序章 『雨音は湖畔の屋敷に響く』 その27
いちゃつきながら着替えた。大人は本当にスケベな生き物だよ。
でも、ミアとガンダラとジャンは眠っているだろうから、移動に関しては自重する。声と足音を消して、無音の隠遁を心掛けつつ屋敷の階段を降りた。玄関ドアを開けて、朝の静けさと湖畔特有の林のにおいが融けた朝霧と出会える。
「わあ。霧が、良い雰囲気っす」
「幻想的であるな!」
「湖の中央近くまでは、見通せませんね。全てがおぼろげに見えて、何だかワクワクしちゃいます」
『いつもと違う場所』の良いところは色々とあるけれど、大人さえも童心に帰らせるという点も魅力的だよね。
誰もが夢を馳せる旅行記を書く旅行家さんたちよりも、ある意味ではより広大な土地を地元の諸勢力と『深くお付き合い』しながら巡っているわけだが……戦ばかりの日々は、こういった基本的な感動を鈍らせているかもしれん。
戦いに囚われ過ぎれば、見えぬものも多くなる。
『死神』とか呼ばれていた頃のオレよりは、間違いなく今のオレの方が強い上に、けた違いに幸せだった。ヒトは、やはり日常的な価値観を捨て過ぎてはいけないんだよ。ガルフに教えてもらった通り、楽しむべきだな。
林の香りが融けた爽やかな朝の風を、ニヤニヤした顔で吸い込む。
「目が覚めるなあ、いい空気だぜ」
「ですね」
「早起きすると、こういう良い空気とも出会えるのだ。まるで、森のなかにいるような気持ちになれて、落ち着けるのだぞ。ソルジェ、深酒からの寝坊という一連の悪癖を改善することで、お前はより良い空気を、その鼻で味わえるのだぞ」
細い指先に、蛮族さんの鼻頭が押さえつけられる。
朝の空気も素敵だけど。酒の香りも、好きなんだぜ。職人たちの努力と研究の風味さ。そんな本音を口にはしない。成長しているんだよ。過度な皮肉と反発は、愛想に欠いちまう。今は、早朝の空間が宿した素晴らしさを讃えるべき時間だった。
「さて、どっちに行ってみますか?」
ロロカ先生がニコニコ笑顔で霧のなかに立つ。左手の先には、木々の影が見えたな。林がある。右手の向こう側は、霧をたたえた湖の平坦さだ……。
「林の方は、足元が良くないっすね。昨夜の雨で、ドロドロっす」
「うむ。では、湖の方だな……馬の足音が、聴こえた方にもなるが……」
「まあ、行ってみようぜ。泥に汚れるよりは、綺麗な湖のほとりを歩くべきだ」
仕事を忘れるべき時間だと、リエルは考えてくれているのさ。良い子だよ。夫婦の時間を作りたいって、願ってくれているんだ。
「そうであるな。だが、霧に視界を奪われて、湖に落ちたりせぬようにな」
「ですね。でも、それも心地よさそうですが」
たしかに。ついこないだ早朝の池で水浴びしたが、涼やかで最高だった。耳まで水面につけて、水中の音を楽しみながら全身を脱力して冷えた水に浮かせる……あれも、夏の朝にするには最高の遊びだと信じられた。
でも、野郎と女子の価値観ってものは、まったく異なっているからね。朝から湖で水浴びなんてものは、野鳥と野郎が喜ぶ種類のことで、猟兵女子たちは好まんよ。
「注意しながら、歩こう。オレが先頭を行くよ。大した雨じゃなかったが、道が崩れたりぬかるんでいたりするかもしれないからね」
「紳士的っす!」
「ありがとうございます、ソルジェさん」
「エスコートするのだぞ、夫よ!」
「任せろ」
魔眼に、少しだけ魔力を込めた。立ち込める霧が、視界のなかでクリアになる……だが、なり過ぎてはつまらないからな。ちょっとだけしか魔力を使わんのだよ。霧のなかの散歩の雰囲気を邪魔しない程度には、視界不良を保つのさ。
同じ状況をヨメさんたちと共有するのって、素敵な行いじゃないか。
それに、大した危険も落ちてはいまい。
あるとすれば、雨で崩れた道だとか、不意な穴だとか……泥水だらけの深めの水溜まりあたりだな。どれにしたって、大してヒトを不幸にすることもない、愉快なアクシデントに過ぎん。
むしろ。
ちょっと泥水でも浴びたらさ、早朝の湖でクロールでもする理由になるかもしれないじゃないかね。朝の運動というのも、悪くないものさ。腹ごなしには最適じゃある。もちろん、そんなことにならなくても、散歩だけでも良いけれどね。
「足元に気をつけながら、行くとしよう。何か、面白いものがあればいいな」
「きっと、あるだろう。早朝の出会いは、有益なものが多い。森のエルフの口伝では、そうなのだ!」
「だから、リエルちゃんは朝が早いんすか?出会いを求めて?」
「そういうわけではないな。たんに習慣である。健康的であるし、鍛錬をするにも、適した時間帯だ。ムダに、集中を研ぎ澄まさなくても、集中して何かをやれるしな」
「向上心があって、良いことですよ、リエル」
「はい。ロロカ姉さまも、今後は早朝から何かをなさっては?」
「えーと……夜更かししながら、ランプのだいだい色の灯りの下で読む本も、とーっても魅力的なんですよー」
「そうですか。良い時間を、失うわけにはいきませんからね。では、カミラはどうだ?今後は、私が起床すると、起こしてやってもいいのだぞ?」
「え、えーと。また、次の機会に!あ!見てくださいっす!何か、湖に向かって、突き出しているっすよ!」
「むー?……うーむ、ボート用の桟橋であるな」
「ボートをこぐのも楽しそうじゃあるが、肝心のボートはないようだぜ」
「まあ、霧で見通しも良くなさそうなので、湖に出るのは日中が良いと思います」
「なるほどっす。では、次の場所に行ってみようっすー!」
早起きを強いられることを、こうしてカミラは回避したようだ。たまの早起きが良いっていう派閥に、我々は属している。
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