序章 『雨音は湖畔の屋敷に響く』 その32
「……教訓の多いハナシだ」
薪に炎が噛みつくパチパチという音を聴きながら、どこぞの猿王国について考えたよ。
「身分の差が厳しいとね、こういう例え話を使うことも要るものだ。良い立場に就く者は、助言すらも素直にもらえなくなる。覚えておくといいぞ」
「ああ。うちの王国は、良いものにしたい」
「多くの助言に耳を貸して、多くの者を助けてやれ。『王無き土地』であったこの土地でも、ヒトという生き物は常に序列を意識する。弱きを排除することが、ヒトの秩序を保つ知恵だと信じる輩もいるのだ。それは、どうにもならん本能だ。全ての猿がそうであるように、我々も、粗暴な振る舞いと、他人への不信で身を守る」
「本能だから、受け入れながらも、努力するしかない」
「その通りさ。残酷な本能と、それがもたらす破滅的なあらゆるものに、対決する。そのために知識はあるのだ。少なくとも、この土地の芸術家は、『放浪派』だろうが人間族の芸術家であろうが、全ての創作をする者たちは……そういう方式で己を律して来た。いや、律しようとしている。常に、ヒトは理想的な自分でいられるはずもないのだから」
「堕落は、心地よいしね」
「だからこそ、勤勉であれよ。本能には、いつだって負けるからこそ。向上心を持つ。お前は、ヒトが好きそうに見えるから……ヒトの良いところを見つける努力をしておけばいい」
「マエスは?」
「誰もが、同じ心理操作術を用いて、生産的な心を組み上げる必要もないのだよ。私は、観察が好きなのだ。行いそのものがね。真実を見つけ出すのが、好き」
「探偵みたいだね」
「物語の探偵ならば、そうだろうが。現実のそれはどうだろうな。金持ちのために、不倫やら、商売相手の泣き所を探してばかりの者も多い……」
「探偵に悪い思い出が、ある」
「……おお。私のレッスンが利いている。そうだ。どんなことが、あったと思うんだ?感じ取れているだろう」
「魔法みたいなことは、まだ出来んさ」
「『まだ』な。だが、そのうち、もっとやれる。今は、想像のままに言ってみろ。ヒント、私はとても探偵が嫌いだ」
「……君自身ではないな。君は、自分自身よりも、自分が大切にする何かのためにこそ本気で傷つける人物だと感じる。金があるはずだ。豊かな暮らしも、やれるはずなのに……浮浪者のようなことをしていた。己そのものは、道具に過ぎん。君が、最も傷つくのは、周りの者たち。君の師匠が、何かされたか」
水に濡れた拍手が聞こえた。風呂の天井に跳ね返ってくるそれは、ゆっくりとしたリズムのくせに、弾けるような鋭さもある。
「正解。ヒントを出し過ぎてしまったかもな、武術の達人殿に」
「偶然だろうさ」
「いいや、違う。洞察の力だ。魔力を使わずとも、数十分触れ合った者の心をも、お前は探ったのだ。素晴らしい才能。いや、素晴らしい……人生だよ」
「洞察の力は、人生が磨くと」
「その通り。多くを知る。知識でも、肌でも、痛みでも、喜びでも。ミスター・ソルジェ・ストラウスは……痛みに詳しいのだよ」
「まあ、戦士として生まれて、帝国なんかと戦い続けている人生というものは、そうなる」
「いいや。知覚を、すり減らせてしまう者もいるよ。苦しむことや、辛いこと、痛みに飽きてしまうんだ。鮮度のある感情は、心の負担ともなる。己に入力されるフレッシュな感覚を、跳ねのけるようになるのさ。そうなれば、ただの、妄信のままに動く装置となる」
「……身に覚えがあるね」
『死神』と呼ばれていた赤毛の野蛮人は、運命の歯車みたいなもんだった。復讐のためだけに、自分も周りも犠牲にしていく。それが、きっと……楽だったのだろう。
「人間性を放棄すれば、つまらんモノへと流れ着く。堕落とも違うが、ただ状況に合わせるだけの、過去に隷属した何かだ。そういう者は、芸術家であれば革新的なものを創り出せはしないし、過去も正しく見ることは出来ない。真実を感じ取るには、素朴さも要る」
「先代の、『パンジャール猟兵団』の団長と、マエスを会わせてみたかったよ」
「興味深そうだ。お前を、偉大な『英雄』にした男か」
「そうだな。ある意味では。まあ、何というか……日常を捨てるなと、ニヤニヤした顔で教えてくれたんだよ。オレに、『家族』を持たせてくれた。おかげで、より正しくなれたよ。ヒトを殺す方法も、より洗練されたが……ヒトとして、成長した」
「素晴らしい」
また拍手が起きる。いつの間にやらね、オレはこの『とんでもない芸術家』に対して尊敬を抱いているんだろう。彼女に褒められると、嬉しくなると来ている。
「もっと、熱い湯にしてやろうか?」
「いや。それは十分だよ。師といっしょに、各地を巡った。旅に慣れた者は、長湯は好まない。旅で得た、汗や泥のにおいさえも……記憶をとどめてくれる大切な宝物ではある」
「鍛錬の汗が流れるのを好まない武人もいたな」
「ああ。だが、ときには、ちゃんと風呂につかるのも良い。北の山地から採って来た、香りの強い薪だ。それを嗅ぐのも、いいものだよ。私はね、『とんでもない芸術家』だから、梢に止まり、歌を楽しむ小鳥たちも見える……ああ、酒を、持って来ておけば良かったかな。ミスターと、飲みながら、風呂を楽しむのも一興だ……だが」
「だが?」
「……湯はもう、十分だ。夏め。もうすぐ雨が降るというのに、なかなか厚かましい熱気である。冬ならば、良かったが……そろそろ、この熱い湯につかっているのも限界だ」
「夏風邪は退治できそうかい」
「もちろん。仕事をしたい。風邪など、さっさと殺して、私は芸術をしなくてはならんのだからな」
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