序章 『雨音は湖畔の屋敷に響く』 その52


「……見つけたようだな」


「ああ。距離を開けて、ついて来てくれ」


「……確認だが」


「殺しはしない。罠を仕掛けている可能性を、考えているだけだ」


「……無いだろうが、そう対処することで」


「心構えを作っている」


 油断を消すには、結局のところ、これしかない。『訓練通りに動きたい』のならば、訓練が想定する状況そのままの意識でいることが手っ取り早いんだよ。過度な心配なら、それでいい。心に余裕が生まれてくれるだけで、より不測の事態に対応できるじゃないか。


 気配を消す。


 無音のまま、竜太刀じゃなくてナイフを抜いた。逆手に持つ。守りのための構え。制圧することが望ましい。斬りたい。斬りたいが、ガマンするためでもある。体の使い方で、心を操ることだってやれるんだよ。


 迷うことはなく歩き始めた。


 ギコギコ、ギコギコ。


 硬いものを小さなノコギリで切ろうと動いている。その音を、竜騎士の耳は嗅ぎつけたのだから。その音だけに、今は集中し……雨音のことも無視しているぞ。夢中になっているな。その作業に、貴様は幸福を感じていやがる。


 いいさ。


 昨夜から、殺人と逃亡の連続で疲れ果てているはずだが、没頭するがいい。今にも尽きて枯れそうな集中力を、消費しちまえ。そっちの方が、気づかれにくいのだから。


 階段にたどり着く。


 場所は、知っていたよ。そよ風の反響で理解していたから、もう一切、迷うことなく最短を進む。やさしい角度の階段だ。『境界』と『区画』、分け隔てることに執心した建築家の作品は、随所にやさしい配慮がある。住む者のために、尽くしているんだな。


 芸術家ぶっちゃいない。


 偉大な芸術家だが、主役はちゃんと、ここに住む『家族』のためのものだった。


 ……アリサ・マクレーンとあのエルフの青年が住んだ、『モロー』にある屋敷も、こういう雰囲気の作りだったんだろう。どこまでも同じでは、なかったとしても。意匠はそっくりさ。ここの柱にも、多くの境界線で区画された色彩の変化があって、柱の表面には獣が彫り込まれてもいる。『ツェベナ』の楽屋へとつながる入り口にも、似ていると思えた。


 あそこの獣たちは、強さを与えようとしているように感じられたが、ここの獣たちは、違う。『守ろうとしている』んだ。魔力を遮断する、一種の呪術でもあるし、ただの祈りでもあるわけさ。悪意と不幸が、ここで暮らす『家族』に降りかかりませんように。


 素晴らしい建築だよ。


 そこで、芸術家が長く暮らせたのならば、多くを見つけ出せるだろう。どういう馴れ初めかは知らないが―――奴隷の若者に、大女優が真実の愛を抱ける日だって訪れた。


 ……貴様は。


 それを奪ったんだ。


 移動し、到着する。


 ……涼を漁るために、開かれたドアがあった。もう骨を切るのノコギリの音は大きく聞こえる。作業台替わりに使っているのは、椅子じゃなくて机かもな。汗をかいている頃だろう。額に玉となって浮かび上がった汗が、鼻を伝って垂れる。あごにもね。


 目尻にも垂れて。


 まるで、涙のように感じられる。


 感傷を強めてしまい、作業の動きが止まったな。そして、止まったノコギリの前で、ため息を吐いた。獲物をじっと見つめているんだろうよ。加工中の、あの青年の左足に視線を定めたまま、魅入られる。ニヤリと勝利と充足の笑みを浮かべたな。ああ、これは……想像じゃないよ。開いた扉から、貴様を満ちるからな。


 額の汗を、左の前腕と左の手の甲で拭いたからね。


 視界が、隠れたわけだ。


 待っていたよ。


 ドアを開くべきタイミングとして、最適のそれを。


 こっちも左手を使おうじゃないか。涼しさのために、貴様が開けていたドアを押して、ガルーナの野蛮人が通りやすくしたよ。暗殺者が作り上げた、音の少ない歩きだが、正面からになる。無音よりは、加速を選んだ。


 足音に、過敏となっている知覚が反応し、貴様は、ビクリと身体を揺らしてこちらを見る。その身体の揺れは、命取りだな。他の行動が、しにくくなるぞ。硬直というものは、防御の姿勢なんだ。痛い一撃を浴びても、次の動きに備えるための苦肉の反応。


 残念ながら。


 貴様に、次はない。


「―――誰だ!?」


 答える前に、踏み込みながら加速して。飛び掛かるような勢いの前蹴りを、その地味な顔面へと叩き込んでいた。鼻が潰れて、折れる。悲鳴も潰れてしまいながら、そのまま貴様は座っていた椅子から背後にひっくり返り、後頭部を床に打ち付けた。


 貴族が好みそうな絨毯の心地は、どうだね。


 意識を、失うことはあるまい。だから、貴様は……こちらが読んでいた通りに、ノコギリを振り上げて、防御の姿勢を選んだ。振り回して、近づくオレを傷つけてやろうという企みというか、たんなる本能的な反射のもとに。


 戦闘の技巧を前にして、そういう選択は無力だ。


 武術というものは、ヒトが追い込まれたときに見せる本能的な動作につけ込むための動きを、徹底して作り上げいるのだから。


 とても簡単だということだ、その反射的に振り上げてしまった右腕を、逆手で握りしめたナイフで受け止めるように―――突き刺して、ちょっとばかり捻ってやり、前腕を形成する二本の骨のどっちをも深く傷つけてやるなんてことは。


「ぐああ!?」


 バキリと良い音がした。尺骨が折れた音だよ。肘から生えた、手の動きを支える骨。もう、力強い抵抗は、利き腕できんというわけだ。悲しんでくれ、怖がってくれ。貴様の手を赤黒く染めている血の持ち主への謝罪となる。


 死者への手向けは、多い方がいい。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る