序章 『雨音は湖畔の屋敷に響く』 その69


 ピアノを歌わせることはまたいつかにして、探検を再開するんだよ。遊戯室のビリヤードやダーツは、後から遊ぶことにする。どちらも得意だぜ。


 とくにダーツは……我々のような戦士からすれば簡単すぎるところある。目隠しだとか、後ろ向きに投げるとか、ちょっとおかしな制限をつけなければ勝負にもなるまい。武術の達人特有の、非常識さというものがあってね。ときどき、常識の範疇で遊べないこともあるのさ。


「この部屋、なんだろ?……せまい!」


 遊戯室の一角にあるドアを開けると、せまい空間がある。居心地の良さはないが、大きな鏡台とタンスが並んでいた。つまり……。


「『楽屋』ってことかな。音楽家を呼んだりしたときに、着替えてもらう場所だろ?」


「なるほどー。そういうところにも気をつかっているんだね!集中を、高めるための場所!」


「ヒトは、環境に対して順応する動物だからな。この音を遮断するように閉鎖された空間で、あの大きな鏡の前で化粧でもしていると、より良い芸術家に化けられるんだろう」


 遊戯室の広さと高い天井とは、まったく逆の質を持つ空間にも、ちゃんとした力と意味が込められているわけだ。ここで、集中力を研いで、『変身』する。『卵』みたいなもんだ。ここで変わって、殻の外に広がる広い舞台に出て行く……。


 芸術家には準備も必要だしな。もちろん、芸術家たちを受け入れる観客もそうだ。いきなり、芸術家が目の前にいるよりも、登場を待ち望んでいなければ、面白さが弱まる。隠していると、期待も強まるからね。


「あちこち、面白い部屋があって、いいねー」


「そっちは……」


「ん。たぶん、ベランダかな?」


 小さな手がドアノブをひねり、この遊戯室の端と空をつなぐ。


「おー!いい眺めー!」


 小雨が降る『カルロナ』の街並みが、そのベランダからは一望できた。古さのある街並みに、静けさを帯びた小雨は似合う。


「ここでも、ゴハン食べられそうだね。晴れていたら!」


「日光浴も、楽しそうだな」


「うん。夜だとは、星も見える!ステキなベランダだー!」


 酒とか片手に、夜景を見回すのも楽しそうだったよ。夜は、晴れそうだからそういう遊びをしてみるのも良いかもしれない。酒の相手をしてくれる巨人族の友も、来てくれていたようだから。


「ガンダラちゃんだー!おっ帰りー!!」


 小雨の道を、傘からはみ出しそうな巨体を揺らしてガンダラがやって来る。ミアが両腕を降るものだから、あの不愛想な男も傘を少し上下に揺らして合図をしてくれた。


「衛兵隊と話してくれていたわけだ」


「そうそう。でも、お仕事のハナシよりも、遊ぶ方が大切!」


「休暇中だもんな!」


 ガンダラからの報告は、後でもいいさ。今は、ガンダラを出迎えるためにも、ミアが雨で濡れてしまわないようにするためにも、屋敷のなかに戻るべきだった。


「ミア、雨に打たれないようにしようぜ」


「ん。ジャンみたく風邪引いちゃったら、せっかくの休暇を楽しめないもんね!」


「そうだ。油断は、禁物ってわけさ」


「ラジャー!」


 くるくると、ベランダの上で踊るように回ったミアは、そのまま開いたドアの向こうへと戻る。楽しい気持ちがあふれているようだ。だから、あんな動きだってするんだよ。良いことだぜ、休暇ってのは、そうじゃないとな。


 ミアに続いて、お兄ちゃんもニヤニヤした顔で小雨から逃げる。


 ……室内に戻ると、階段を駆け上る音が耳に入った。


 ガンダラではない。まだ、屋敷の前にいるはずだったし、あのクールなインテリは戦場でもなければ、こんな慌ただしい走り方をしない。心当たりがある人物は、ただ一人だけだった。


「サウナから、出たぞ!!」


 バスローブ姿の『とんでもない芸術家』が、子供みたいな足取りで遊戯室までの道を駆け上ったようだ。風変わりな人物ではあるが―――目的のない行動はしない。やりたいことを、迷うようなヤツじゃないってことは、半日つるんで理解している。


 やっぱり。ピアノへと、一直線だった。


 鼻歌まじりにピアノの前の椅子へと着席すると、空中で獲物の鳥に襲い掛かるときの猛禽みたいに両腕を左右に大きく広げて、その長い指に力を込めた。これも、獲物を仕留めるときの爪みたいだったよ。


 迫力のある姿勢だ。


 もちろん、そんなものを見せつけられたら、うちの妹が期待に心を弾ませるに決まっている。


「マエス……っ。弾けるんだね!ピアノが!」


「当然だ!『プレイレス』の芸術家は、とくに『放浪派』は、諸芸は押さえておかねばならん!芸術とは、知ることなのだからな!!聞くがいい、私の即興演奏を!!雨音と、さっきの君らの演奏を聴きながら、ピンと来たやつだ!」


「つまり、私が作曲したんだー!」


 それは言い過ぎな気もするが、マエスは喜んでいるな。


「そういうことだよ!インスピレーションを、ありがとう!さてと……」


 猛禽が鋭い視線を作り上げると、白黒の獲物をにらみつける。芸術への勉強が間違いなく足りないストラウスの兄妹だって、その雰囲気が命じる『黙ってろ』には従えたよ。


 兄妹そろって、お口にチャック・モードさ。


 すぐさま、わずかな雨音以外の音が、ここからは消え去って……。


 それを待っていたかのように、サウナ上がりの少し赤くなった長い腕が、音のために動き始める。


 鷹のような気配は、消えて。


 マエスの豪胆さからは、想像しがたいやわらかな動きが、その旋律を奏でていく。


「……わー……っ。これ……雨……の音……っ」


 ミアの猫耳が、旋律に合わせて踊る。さすがは、『とんでもない芸術家』か。今の空模様を、天窓を打つ小雨のリズムを……音へと変えたらしいぜ。




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