序章 『雨音は湖畔の屋敷に響く』 その34
「どう、どう!!……はあ、はあ!」
馬から転げ落ちるようになりながら、青年は駆け寄って来る。マジメそうだな、早朝だというのに無精ひげもない。急いで馬に乗っていなければ、髪型だって崩れたりはしなかったんじゃないだろうかね。
「落ち着くといい。転んでしまうぞ」
「は、はい。お気遣いいただきありがとうございます……その、私は、『ツェベナ』に所属する……」
「役者さんっすか?」
「い、いいえ。裏方の仕事ですよ。憧れてはいましたが、本物の芸術家にはなれず……」
芸術家としてではなくとも、『ツェベナ』の仕事にどうしても携わりたい。そういう願望を抱かせるほど、あの劇場は高い位置にいるわけだ。
カミラの悪気ない問いに、青年は記憶の扉を開きそうになる。葛藤があるのだろうが、今は、成すべきことをさせてやるべきだ。我々以上に、彼の方が暇ではなさそうだから。
「それで、『ツェベナ』からの使いが何を伝えに来てくれたんだ?こんな早朝から?」
「は、はい。すみません。その……実は、とんでもないことが、起きてしまいまして」
不幸なメッセージを告げるときの、気まずさと痛みの混じった顔面に出会う。
「言ってみろ。『ツェベナ』との縁が、何だかんだと、なくはない立場じゃある。休暇中ではあるが、協力してやれることがあるのならば、してやるぞ」
「あ、ありがとうございます!!ストラウス卿のお力があれば、この状況も解決することが出来るのではないかと……っ。半ば、独断ではあったのですが、こちらに寄らせてもらったのです……っ」
「む?……ここのことを知っていたのか、『ツェベナ』の者たちは?」
リエルの疑問に、青年は首を振る。
「いいえ。ストラウス卿に会うため、市庁舎を訪ねましたら、リサ・ステイシー教授に出会えました。彼女から、この湖畔の別荘のことを聞かされまして……」
「リサが漏らしたのか」
「ということは、かなりの事件が起きたのでしょう。彼女は、冷静な判断力の持ち主ですから」
早朝からの訪問は、当然ながら無礼な行いではある。とくに休暇中の疲れ切った猟兵の邪魔をするなんてことはね。我々が、もっと気の短い山猿みたいな傭兵どもの群れだとすれば、不機嫌さのあまりにメッセンジャーの青年をぶん殴って吊るしたかもしれん。
リサは、『ツイスト』大学を代表する者として、我々と外交をしているのだ。政治的な意味でも、我々に無礼なことをしない。するとすれば、それを許容してでも、対応しなければならない重要な事態が起きたときだけだ。
「それで。何が起きたというんだ!!私の集中力を、削ぎやがって!!」
背後で短気に荒ぶる声が動く。戦場で感じるような殺気が離れていた。
「……ま、マエス・ダーンさま!?」
「そうだ!!『とんでもない芸術家』の、マエス・ダーンだ!!邪魔をした者の耳を、ナイフで削ぎ落としてやりたくなるほどには、芸術優先主義の狂気の体現者のな!!!」
「そ、その、申し訳ございません!!」
いきり立つマエスを、左肩でブロックする。そうでもしておかないと、彫刻用の道具を握りしめたまま、青年に襲い掛かりそうだったからな。マエスの怒りは、オレが受け止めておいてやるべきだ。
「さっさと話すといいぞ。マエスが暴れるよりも、早くに」
「は、はい。実は、殺人事件が、起きてしまったのです!!」
マエスの怒りさえも、さすがにその言葉は抑制してしまう。ヒトの生き死ににまつわることがらは、とても大きい。それ以上の悪さは、なかなか見つけられない。
「……た、大変っすね。戦のときなら、まだしも。今は……街が、せっかく落ち着こうとしているときなのに……っ」
「うむ。しかし、戦が終わり、あちこちに緊張感が満ちているときでもある」
「ふん……政変が起きたあとの、猿の群れは……野蛮さが増すものだからな……」
序列の闘争というものもある。火事場泥棒でもいい。あるいは、もっと単純に感情的な衝突だって起きやすくなるものだ。平和が遠のけば、日常はどこまでも荒れる。
「それで、どこで起きたのです?……被害者は、誰なのですか?」
ロロカ先生が冷静に訊いてくれたから、青年も落ち着けた。
「は、はい。事件が起きてしまったのは……この、湖畔の対岸。北にある、もう一つの別荘地です。十キロ以上は、離れていますが……そこで……我々、『ツェベナ』に所属する役者が殺されたようなのです!」
目を、見開いていたな。
夢を思い出す。アリーチェが、守ってやれと……。
感情が、歩かせていたよ。詰め寄るように迫り、青年を怯えさせていた。
だが、背中を引っ張られる。彫刻を作り上げる芸術家の腕力は、思ったよりも強かったよ。おかげで、冷静になれる。少しだけ。腹の奥から、出て来そうになっていた、恐ろしい気配を帯びた声を封じ込められた。
脅すべきではない。
そんなことをしているべきではない。
知るべきは、真実だ。
たとえ、痛みを伴っていたとしても。すべきことを、我々がするために、それは必要だった。
瞳を閉じて、感情を潰し。声を作った。
「誰が、殺された?……まさか、ロバートか……?」
クロエとの婚姻が成ったばかりの、あの役者の名前を口にする。脅すつもりはなかったが、少し、怖がらせてしまっていたようだ。この青年は、悪くないのに。どんな悪い報せを早朝から伝えて来たとしても。彼は、無罪なんだよ。
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