序章 『雨音は湖畔の屋敷に響く』 その19
『とんでもない芸術家』であるマエス・ダーンの仕事は、たしかに早い。殴りつけるような動作だというのに、ジャンの姿が描き取られていく。
「迷いというものが、無いんだな」
「んー。無いねえ。そんなものは、このマエスさんには、要らないものだからねー」
「常に最善。すべきことが見えていると?」
「もちろん、そうだ。細かな修正は、後からすればいい。私のスタイルは、それなんだよ。まずは、対象を『見る』。そのままに、写し取るんだ。外側から描きつつ、内側も見ていく」
「内側を見るとは?」
「いい質問だな、ゲスト。いや、クライアントか。私の芸術活動を邪魔するだけの価値はあるよ」
「そりゃどうも」
少しばかり無遠慮が過ぎたかもしれない。だが、マエス・ダーンはそういうことを気にしそうにもないな。彼女のものと思しき、薄手の上着がある。カラフルだ。絵の具やら炭や、粉っぽい何かで汚れているな。
「着の身着のまま、ここに来た。前の仕事が終わったばかりか。忙しいのに、すまないな、芸術を知らん男の言葉などぶつけてしまい」
「それだ」
「ん?」
「内側を、見つけたな。ミスター」
「内側?……ああ、君の性格や、事前の行動を、探ることかな」
「それもある。しかし、もっと深いところまで、考察をしているはずだ」
「ふむ。よく分からんぞ」
「私の本質だ。仕事……こと、芸術活動が何よりも優先される。私は、目的に一途で、細かなことは気にしない。大胆で、雑に見えるが……実際のところ、一つだけを見ている。だから、迷わない。すべきことなど、最初から分かっている。真の意味で知的であるがゆえ、愚かな道でも、迷うことなくゴール目掛けて、突き進む。それぐらいは、悟っていただろう?精密にそう思えなくても、感じ取れていたはずだ」
「かもしれん」
「それが、内側を見るということの初歩の技巧だ。お前は、私のスタイルに向くと思うぞ」
「光栄だな」
「皮肉屋で意地悪。だが、力を得ようと必死。態度の大きさは、幼いころから偉大な尊敬対象が近くにいたから。目指すべきところは、ずっとブレてはいない。似ているだろう、我々は?」
「歩んだ人生は、違うだろうがね」
「もちろん!誰もが固有の人生を歩く。だが、本質はいくつかの似た形になるものさ。とくに偉大な者は、世界があまり自由を与えてはくれん。使命を背負わされる。ヒトの身で、狂いもせず、その大きすぎる使命に応じられる者の本質は、やはり偉大な形へと行きつく!……性格は服のようなもの。本心は、肌だ。しかし、本質は……それよりも内側。絵を描きながら、石材を削りながら、私はそこまで探っていく!!」
「外見からそこまで判断できると?」
「当てているだろう?お前の人生を、その身体を少し見ただけで、私はいくらか当ててしまっているはずだ」
「……否定は、出来んな」
言い当てられている。思い当たるフシだらけだ。マエスという女性は、芸術家が集まる『モロー』においても『特別』の地位にいられるほどには、変わっているらしい。端的に言えば、天才といったところか。だが、もっと、相応しい言葉が他にありそうな気もする。
「優れた芸術家とは、そういうものだ。常人とは、やや異なる。優れた戦争の達人が、やはりそうであるように。お前は、この怪物のように腕力は強いが、何故か細身の男に、尊敬されている。周りの女どもからも。まあ、妻だからか。とにかく、ただの仲間ではない。部下ではない。家族だと思っている。きっと……昔、多くを失ったからだ。この痩せっぽちもな。信念に殉教したいと願うところもある。死と勝利は引き換えられる。良い生き方だ!私の最高傑作のための習作になるぞ!!ハハハハハハハ!!」
「いい洞察力をしているようだ」
「それがない芸術家はクソだからな。つまり、『ツェベナ』にいる連中どもも、実際のところは、取るに足らないクソだらけだが」
「自信家だ」
「見合うだけの、実力と才能があるから、傲慢にもなれる」
「なるほど、さすがは『とんでもない芸術家』だよ」
「ああ。そう呼ばれることは、好きだぞ。安っぽく天才などと言われるよりも!昂る!やる気が出てくれる!!全ての者は、私へその独特の感情を捧げて欲しい。尊敬と、畏怖と、嫉妬と、拒絶と、若干の失望も!誰の期待にも応えてやるつもりはないし、媚びるための行いもやれないが、私は、迷わず、常に……真実を、吐き出す!!完成だッッッ!!!」
……こうして、ジャンの絵が瞬く間に完成した。
炭で殴りつけるように描いたとは、とても思えない。瓜二つの絵である。『今この目の前にいるジャンとは違って』。
「緊張したジャンではなく、普段の、ジャンだな。自然体の」
それでも、人見知りな気弱さを帯びているが……つまり、『いつものジャン』だった。
「そうだろう?私のすごさが、分かっただろう?ハハハハ!」
「ああ。それも、スゴイと思うが……どうして、分かった?」
「何がだ?ああ。あれか、『狼』か」
「え、ええ!?そ、その、ボク、へ、変身、していませんけどっ!?」
理解が及ばん天才……いや、『とんでもない芸術家』というヤツが目の前にいた。精密に描かれた『いつものジャン』の影は、あきらかに巨大な『狼』の形をしている。
「真実だけを描くと言っただろう」
「み、見えるんですか!?」
「感じ取る。それがやれるんだよ。ドワーフたちが鋼と語れるようにね。私は、ただの人間族だが……たんにそれがやれるのだ。才能と、知識と、経験。まあ、諸々を組み合わせてのことだが……まあ、いい。ジャン・レッドウッド!」
「は、はい!?」
「変身と言ったな。それをやれるわけだ。興味深い。さあ、見せてみろ」
「え、えと。その、せ、迫られると、緊張するって言いますか!?」
「ん?裸にされるよりは、良かろう?ほら、どうした?……全裸にされたいのか?」
「い、いえ、その、変身の方が、いいですうううううう!!?』
ジャンが『狼』に変身すると、マエスは高笑いする。
「ハハハハ!!正解だなー。いやー、私も、今日は、ヘンテコだ!!すばらしい、『とんでもない芸術家』だぞー!!ハハハハ!!!」
……バケモノと出会う。それは、良い経験になるな。マエス・ダーン。多くの芸術家が推薦するだけはあるほど、常軌を逸した力の持ち主のようだ。
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