序章 『雨音は湖畔の屋敷に響く』 その45
「何か思い出したのかね!?」
「え……っ」
「衛兵隊長よ。彼のペースで、話させてやれ。記憶というものは、繊細なものだぞ」
「そ、そうか。失敬した……」
マエスの指示に、鷲鼻をしおらしく下向きにさせてくれたよ。目線では、情報を物欲しそうにしているが、若い男に詰め寄る気配は消えてくれた。
話しかけていたのは、気弱そうに見える若者だったから、マエスの指示は正解だろう。プレッシャーをかけてやるべき相手じゃない。こういう若者は、圧力に応じて、期待された通りの嘘を選ぶこともあれば、安全策を取ろうと消極的な答えを選ぶ。
「……瞳を閉じろ。自分の記憶だけを頼るために。周りの言葉など、一切、気にするな。お前は、お前だけの記憶に素直になるだけでいい」
「はい……っ」
周囲に黙れ、と言っている。この場にいる全員が、ちゃんと芸術家の言葉に従った。
「思い出せ。いつだったのか、どんなことをお前はしていたときだったのか……そして、どこに行ったのか……雨は、降っていたか?」
「……『あいつ』と、出会ったのは、昨日の夜と……早朝です。どっちも、雨は止んでいました。雨が降っていないときを見計らって、ボクは借りていた部屋を出たんです。いつも使っている、湖が見えるレストランに行きました……食事のためです」
「雨上がりの土を踏んで、レストランのドアを開けた。どんなにおいがしていた?」
におい。知覚を刺激して、記憶を思い返す力を与えようとしているようだな。若者は目を閉じたままうなずく。記憶を、辿るための手掛かりをちゃんと見つられたらしい。
「いつもと、同じです。夜は、常連たちの開けたワインと、魚料理の香りです。酸味のあるソースと、油で揚げた白身魚……タルタルソースのにおいも。早朝は静かで、コーヒーの香り、ほとんど無人で……目玉焼きの音がしていて……『あいつ』は、に…………っ」
「肉を、食べていた。『あいつ』は、肉を注文して、食べていたんだな」
「……は、はい。肉……そう、です。『あいつ』は、わざわざ、ナイフで切っていた」
「ステーキではなく、もっと小さな肉……かぶりつくことは、しないさ。下品だと、『あいつ』は思っている」
「そう、だ。上品ぶっている印象だった。悪い、ヤツには見えない」
「むしろ、大人しくて善良そうだ。背は高くない。夜の『あいつ』は少し神経質だろう」
「はい。夜は……『あいつ』、窓の外を、よく見ていました。常連たちが、騒いでいるから。ボクみたいな……そう、『あいつ』も、含めてですけど。酔っぱらうと誰とでも肩を組んで歌えるほど、陽気じゃない……そうだ、同じ。小説を、持ってました」
「社交を妨げるための本だ。流行りの小説でも、詩集でもない。堅苦しくて、よりヒトを選ぶ本だ。理解したな。『あいつ』も、お前と同じ性格をしているんだと思った」
「そう、です。バカンスなのに……せっかく、帝国から解放されたからって、浮かれて『カルロナ』まで来たはずなのに……友達、また出来なくて……でも、朝釣りさえ、楽しめれば……良い夏の思い出だって……夜は、ボクと『あいつ』は、もっと似ていたんです」
「早朝に出会ったときは、違っていた」
「上機嫌でした。食べ方も、余裕ぶっていたというか……あ、『あいつ』……ポークの、ソーセージを食べていた。美味しそうに……地味で、金持ちってほどじゃないはずなのに、何だか……帝国の、貴族みたいな雰囲気で……周りに客が、いないからだと、感じたけど。違うんだ……『あいつ』は、夜とは違い、『目的』を、もう達成していた……っ」
若者は口もとを押さえた。吐き気をガマンしようとしている。『あいつ』は豚肉を食べていたのだろうが、実際は、違う。それ以上の意味を、その食事に抱いて、興奮していた。満足していた。殺した二人のことを、想像しながら……肉を食っていた。
