序章 『雨音は湖畔の屋敷に響く』 その46
マエスは他人の記憶から『犯人』を釣り上げたようだ。物証こそ無いが、証言としては極めて有力そうに見える。だが、マエスは満足していないようだった。曲げた指を下の唇に当てながら、霧のなかを降る小雨を見上げている。周りにも『考えろ』と告げたがっている仕草のように思えた。
今のマエスは、まるで舞台の上の女優のように、その一挙手一投足にオレたち男どもの注目を集めている。マエスを通じて、オレたちの感覚が研ぎ澄まされて、それぞれ固有の集中力は軍隊のように統率されていた。この『とんでもない芸術家』さまは、ここにいる全員に『探偵のような知覚を与えている』。
「……『バッグ』。そのバッグを、『記憶できた理由』は何かな?」
「……え?……『あいつ』のあしもとに、置いてあったから。ボクは、見たから……?」
「あらゆるものを、ヒトは覚えてはいる。思い出し方さえ、しっかりと使えば思い出せる。だが。すぐに思い出して、正確にサイズまで連想できているのには、理由がある。お前は、本能にも近しい『当たり前の感覚』を用いて、犯人の『バッグ』を見たときに紐づけしたのだ。『バッグ』は、『何のためにある』?」
「……道具を……運ぶ……ため……っ。『あいつ』の場合は……」
「『戦利品』も運ぶ。狂った愛情を捧げたトロフィーでもあり、大切な獲物の肉。肌身から遠ざけるなど苦痛である」
「う……っ」
数名が想像力の犠牲となった。『バッグ』のなかに入れられたアリサ・マクレーンのタトゥーが入った皮膚と、エルフの男の切断された足首から先を連想したからだ。苦痛を伴う想像ではあるが、マエス・ダーンは容赦しない。
「意味を考えろ。価値を考えろ。我々からすれば、『狂気の沙汰』ではあるが、『あいつ』からすれば違うんだ。『あいつ』にとっては、トロフィー、勝利の品、愛すべきもの……そんなものを、入れる『バッグ』だ。『大切なものしか入っていないバッグ』だ。『あいつ』は、それをどう扱う?古い革のバッグだったな」
「……もちろん、大切に、扱っていたんです。そう、そうだ。だから、ボクも記憶できた……ように……思います」
「そう。『大切なバッグ』だからこそ、手入れはしっかりと行き届いている」
「はい。古くても、綺麗な黒さがあって……修繕も、されていたでしょうけど、目立たなくて、美しさは損なわれていなかった……むしろ……」
「美しさは時の経過と共に洗練されもする。『仕事道具』は、とくにそうだ。職人の魂が、生きざまが、命そのものが宿って、機能性という呼吸を帯びてくれる」
「『仕事道具』……っ。そうです、あのバッグは、『あいつ』にとって、『仕事道具』だったんです!いつも一緒、いつも一緒に……そう……早朝も、夜も、そうだった。一緒。『あいつ』にとって、あれは……大切な『仕事道具』……」
「そうだ!『仕事道具』……皆の記憶力の出番だぞ。『見ていたはずだ』。ヒトの姿は消えない。『あいつ』はお前たちと共に、『カルロナ』の美しく優雅な時間のなかを、歩き回っていた。こっそりと、印象に残らない演技力で身を隠しながら。だから、お前たちは、きっと、顔を思い出せない。顔を、思い出そうとはするな。まずは『動き』を思い出せ」
「動き……」
「中年で、背が高くない……茶色いヒゲで……小さなブラウンの瞳の男の……動き」
「そうだ。お前たちとは根本的に違う『動き』をしているからな。『あいつ』は、ここに遊びに来たんじゃない。『大切な仕事』をしに来たんだ。『仕事道具の入ったバッグ』を持って、歩き回る。夏の暑さにも関わらず。お前たちは、『あいつ』の顔を思い出せなくても、その動きと、『大きな黒いバッグ』は思い出せる!」
