序章 『雨音は湖畔の屋敷に響く』 その33


 風呂から上がる音を見送ると、釜のフタを閉じておく。そのあとで、薪を手に取ってみて、その香りを嗅いだ。産地まで、分かる。まるで、ジャンみたいだった。


「……そういう領域まで、感覚を研ぎ澄ませようとは、しなかったかもしれん」


 鍛えるべきは、まだまだ多いようだ。知識だけでなくて、感性の面でも。より良い戦士にも、より良い猿の……いや、ガルーナの名君とならなければならん。多くの者の声を聴き、不平な迫害を受ける者を守る。当たり前ではあるが、誰しもその理想を全う出来るわけではない。


 無数の支配者がこの世にはいたが、果たして、どれだけ名君がいたか。我々は、野猿の王にさえ勝てないことだってある。気合いが入るぜ。より良い者に、己を磨き上げなければならん。


 握力を使い。


 乾燥した分厚い薪を握りつぶしてみた。常人には、やれない行いだな。これをしたところで、何も得られはしないが……これまでの自分の鍛錬は確認できた。日々、鍛え上げれば、ヒトは意外なほどに強くなれる。ガキの頃はね、こんな分厚い薪を握り潰すなんてことはやれなかった。せいぜい、手刀の勢いや技巧に頼ることで切るのみだったのに。


 強くなれるのさ。


 努力しようじゃないか。


 ニヤリと笑い、空に鼻を向けた。


 『とんでもない芸術家』の知覚も優れてはいるが、竜騎士の感覚だって負けちゃいない。また、この湖畔に雨が降り始めたよ。雨音が静かに、諸々の雑音を消し去った。


 ……火の始末をして、アトリエのなかへと戻る。


 アリーチェを模した二つの像の真ん中で、濡れた髪にタオルを巻いたマエス・ダーンが座っていた。長い脚を組み合わせたまま、黙想の最中にある。


「……邪魔を、しては、ならんそうだぞ」


 こっそりとリエルに耳打ちされて、うなずく。


「ああ。小声で話すか……というよりも」


「……そろそろ、お暇するべきかもしれませんね」


「……自分たちが、ここにいても、お仕事の邪魔かもしれないっすから」


「……定期的に、食料を供給してやればよかろう。まあ、テーブルの上にはフルーツもたくさんあるから、どうにでもなるだろう。干し肉も、保存庫にはあった……」


「外で寝転んでいたのは、自然と戯れて、アイデアを獲たかっただけだろうよ」


 本当に、ヘンテコな芸術家ではある。しかし、それが魅力でもあるぜ。超人的な洞察を『作り上げた』わけだからな。彼女は己の人生を、望むがままの形質に作っていった。芸術を成し遂げるために、感覚を鍛錬で変え、才能をより活かす道を探したのさ。


 ときには、猿の群れなんぞも研究して、ヒトとは何ぞやかを考えた。奇特な行いではるが、間違いなく偉大な行いだよ。


「マエスに任せておけば、間違いない仕事をしてくれるさ。アリーチェのことを、『プレイレス』の人々が忘れないように、芸術で刻み付けてくれる」


 それは、きっと永遠にも等しい時間、残るんじゃないだろうか。黙想する『とんでもない芸術家』は、どれだけの力を作品に込めてくれることやら。芸術があれば、『古王朝』からの文化を継承した、この赤土諸国の人々は、差別の力に屈しない。


 否定できぬ美しさが、真実を伝えてくれるだろうよ。


 偉大なことをした、『ハーフ・エルフ』の少女がいたことを、誰もが忘れない。『プレイレス』の全ての国から、帝国を追い出し、亜人種の奴隷を解放した戦いの果てに現れた『奇跡』のことを……。


 多くの戦士たちの慰霊でもある。彼ら彼女らの側で戦列を組んだ者たちも、アリーチェの像を見る度に思い出してくれるだろう。世界を、変える。マエスの黙想から放たれる圧倒的な気合いは、その覚悟を感じさせるものだ。


「……雨降りの散策は、止めだな。オレたちも、あっちの館に戻って朝食にしようぜ」


「……うむ」


「……では、マエスさん……また、あとでっすー……」


「……静かにして、出ましょう―――」


 猟兵の技巧で足音を消し去り、マエス・ダーンのためのアトリエから抜け出す。玄関ドアを開けようとしたとき、我々が作ったはずの静寂は、破られた。


「ヒヒヒイイイイイイイイイイインンンッッッ!!!」


 馬のいななきだった。黙想に耽るマエスが、不機嫌そうな貌でこちらをにらむ。


「オレたちのせいじゃない」


「馬か……なんだ?暴れ馬か?……ぶん殴って来い!!」


「暴れ馬がいきなり家の前にやって来るものか……連絡係か、配達員ではないのか?」


 疑問の答えを見つけるために、蛮族の手でアトリエのドアを開いたよ。小さな雨音の群れの向こう……本館の近くに、一人の若者がいる。見たことのない男だが、身なりは良い。馬も銀貨が300枚じゃ買えなさそうだった。


 マエスを不機嫌にさせるかもしれないが、慌ただしい素振りの『使い』に向けて、呼びかけた。あの青年は、間違いなくオレに何かを伝えてくれるために、曇天と小雨と霧に包まれた早朝の湖畔を駆け抜けてくれたのだからな。


「オレは、ここにいるぞ!!アトリエの方だ!!」


「そ、ソルジェ・ストラウスさまですか!?『プレイレス奪還軍』の総大将の!?」


「肩書きは多くあるが、ソルジェ・ストラウスはオレだ!!」


「了解です!!そこで、お待ちください!!すぐに、参りますので!!」


 ……ここで、か。アトリエに踏み込まれるのは、マエスを不機嫌にさせちまいそうではあるが、もう馬に飛び乗り、青年はこちらへと向かってきている。止める間もなく、たどり着いちまうことになるから、受け入れるほかない。




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