序章 『雨音は湖畔の屋敷に響く』 その60


 雨の音がする屋敷のなかで、殺人鬼野郎の日記を読み上げて行く声を聴く。アリサ・マクレーンは、いつだって理想の芸術家であった。憧れから、不当な憎悪と怒りに堕ちて狂っていく男に、こっそりと盗み見されているときであって……真実を示していた。


「『ミロのためだと分かった。この依頼は、男の靴は……私の指に、そんなものを作らせるなんて。あの美しい足に、私の靴は、きっと似合うけれど。でも、理由が……耐えられない……腹が立つ。冷たい顔だ。演技に隠していやがる。それなのに、素材にさえも注文をつけて……痛まぬように。冬でも、辛くないように。母親のようで…………』」


 『モロー』は、とても差別的な街で、アリサ・マクレーンは女優だったから。こっそりと隠れるようにプレゼントだって贈らなければならない。知られると、多くを失ったのだろう。だから、気をつかうしかなかったらしい。


 彼女の意志?……違うと思うぜ。彼女に苦しんで欲しくなかった男の意志が、その演技と仮面を用意したんだろうよ。


 『靴職人』は、それでも見破れてしまったようだ。


 いつかの寒い冬に、苦しみが少ないように、温かな靴を贈る。彼女も、何だって、してあげたかったんだよ。愛ってのは、そういうものだろう。お返しなんて、期待しないこともあるよ。


「『歌う。『ツェベナ』の劇場で。旅する恋人に、あの女は……祈る。危険な狼の群れに、襲われないように。意地悪な商人に、騙されぬように……やさしくて、疑いを使えぬ貴方が、悲しい目に遭いませんように……祈りを捧げ、夏の太陽に、秋の空に、冬の雪に、春の風に……待ち続ける。ひたすらに、信じて……美しいことが、どうして、こんなに、私を苦しめるんだ!!』」


 真実に打ち負かされるほどに、殺人鬼野郎の殺意が深まる。


 愛を目撃すればするほどに、歌と演技の意味を知るほどに……。


「『……計画を実行しよう。私が、芸術家になるんだ。いつか、この日記も読まれるだろう。それが、早いか遅いか。どっちにしても、私は、間違いなく皆の記憶に残れる。私の靴を履いた、私の作品たちを見るがいい。まるで、生きているように、生き生きとしているぞ。ミロの足は、死んだって美しいんだ』……教えておいてやろう、愚か者め。作品とはな、命だ。死ではない」


「……どうして……だ」


「何がだ?」


「……どうして、私の…………」


「『本音』だけを読めるのか?簡単だ。文字が、怯えて震えている。畏怖を、感じているのさ。それ以外は、くだらん。貴様の怒り、悩み、どうでもいい主張。そんなものは、読み上げる価値などない。正しいだろう?アリサ・マクレーンが、遺すべきことは、ちゃんと全て読み上げた。お前の悔しそうな顔と、照らし上げることで、お前が見た彼女を、私は知覚できたよ」


「……そんな魔法のようなことが、できるはずがない」


「できる。私とアリサ・マクレーンは、本物の芸術家同士だから、伝え合えるんだよ。生きていようが、死んでいようか。芸術ってのは、伝わるんだ」


 日記は閉じられる。


 そして……。


「こいつを、運んでしまおう。ミスターが、望むのならば、殺しても構わん。『遺作』に必要なことは、得られたから」


「……殺すか、生かすか」


「どうせ、罪を問われて縛り首。生かしておくことの方が、苦痛が長引く」


「なら。そっちも、良いかもしれん」


「かもな。どっちにしろ、どうでもいいことだ。取るに足らない選択だ」


 マエス・ダーンが、部屋から出ていく。


「どこに、行くんだ?」


「紙を探しに行く。この屋敷の主の部屋を物色して来よう。記しておきたいことが、あるんだ。書いておくことと、描いておくべきことが。芸術を、するのが仕事だ」


 殺人鬼野郎とオレだけを置いて、彼女は部屋から出て行った。すぐに、戻ってくるがね。建築家エンドルの屋敷の構造を、彼女は知っている。どこが主の部屋に相応しいのかを、ちゃんと知っていたのさ。鍵開けだって、得意だろう。生まれのおかげで。


 オレたちなど無視して、彼女は集中を深める。


 雨音が響く窓の側で、床に紙を広げた。そこに子供みたいに四つん這いになって、絵を描き、文章を書き殴っていく。きっと、『エンドルの屋敷』で、しなくてはならないことなんだろう。ここは、アリサ・マクレーンとミロの生きた家と、同じ建築家の作品だ。


 ここでなら、より多くを感じられるんだろう。いい屋敷だからね。美しいし、『家族』想いの家だった。二人の人生を、ここからなら探れるに違いない。


「……偉大な仕事を、邪魔しちゃ悪い」


「…………殺す、のかね……私を……」


「いいや。オレじゃない、誰かがな。衛兵隊長にでも、任せるさ」


 眼帯越しに、指で魔眼へ触れるんだよ。伝える。ゼファーに、この事件が解決できたことと……『カルロナ』に戻って、衛兵隊長クレイ・バトンと、ヴィートに伝えて欲しいことがある。それに、そろそろ、『カルロナ』にリエルたちも来ている頃だろうから。


 ―――わかったー!すぐに、いってくるねー!


 ……ああ。頼むぜ、オレのゼファー。


 翼の羽ばたきが、雨音に混じる。喜びのリズムで、仔竜の翼は雨に遊ぶんだ。


 悲劇は、片付けられる。死者は、救えないが。死者の遺したものは、きっと形になるだろう。遺産。悲しくも、大いなる価値のあるものだ。


 雨音みたいに。


 床に這いつくばった芸術家は、ボロボロと涙をこぼしながら。


 筆を走らせる。


 インクで指を黒くして、爪まで使って、描くべきことを描く。


 ……殺人鬼は、見たくないんだろう。目を閉じる。だが、耳をふさぐことは、オレが許さん。ヤツを縛り上げて、ベッドの脚とつないでおく。アリサ・マクレーンの皮膚と、あいつが弄ぼうとしたミロの足首を、回収しておいた。


 この客室の、夏用綿毛布を借りよう。あの玄関の絵の主は、きっと、喜んで二人のためにくれたと思うんだ。たとえ、帝国貴族で、亜人種が嫌いだったとしても。そんなことで、全てが決まることはない。


 正しいことを、ヒトは信じられる生き物だ。


 ……耐えがたいほどの、悲しみに触れながらでも。だからこそ。


 瓶を割って、彼女の皮膚を取り出して……ミロの足首と一緒に、やわらかで清潔な毛布で包んでやった。死者にしてやれることは、本当に些細なものだけれど。何一つないってわけじゃないんだよ。




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