衛兵隊長はまだ沈黙を保っていたが、彼も興奮を強めている。怒らせた肩のまま、部下の若手の衛兵たちに、あごをしゃくって命令を出していたな。レストランに向かわせる。もう、『あいつ』はいないだろうが、コックやホールスタッフは記憶しているかもしれない。メニューまで分かっているのだから、思い出しやすいかもしれないからな。
オレは、向かわない。
青年の記憶に興味があるし、もちろん『あいつ』とやらが犯人でない可能性もある。あとは、ここに集まった者たちの記憶も、頼りたい。朝釣りが趣味な男は、他にもいるだろう。朝でも酔いつぶれていない男たちだ。朝釣りがしたくて、この若者と同じ時間帯に晩飯も朝食も取ろうとしたかもしれない。
この人嫌いなところがある若者は、同好の者たちとの関わりを拒むために、やや早起きだったかもしれないがね―――。
「……そう。『あいつ』は、地味な男のくせに、上機嫌で、食が早くて……音を立てながら、ソーセージを貪っていた。あくまでも、品は良いけど……ちょっと、違っていた。そして、食べ終わる前に……誰かが走って行った」
「誰だ?」
「……た、多分。衛兵たちです。湖の方に、すごい勢いで向かって行ったから……ボクは、驚きました。何か、物々しい雰囲気を感じて……でも……」
「『あいつ』は慌てるはずもないな。『何が起きていたのか知っていたのだから』」
「は、はい。慌てていませんでした。ペースを、崩さずに食事をしていて……ぼ、ボクは、その場にいるのが、何だか不安になって来て……」
「いい判断だ。『あいつ』は、落ち着く演技で誤魔化そうとしていたはずだが、内心は、興奮しているし……増長していた。殺人鬼としての本性を、『使いたがってもいる』」
「……っ。そう、です。ボクは、湖で騒ぐ声が大きくなっていったから、そっちが気になったのと、あそこに……何となく、いたくないような気がして……席を立ち……ッ」
「『見た』な。『見て来た』。たぶん、一瞬だけ」
「……はい。そう、です。一瞬、『あいつ』は、ボクを見た。でも……すぐに、視線を外した」
「外した。『視線は下に向けて動いた』」
「……え、ええ……どう、して……ッ」
「想像してしまった通りだろう。お前以上に、周囲を気にしていた男だ。お前が見ていたのならば、それ以上の時間、『あいつ』はお前を見ていた。視線を使わなくとも、他の知覚を使い、感じ取ろうとしていた。だから、お前に移入してしまっていたんだよ。体の線が、似ているから」
殺された若いエルフと、体形が似ていた。人間族の若者にしては、細身。犯人野郎は、この青年を見て、想像していた。自分が殺して、犯して、切り刻んだばかりの被害者のことを。
「『あいつ』!……ぼ、ボクの『足』を見ていたんだ……ッ」
「落ち着け。記憶のなかの危険人物は、お前に何もできない。安心して、言え。『あいつ』はどんな顔をしていた?」
「茶色いヒゲ……大きくない、ヒゲです。ブラウンのちいさな瞳で、目立たない。どこにでもいそうな中年男で……バッグを、持っていた……足もとに、大切そうに……置いていてっ。古いけど、しっかりと手入れされた革製品で……しっかりと、黒くてつやつやしていて……っ。あ、あの、バッグ……を見たんです。ボクの足を、見たあとで……っ」
「その場から離れて正解だったな」
「も、もしかしなくても……あ、あの、バッグには……ッ」
「獲物が入っていた。『女優のタトゥー』と、『左足』が。そのバッグは、ちゃんと、それらが入りそうな大きさだったろう?」
「……はい……ッ」
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