記憶を引き出すための指令が放たれ、衛兵隊長も含めた全員が知性を『大きな黒いバッグ』を持った『職人』をイメージしている。オレも、イメージさせられちゃいるが、『カルロナ』にいたわけじゃない。彼らの記憶こそが頼りだ。
「すれ違っている。何度も、すれ違っているぞ。『下見』をしていたはずだからな。『あいつ』は、アリサ・マクレーンとその従者を追いかけて、二人の泊った部屋を見つけただろうが、それ以上に諸々の『仕事』を行うために、『下見』は行ったんだ。この岸辺にも現れたはずだ。『黒いバッグ』を大切そうに提げて、お前たちの視界に入った。演技と用心深さで、印象に残らない。見通しのいいところで、視線を受けながしながら『動く』。だが、『黒いバッグ』だけは記憶に残っている!」
あちこちをうろつき、仕事のための下見を完璧にした。だから、見ているはずだ。見ているはずだが―――皆、思い出せない。マエスの魔法も、限界なのだろうか。だとしても、情報は多く手に入った―――。
「―――思い出せないな。『それでいい』!」
「……え?」
「どういう、ことです……?」
「『あいつは下見を、とっくの昔に済ませている』ということだ。昨日じゃない。昨日も、しただろうが。始めたのは昨日ではなく……もっと、前だ。『モロー』に帝国貴族どもが居座っていた頃から、『あいつは『カルロナ』を熟知していた。『仕事』で来ていたんだ。多くの金持ちの屋敷に『仕事道具のバッグ』を持って現れた。帝国貴族の屋敷にも』。お前らは、この春の終わりにも見ているぞ、帝国貴族に奪われていた屋敷へと向かう道すがら、すれ違っていた」
魔法が……時間を遡らせる。『黒いバッグを提げた目立たないが品のある職人』は、『カルロナ』で『仕事』をしていたのだ。殺人はともかく、『本来の仕事』を。
……マエスの知覚の魔法にかけられた男の一人が、反応した。
「わ、私は、見たかもしれないっ!!『あいつ』と、十日前にも、すれ違ったかもしれないんだ……っ」
「『どこ』にいた?」
「帝国貴族たちが、我が物顔で占拠していた……丘の上にある豪邸たち。あそこへと向かう道で、すれ違った……帝国貴族と、商談があったから。『あいつ』も、そうだったんだろう。『黒いバッグ』を、提げていたんだっ。『職人』だと、思った。軽い会釈をして、すれ違った……っ」
「丘の上の上り坂でか。『あいつ』は、降りて来た?」
「降りて、来た」
「……そして、『黒いバッグ』をお前の視線から遠ざけながら、お前からすれば右側に避けて道を譲ったな」
「……っ。そう、だ」
「下手に出るのが上手な男だ。だが、斜面を壁に見立てて、そこでも隠れた」
「……っ。あそこの右手には、そうだ、土手が……」
「お前は道を微笑みや会釈と共に譲られて、心地良さを得た。貴族や金持ちを相手することへ手慣れた所作は、お前に心地良さを与えもする。お前も、微笑み。前に進んだ」
「はい……その通り、でした……っ」
「『あいつ』は、『職人』だ。大女優の家にも詳しく、別荘地で優雅に過ごす帝国貴族にも呼ばれる。派手ではない『職人』。しかし、必需の仕事に対応している者だ。つまり、『衣食住』のどれかだ。食では、あるまい。中年の高等料理人は肥えるものだ。住居を作ってもいないだろう、肩幅や体格が目立たないのならば違う……あとは、衣服……派手な男でないならば、煌びやか装飾品ではない。着心地の良い服か、あるいは……『靴の職人』」
「知っている!!『あいつ』だ……私は、『エンドルの屋敷』につながる道へと向かう、後ろ姿も……見ていた!!」
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