序章 『雨音は湖畔の屋敷に響く』 その51


 床を濡らした水を追いかけ、進む。


 マエスのおかげで、想像力が加速しているような状態に、オレもあるんだよ。さっきの男たちと同じように、感覚が研ぎ澄まされている。過度な集中というわけじゃなくて、この湿度と熱のある空間のあらゆるものに感覚が及んでくれていた。


 幅広く、全てを知覚するという印象だよ。


 芸術家のセンスを、猟兵が戦場で使うとこういう領域にも達せられる。


 ……悪意は、小走りにこの廊下を駆け抜けやがったらしい。短い歩幅、金持ち相手の商売人らしく、舞い上がっていても家のなかを全力で疾走なんてことはしないようだ。この屋敷の大きさなら、それもやれるというのに……。


 『靴職人』は、この廊下を進む。玄関前のホールにやって来る。雨雲を貫いて降り注ぐ朝陽は、建築家のデザインした通りの穏やかな朝を作っていた。


 窓から、雨の朝でも入ってくれる光。


 十分な広さがあるホールで、大きくて丈夫な絨毯が。床板の色は、廊下のそれよりも穏やかで明るい赤味が入っているんだよ。ソファーと、椅子が並ぶ。その背後の壁には、大きな絵があった。ここを支配していた、帝国貴族。そいつらの『家族』が並び、笑顔で描かれている。


 玄関ドアは厳格な大きさで、そのくせ、となりにはちゃんと窓を一つ作ってくれている。外界を嫌う作りをしているのに、あの窓からなら、身を乗り出せて、家を訪れる者へあいさつのために子供が手を振れるだろう。窓の近くに置かれた椅子は、不自然じゃあるんだがね。あれは、きっと子供が使っていたんだろう。


 窓から乗り出すには、背が足りないからだ。


 その椅子を使って、窓から手を振った。何も、それは客にだけする態度じゃない。むしろ、子供がそれを行うのは……どこかから帰って来た親にだ。貴族は躾けに厳しいところもあるからね。はしゃぐ子供の態度を、気に入らないってヤツもいるかもしれない。


 でも、違う。


 ここに住んでいた帝国貴族は、少なくとも自分の子供が窓から手を振ってくれる姿を見て、喜んでいた。だから、あの椅子は、少しばかり礼儀作法から逸脱した位置にあったとしても、あそこにある。


 第九師団の敗北に伴い、この屋敷から慌てて逃げなくてはならなくなったその日まで、あの椅子は、ちゃんとあそこに置かれていて……『家族』が逃げても、それは保存されている。


 ……一秒だけ、壁にかけられた大きな絵を見るんだよ。真ん中に、夫婦がいた。立派なヒゲの男と、その美しい妻……あいだには、小さな女の子が笑顔さ。子供は、一人だけだった。


 あの夫婦がここを去るそのとき、この玄関ホールであの絵を見たんだろう。玄関ホールってのは、広さがいる。客を歓迎して、抱き締めるためにも。『家族』を出迎えるために、子供が大きな犬かなんかと並んで笑顔で立っているためにも……送り出すために。


 ここはね、別れの場所でもある。


 死んだ子の笑顔を、あの壁にかけられた絵画のなかで見ただろう……。


「……ミスター。感覚を、落とすことも有効だぞ」


「……いや。いいさ。学びにもなる。感傷に囚われて、鈍る腕も持っちゃいないからな」


 そうだ。


 何かしら、悲しい運命を感じ取っちゃいるんだがね。それでも、弱ることはない。


 エンドルの良い仕事に、感動もしている。ここで、暮らせた者は幸せになれるはずだった。誰かが、職業倫理に反する意地悪な破壊をしなければ。呪わしいことだな。ヒトというものは、どうして、こうも業深いのか。


 水の跡を、追いかけよう。


 横に広く穏やかな段差の正面玄関を、殺人犯の痕跡に沿って昇って行くんだよ。エンドルの作り上げた階段の先では、中庭を見下ろせる大きな窓がある。雨に打たれる、大きな古木があって、そのとなりには小さな池があった。


 捕らえるべき男も、ここで立ち止まったらしい。だが、あの懐かしさを帯びた古木を見下ろすためなんかじゃなくてね。ここで、バッグを床に置いたからだ。古木とは真反対の背後……南向きの玄関の上にある、高い位置の窓から差す光に気づき、照らされ……感情を昂らせた。


 バッグから、あの足首を取り出して、この光のなかで見つめたんだろう。光のなかに、掲げてな。キスぐらい、したかもしれん。どうしようもない、クズ野郎だから。


 殺すことと。


 性的に興奮することが、だんだんと紐づけされていく狂人も、戦場では見かける。貴様も、それと似たような堕落をしているのかもしれん。ここで、ステップを踏みやがったな。喜びの踊りだ。『ツェベナ』の舞台で、見たことがあるのかもしれない。


 切断して奪い取った足と、踊るか。


 どうにも、救いがたい。


 怒りで、血が熱くなるのが分かる。そうなると、おかしな現象が起きるものでね。この蒸し暑さのある主が去った屋敷のなかでも、空気が肌寒く感じ取られることがある。心の底から怒ると、気温さえもよく感じられなくなるものだ。


 でもな。


 猟兵なんで、暴走することはない。


 ガルフの教えのおかげで、怒りの感情さえも、冷静な攻撃性へと転化できるようになったんだよ。笑う。冷酷に。熱い怒りの炎は、青く冷たい怒りに変えて……攻撃のための知性のエサにしてやろう。


 どこに、逃げた?


 足跡を、追いかける。


 南側の、二階以上……近くにいるな。だから、『風』を放つ。そよ風さ。広く、小さく、しかし……確実に、エンドルの作品のなかを風で掃いてやるんだ。ジャンほどじゃない。ゼファーほどでもない。それでも、ガルーナの野蛮人の鼻だって、馬鹿にしたものじゃないんだぜ。


 血のにおいが、した。


 乾いていない、新鮮な血のにおいだ。なるほど、犯人に抵抗されて……あの二人は、傷の一つもつけたらしい。空気に残存する、敵の血。慣れしたんだ、感覚だ。戦場で、どれほど浴びて、どれほど嗅いだか。


 そよ風を、左手の方だけに放つ。音が、するんだよ。わずかな音。雨音に消し去られるほどには小さいが―――猟兵の耳からは、逃れられない音。椅子だか、机かが、揺れる音がした。ギコギコと、揺れている。作業中だ。南向きの3階は、暑さがこもる。だから、廊下のドアを開けていた。窓を開けられない。雨だし、追跡者が怖いからだ。


 いい考え方だよ。


 だからこそ、分かる。間違いじゃない。おかしな偶然で、ここを寝床に選んでしまった浮浪者というわけじゃないな。犯人だ。罪から逃げて隠れて、生き延びて。邪悪な欲望を満たしたいと願う、斬るべき悪が、そこにいるんだよ。




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