序章 『雨音は湖畔の屋敷に響く』 その29


 湿った朝の草の上に、彼女は寝転がっていた。


「おい。マエス。何をしているんだ?」


 健やかな寝息は終わり、長いまつげに飾られた眠たげな瞳が開く。美女なのに。もったいないな。酒瓶を抱えて、いきなり地べたに寝転がっているところと遭遇すると、魅力がずいぶんと減っちまう。


 本当に、こいつ。何をしているんだか。


「ミスター、女の寝顔を見て、ニヤニヤするのは悪い行いだと思うぞ」


「たしかにな。あらためたい。しかし、疑問が大きすぎてな。早朝の散策の最中で、いきなり美人の芸術家のお姉さんが地面に寝そべっている。朝露というか、霧に濡れて」


「官能的かな」


「いや、どっちかという喜劇的というか。突拍子のないことだね」


「『放浪派』の芸術家に育てられたのだ。それさえ知っていれば、納得するだろうさ」


 どうだろうか。


 『放浪派』が『プレイレス』の芸術家たちの世界から拒絶され、街中での名誉を得られなかったとしても、早朝の湖畔で寝そべっている者ばかりには思えない。そんな奇行を大勢でやっていれば、もっと有名になっているんじゃないだろうかね。


 芸術を越えたヘンテコな行いは、誰しも耳にする喜びはあるものだが……。


「皆が、そうではないであろう?」


 リエルの率直な言葉に、マエスは微笑で応じた。


「……そう。まあ、『放浪派』といっても、本当に野宿ばかりしているような輩は、少数だよ。宿代ぐらい稼げなければ、あるいは……それを出してくれるパトロンが寄って来るほどの腕がないのであれば、別の仕事を選ぶほかにない」


「お前は、有名なのであろう?……金もそこそこ持っているだろうに?」


「これも、教えさ」


「教え……とな?」


「そう。大地に寝転がる。土と一体化する。雨に打たれる。死も自然も、生命も、その身の全てで感じ取られるんだ。このインスピレーションを得るためのエクササイズが、師と私を研ぎ澄ませてくれるのだよ。本当だぞ?」


「いつもは、信じてもらえない言葉というわけか?お前は、とても風変わりな女に見えるぞ、マエス・ダーンよ」


「芸術家とは、そういうものだよ!」


「……ふむ。なるほど、な」


 独特の説得力がある。芸術家たちにフツーなヤツはいない。オレと共にあちこち旅をして来たリエルも、その愉快な傾向は知っている。多少は、変でなくては務まらない仕事なのかもしれないな。


「だが。度が過ぎる奇行は、命にかかわるぞ。夏でも、風邪は引ける」


「夏風邪で死んだ『放浪派』の芸術家たちは数知れず」


「うむ。森のエルフもそうである。マエスよ、どうせ、酔いでも回って家から迷い出たのであろう?」


「洞察力に、長けているじゃないか」


 酒瓶をくるくると辻芸人のような器用さで回してみせながら、彼女は語る。


「酒瓶と共に寝ている女は、美しく見えんぞ」


「それは、課題だな。私にとって、美貌とは……美しくあり、風変りでもあるということは、芸術を成すためにはどうしても必要な前提条件なのだが……」


「健康でいることも、大切であろう?……ほら、立つといい。お前に貸したアトリエにでも行こう。我々が泊っている本館の方でもいいが、風呂に入れて暖を取るといい」


「んー。アトリエの方がいいかな。君らが使った後のお風呂とか、とても卑猥な気配がありそうだから」


「な、何というコトを!?わ、我々は、それほどエッチなことを、してなどいないであるからして!?」


「慌てるほどには、卑猥だったわけだ。それは、そうだ。これほど美しい妻を四人も娶っていれば、若い夫は楽しくて仕方がなかろう」


「四人、と言ったのは、言い間違えか?」


「いいや。そう感じ取っているから、そう言ったまで」


「正解だ」


 ジュナ・ストレガもオレのヨメだからね。その真実も、この奇行の最中にある風変わりな芸術家は―――『とんでもない芸術家』、マエス・ダーンは見抜いてみせたか。


「魔眼でも、持っているかのようっすねー」


「そんな目玉がなくてもね、『魔法の目玉』は養えるのさ。才能も、要る。それは、全ての芸術において、否定できない現実ではあるが……誰もが、適切な訓練方式と、正しいエクササイズを重ねることで、研げはする感覚というものがある」


「難解ですね」


 大いなる知恵の体現者、ロロカ先生でさえもマエス・ダーンの言葉を理解しかねるらしい。というか、おそらく……。


「君には、向かない思想の方式だと思うよ。悪く言いたいわけじゃない。タイプが、違う」


「ええ。私は、頭で考え過ぎる方だと思いますので。遊び心を、持とうと必死ではありますけれどね」


「それでいいのさ。君らしい力の形だ。やはり、メガネで巨乳なる者は、賢くなければならん!!実に、いい!!」


「ま、まあ。巨乳はともかく、メガネをかけている賢い方は多い気がしますね」


「ああ。知性と、行動と、外見。それらをつなげる目に見えない方式があるからね。そういう知的な方々とは、スタイルが違う。どちらかと言えば……」


 芸術家のニヤニヤした視線に見つめられちまったな、名誉なことに。


「ミスター、いい知覚をしている。昨日の言葉を、しっかりと受け止めて実践しているな」


「心がけては、いたかもな」


「修得しているよ。その調子で、伸ばすがいい。集中せずに、感じ取れ。集中は深いが、狭くを感じ取る。リラックスしている今は、いい。広く、素直に真実を認識しているぞ。霧の中であること、妻たちと共にいることが、集中を削いだ。いいエクササイズになっている」


「そいつは、良かったよ」


「ああ。とても良いことだ。お前は、上に立つ者だ。そういう者は、素直で広範な視野を獲得せねばならない。その力を獲れば、ミスターは、より多くの者を幸せにする。あるいは、不幸にすることを、防げるのだぞ」


 ……オレに、『政治』も教えてくれている気がするんだよね。マエス・ダーンそのものは変わっているのだが、『正しいものの見方』を教える力は、超一級なんじゃないかと思う。良い刺激は、受けているはずだぜ。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る