゴロ……」
マエス・ダーンの指が生む旋律は、弱い雨を降らす灰色の雲から、少し厚みと黒さのある雨へと変わったんだ。風で上空が巻き上げられるように渦巻いている、雷を伴う雲へと。
今は、自然を鏡のように映した音じゃない。
さっきまでは、今の空とそっくりだったけれどね。今は、幻想の雨音と風と雷鳴の気配を帯びた旋律となっている。ミアも、オレも。『騙されそうになっていた』んだよ。さっきまでは、空と同じ音だったから……旋律が変わると、天窓を打つ雨を見上げて、確かめなくてはいけなかった。
空模様が変わった気がしたんだよ。
それほど、マエスの指が創った雨の曲は『自然な変化』を持っていた。雨が強く変わるときの兆しを、しっかりと表現していたに違いない。我々は、大して芸術的な教育を受けたことはないのだが―――それでも、竜騎士なんだ。500年の伝統を継承する、空の達人だからね、空には詳しい。
だからこそ、『放浪派』の師弟が『プレイレス』の空の下を旅して、その身に感じることで学び取った『自然な雨音の変化』の技巧に、反応することが出来ているんだ。
どっちも。
すごいだろう。
竜騎士の500年も、『放浪派』たちの旅路も。
強い雨音と、雷の気配がね……ゆっくりと、柔らかな旋律にまた呑まれていった。黒の渦巻く雲から、わずかに陽光が差して白く輝く雲になる……。
空と同じだ。
マエスは、『プレイレス』の赤土の大地を打つ雨と、西から来る風を見ているに違いない。いつか、旅路の空の下で。師匠と一緒に見上げていたんだろう。雨宿りしている者が、空にこの白さと、弱まった雨と出逢えたとき。今みたいに、明るい旋律と、子供が歩くみたいな拍が混じるんだろう。
ガキのころのマエス・ダーンは、雨が終わったばかりの街道を、走ったのかもしれん。次の街や、次の自然が、恋しかったのかもしれないな。
旅を長くし続けた者にはね。
この感覚が、よく分かるんだよ。
……オレやミアよりも、長く旅をしているのかもしれないな。マエスだけの感覚ではないわけだから、当然じゃある。『放浪派』と呼ばれる芸術家たちの歴史を、マエスは師からも受け継いだのだろうから。
じゃないと。
きっと、ここまで何でもやれはしないさ。才能もスゴイんだろうけど、良い師匠に恵まれなければ、その多くの力を引き出せることはないだろう。空を、教えてもらえたな。人の心の、美しさや、醜さも……旅をすれば、世界は本当に、露骨なまでに、現実を克明に教えてくれるものだから。
差別されながらも、『プレイレス』の亜人種芸術家たちは旅して、力を磨いて、芸術を創り、伝えたんだ。何十人とかじゃなくて、何百人。何十年じゃなくて、何百年。そういう伝統を、マエスは師匠を経由して継いでいる。
だから、これほど見事に空を再現し、空を伝えられるんだろう。
雨が上がる。
現実の空は、まだ小雨のままだけれど。旋律は雨を止めて、空は白さを取り戻す。雨垂れの拍は消えて、足音だ。たぶん、ガキの頃のマエス・ダーンが、ハーフ・ドワーフの師匠のじいさんの腕でも引っ張って、雨宿りの場所から出発したのさ。
そういう顔をしているからね。
当たってるんじゃないかな。
指が、鍵盤の上で止まる。
バスタオル一枚だけの美女は、ニンマリとした笑顔になったよ。称賛を欲しがっているんだ。このあたりのお調子者さも、きっと、生来のもんだろうよ。
「すっごおおおおおおおい!!マエス、すごおおおおおい!!一番じゃないけど、かなり上手いよ!!」
ミアの評価は、ほんとうに失礼なほど正しかったよ。『ピアノの旦那』や『ツェベナ』のテレーズに比べると、技巧は劣る。それは、確かじゃあるんだが……。
「ハハハハ!!素直な子だな、良いぞ、そういう素直さがあってこそ、子供だ!!こっち来い!!お姉さんが、ハグしてやろう!!」
「暑いから、いやー」
「素直だ。男だったら、金を払っても私に抱き着きたがるところなのに。そうだろう、ミスター?」
「オレに訊くなよ。愛するヨメたちに囲まれた、純愛の化身だぞ?」
「ふむ。北方人の美学は、なかなか興味深くはあるな―――だが、良い耳だ。良い素直さだ。それは、とても良いことだぞ。お前も、『私が一番の弾き手じゃない』って面だ」
「順番を決めるもんでもないさ。今、このとき。目の前で音楽を聞かせてくれている芸術家は、ただ一人だけだしな」
「うむ。芸術とは、役に立たねばならん。という点では、私は、諸君らのなかにいる最高の弾き手たちにも、少しは勝てた!」
「うん!」
「ああ、ありがとうな、マエス。素晴らしい曲だったよ」
「だったよー。あ。お兄ちゃん、拍手!拍手しなくちゃ!!」
ショーマンに対しての報酬は、銀貨と称賛。サーカスの天幕の下で、それを味わった『人魚』によって、我々ストラウス兄妹もしっかりとその『常識』を魂に刻み付けられているんだよ。
だから、惜しみない拍手を捧げる。
ニンマリと笑う芸術家は、胸を反らして、その称賛を傲慢な首に受け止めた。まるで、竜みたいにね。優れた者であることを示し、称えられることが大好きなんだよ。
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