序章 『雨音は湖畔の屋敷に響く』 その30
「では、諸君、私についてくるんだ」
「いや、アトリエに戻るのであろう?」
「行動に突拍子がないというか……不思議な方っすね」
「網を仕掛けているんだ」
「網……とは?」
首をかしげるリエルに、芸術家は安い酒の入っていた酒瓶で方角を示す。
「あそこに湖があるだろう。やや人工的なところもあるが、十分に愛でられる程度には美しい。そこに、網を仕掛けている」
「魚を、捕まえようとしていたわけですか」
「ああ!……芸術をするには、腹が減ってな。諸君らが子作りで遊んでいるあいだにも、私は作品を作っていたのだ」
「真夜中にもっすか!?」
「そう。気の利いた差し入れが届いていたが、足らん。彫刻をすると、実に腹が減るのだよ。巨大な岩を、この細い腕で引きずり、削り、磨く。なかなか、腹が空く。楽しいがな!」
「だから、自分で、食料を確保しようとしたわけか」
「自然の摂理だな。腹が減り、いい湖がある。休憩がてら、網を仕掛け、酒におぼれ……気づけば、ここにいて、諸君らに発見された」
「働き者なのか、だらしないのか分からないヤツである」
「芸術家なのだよ」
その言葉を受け入れてやることは、いささか芸術家全員に対して失礼なことであるようにも思えた。だが、我々の困惑など気にも留めない『とんでもない芸術家』は、湖に向かって歩き始めたからね、追いかける。
「散策していたらしいが、良い庭だろう。楽しめるはずだぞ、ここの湖とその周りにあるデザインは、本能に訴える」
「ソルジェさまは、見抜いてたっすよー」
「私のレッスンを受けた成果だと言える!」
「かもしれん」
昨日から、感覚が研ぎ澄まされているのは確かだった。
「芸術とは何か?多くの解釈が出来るだろうが、私から言わせてもらえば視点なのだよ。ものをどうやって見るべきか、見えるものにどんな意味や価値が含んでいるか、真実を見る方法……それを示すものが芸術だ!」
「難しくて、よくわからぬぞ」
「カッコいい雰囲気の言葉っすけど、自分にはいまいち通じないっす……」
「いいのさ。それでいい。素直であることが、正しい!」
「……うむ。意志疎通が難しいのだ……」
「このマエス・ダーンがそう見えているのならば、君らの目はとても素直だということだ。それは芸術には、欠かせん。真実とは、歪んだ思考では見えなくなるのだ。知識で理解が及ばないときは、考えるよりも感じる。それを優先したまえ、素直なガールズ!……うう、腹が減ったなあ」
霧のなかに酒臭いため息を吐いて、マエスは走り始めた。
「魚どもめ、待っていろ!!」
「……奇天烈な女だ」
真実を射貫く瞳で得た印象を、あの愛らしい唇でリエルはつぶやいた。同意のために、皆でうなずいたよ。
……でもね。レッスンのせいか、マエス・ダーンの発言が少し理解できたような気もする。ものの見方を教える。それが、芸術に期待することでもあった。とくに、オレは美しいアリーチェの像を見たいってだけじゃなく、『アリーチェ現象』が世の中に固定されることを望んでいるのだから。
政治的な利用だ。
『亜人種や『狭間』が差別されない価値観を、芸術で『プレイレス』に刻み付けてやりたい』と願っている。それが、皆が拾得すべき『正しい見方』になるように……。
マエス・ダーンは変人ではあるが、まったくもってそれだけの人物ではない。『とんでもない芸術家』だということさ。
「おらああああああああああああああ!!……はあ、はあ……はあ。嘘だろ……一匹もかかっていない……いや、一匹……コイが……って!?逃げられ……クソがあああ!!」
「……おかしな光景である」
「はいっす」
「マエス・ダーンさーん。アトリエに向かいますよー」
「食事も、くれるかな、パトロン!」
「あげますよー」
「ありがとう!やはり、芸術家を支えるのは、財力をもった包容力だ!」
投網を地に置いたマエス・ダーンは、それが己のものだと示すために酒瓶の口を網目に突き刺していた。
「泥棒除けになるのか?」
「なるさ。これも『放浪派』の印の一つ。『プレイレス』の人々はな、人種差別をしても、芸術の腕前は認めていた。差別意識の強い、『モロー』の周辺でさえ、その通り。『放浪派』の生きるための道具までは、奪わんのだ」
「たくましさを感じるし、差別の根深さも感じるハナシだぜ」
「その通り。世界は、変えねばならん。良い芸術をするとしよう。任せておけ。師が生きていたら、大喜びしてあの『奇跡の少女』の像を量産しただろう……私も、するさ。そのためにも、こうして自然と触れ合い……感覚を研ぐ。良いことも、悪いことも、知覚して……刻むべき真実を見つけるのだ…………はっくっしょん!!」
「ほらほら、夏でも水びたしで動き回ると、冷えちゃいますよー」
「……くう。汗もかいていたから、それも冷えたか。酒で、暖を取ろうとしたんだが、あれも発汗させる……パトロンの別荘地で、野垂れ死ぬなど、芸術家の恥……」
「羞恥の捉え方も、ちょっと常人とは違うような気もするっすね。でも、夏風邪で死ぬのは情けないっすから。さっさと、アトリエに戻りましょう」
「うむ。そうしよう。すまないね、素敵な朝の散策を邪魔して」
「いや。楽しくもあるぜ」
「意地悪な笑いのセンスを持つ。それは、苦労人の特徴だな。良いことだぞ、ミスター。しっかりと苦労した方が、いい男になる……はっくっしょん!!……くそう、風邪を引き始めているな、百薬の長、酒を呑んで風呂に入って寝て治すぞ!!」
こうして、朝の散策は愉快な形で終わったよ。
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