序章 『雨音は湖畔の屋敷に響く』 その55


「アリサ・マクレーンの全盛期を、嫌っていた。まあ、芸術に対しての好みが持つ縄張りというものは主観的で容赦ないものでもある。お前は、若く強気な女優は嫌いだが、ベテランに入った女は愛せる。少年時代に、わがままな乙女に痛い目にでも遭わされたか。若い女は、嘘つきで……自分を騙すとでも感じていた」


「……私を分析したいわけでは、ないのだろう?」


 ダナー・スミスは眉間にしわを寄せた。おそらく、的外れな指摘でもないのさ。筋肉質な大男を、26年もやっているとね……困ったことに、ゲイに絡まれることもある。彼らのなかには、やけに筋肉が好きな派閥があるように思うよ。


 どうあれ、『女嫌い』が生まれる理由の一つは、『女への失望』ということもあるらしい。いつか、込み合った酒場で気の良いゲイの青年と同席したことがある。幸い、彼はオレがタイプじゃなかったのだが。


 彼も、少年時代に『女は嘘つきで、女は欲深く、女は身勝手なんだ』という思想を完成させたと語っていた。ときおり、過度な愛嬌を感じる視線で、こっちの二の腕をチラチラと見ながらね……。


「アリサ・マクレーンが、『落ち着いた年齢』になってからハマったのだな」


「……拙い演技は、嫌いでね。それに、若さと美貌だけだと、主演ばかりをしていた彼女は酷評もされていたからね」


「見るべきだったな」


「……かもしれない。私は、食わず嫌いだったかもね。彼女に関しては、反省したい点が多々あるよ」


「女は嫌いだが、母親は信じられる」


「……まあ、そうだね。母は、裏切ったりはしなかった」


「亡くなったな」


 マエスと同意見だ。過去形で述べたから、というよりも。気配で分かる。ダナー・スミスは母親を思い出したとき、悲しんだ。首を床に垂れて、マエスから逃れようとして、目玉がキョロキョロと動く。知っている。呑んでるときに、酒場で母親について訊かれると、あんな動きをしたものだ。詳しいよ、死んだ母親を持つ男の動きには。


「この日記を書き始めるよりも前のことだな」


「プライベートに、入って来るなよ」


「お前がただの市民ならば、私も配慮してやるが、殺人鬼には、それを拒む権利はないよ。さてと……『アリサ・マクレーンの母親の演技は最高だ。理想の母性の体現者。日々、その虜になっていくのが分かる。だから、私は店を移した。彼女の屋敷の近くに』」


 店を変えてまで、アリサ・マクレーンの近くにいようとした。ただのファンとしての行動にしては、重たすぎる。固執があった。アリサ・マクレーンと、彼女の演技が表現する母親像に……。


「『やった!ついに、私の念願が叶った!アリサ・マクレーンからの仕事が入る!どんな靴でも作ろう。彼女の足のサイズは、よく知っている。劇場で見た。批評家どもだって、気付いていないんじゃないか?彼女は、演技のとき、指先の位置さえ変えるんだ!不満を抱く相手からは、それを離す!悪大臣と対する伯爵夫人の振る舞いは、最高だった!素晴らしい演技だ。彼女は、本当に、天才女優だ!彼女の足が、私の靴を履くなんて!!』」


 ……『靴職人』ならではの、執着もあるというべきか。独特の観察眼というわけじゃないが、舞台で演じる女優の靴の先がどこを向いているかまで、意識している観客というものは、なかなかいないんじゃないかね。


「いい目をしていたな」


「……『放浪派』の怪物に評価されるのは、光栄なことだよ」


「おかげで、お前の記憶から、より多くを回収できそうだ」


 マエスは、こいつの偏執の深さを、予想済みだったらしい。芸術家だから、芸術家のファンのことも詳しいのかもしれないな。殺すほど、好きではあった。殺意を抱かなければ、殺意を実践しなければ―――この悪人は、良い観客の一人でいれたのかもしれない。


「『彼女に気に入られた!劇で使う靴も、家で履くための靴も……私のものが使われるようになったのだ。よく屋敷に呼ばれるようになった。良い家だ。とても、センスがいい。まるで、私もこの屋敷の一員になれたかのような気持ちになる。彼女を支える者の一人になれた―――』……筆が乱れ過ぎているな、過度な興奮を覚えていた」


「……大ファンだからね」


「『アリサ・マクレーンの屋敷には、いくつかの秘密があった』」


 眉毛が動く。殺人鬼野郎も、マエスの言葉で記憶の世界に突き落とされたんだろう。古い感覚が、邪悪な男の顔を、ほころばせる。


 出会ったのだろう。


 アリサ・マクレーンの傍らにいた、もう一つの執着の対象と。


「『ミロ。その名前を呼ぶ、アリサ・マクレーンの顔は、冷たかった。おそらくは、私がいたからだろう。でも、私の前で、靴は嘘をつけないものだ。ミロの靴も、そうだ。靴のあいだから見えた若くしなやかな足首は美しく、奴隷のそれではない。アリサ・マクレーンの靴先も、語っていた。『愛している』、『恋しい』……『ツェベナ』の舞台で、淑女を演じるその動きとは違い。メス犬そのものだ。奴隷に媚びるなんて……同性愛者ではなく、亜人種好きだとは……私は、裏切られた気持ちにもなったが、それと同時に……彼女の最大の秘密を知った。彼女の演技を昇華させて、彼女に独身を貫かせているものを知った。忠実な彼女の周りの者しか、知らないはずの大いなる秘密を……私も共有できた。私は、つまり、このときから……アリサ・マクレーンとミロにとって……一種の、家族だ』」


「……おぞましい認識をしてくれたものだ。他人の秘密を、知ったからといって……『家族』だと?」


「……うるさい。あの秘密を知った感動を……私以外は、理解など出来ないさ」


「教えておいてやるぜ、間違った認識だ。独りよがりの狂気に過ぎん」




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