4-3 白と黒

 大学生になってから暮らし始めたアパートは、最初は真っ白で何もなかったけれど、二年と半年ほどの期間を過ごす間に、さまざまな色彩が足されていった。1Kの生活空間には、家具やインテリアは最小限しか置けなくても、写真立てに収めたアトリエのミモザの黄色が、温かみのある光をともしてくれた。最近は勉強の本がかなり増えたから、小さな本棚を埋めた書籍は、色とりどりの絵具を載せたパレットみたいにカラフルだけど、彗のアトリエの極彩色ごくさいしきには程遠い。キャンバスもイーゼルもない部屋で、彗が私のベッドに腰かけている眺めは、まるで何かの間違いみたいだった。

「彗。夕飯の準備をするから、ゆっくりしてて」

「僕がやるよ。澪は休んでて」

「ううん。彗は……朝早くから出掛けて、疲れたでしょ? 私は、大丈夫だから」

「……ありがとう」

 蛍光灯の白い光の下で、彗は薄く笑ってくれた。台所に立った私は、ベッドをそれとなく気にしながら、ふと違和感を覚えた。ティーポットが、シンクのそばに出しっ放しになっている。いつもは棚に仕舞っているのに、片付けを忘れていたようだ。ちょっとに落ちない思いを抱えながら、私は冷蔵庫の中を確認した。

 冷凍した鶏肉とニンジン、ブロッコリー。運よく買っていた牛乳とバターも、賞味期限はまだ先だ。これなら夕飯の献立こんだてを組めそうで、安堵あんどの息を吐き出した。

 最近は、生活基盤がアトリエに移っていたから、私の家には日持ちしないものをあまり置かなくなっていた。彗とここに来る途中で、出来合いのものを買えばよかったのかもしれないけれど、なんとなく、寄り道をしたいとは言えなかった。

 彗の様子が、いつもと違っていたから。

 表面上は、いつもの彗だ。穏やかな笑い方も、私と歩調を合わせる優しさも、普段と全く同じだった。あまりに同じすぎて、異質だった。私たちは今朝、訃報ふほうの電話で目を覚まして、故郷に帰省きせいした彗は、お通夜つやに参列しているはずなのに。

 何かが、あったのだ。友人との別れをしのびに行ったはずの彗が、壱河一哉いちかわかずやさんのお通夜に参列せずに、この町へ帰らなくてはならないくらいに――重大で、深刻な、何かが。でも、それが何なのかは分からなかった。彗の申し出の意味も、私ははかりかねている。

 ――『しばらくの間、澪の家に泊めてほしい』

 私が彗のアトリエに連泊することはあっても、逆は初めてだ。理由は単純で、私の部屋よりも彗のアトリエのほうが広いから。一人で寝起きしているこの部屋は、二人で暮らすには狭すぎる。それでも私は構わないけれど、彗の真意が読めなかった。戸惑いに翻弄ほんろうされたまま、私はコンロに載せたフライパンを火に掛けた。

 熱を加えたバターと薄力粉はくりきこが、クリーム色の団子になる。牛乳を少しずつ注ぎ入れて、木べらで手早く混ぜ合わせると、じゅわっと伸びて拡がった。この工程を繰り返して出来上がるホワイトソースで、シチューを作るのは久しぶりだ。こんな体調のときには、もっと簡単な料理にすべきだったと思うけれど、温かい夕食を取れば、彗を元気づけられるかもしれない。単調な調理がもたらす忙しさが、戸惑いを薄れさせたときだった。

 木べらが、私の手から滑り落ちた。まだ牛乳で十分に伸ばせていないバターと薄力粉のかたまりが、重たく跳ねてシンクを汚した。焦げたホワイトソースが黒ずんで、白をじわじわと浸食しんしょくしていくのに、宙に浮いた私の右手は、落ちた木べらを拾えない。背後から抱きしめられたから、両腕の自由がかなかった。名前を呼ぶことしか、できなかった。

「彗」

 応える声はなくて、私を抱きしめる力が強くなった。そんなに力を込めたら、右腕が痛むはずなのに、彗は力を緩めない。部屋の隅の台所で、彗の身体で灯りがさえぎられた暗がりで、こんな彗と出会うのは、これで三度目だと気づいていた。

 二度目は、今朝だ。アトリエの玄関で、彗らしくないキスをされたとき。そして一度目は、七月の夜だ。『フーロン・デリ』からの帰り道を、星加ほしかくんと二人で歩いてから、アトリエで彗と夕食を取った夜のことだ。

 フィンセント・ファン・ゴッホの油彩画『ひまわり』などに見られる黄色と青色について話した彗は、続いて油彩画『星月夜ほしづきよ』に対する『印象』を語ったあとで、私を普段よりも強く抱きしめた。今にして思えば、あのときから彗は、私に近づいた星加くんの存在に、薄々と勘付かんづいていたのだと思う。

 どうして、今まで気づかなかったのだろう。彗が、私への優しさよりも、自分の気持ちを優先するときは、不安に心を絡め取られているときなのだと、似た者同士の私だけは、すぐに見抜けて当然だったのに。

 右腕をぎこちなく伸ばした私は、コンロの火をなんとか止めた。それから、彗の右腕の負担にならないように、身体を慎重によじってから、表情がない彗と向き合って、抱擁ほうようを静かに受け入れた。小さな声が、一言だけ、頭上から霧雨きりさめのように降ってきた。

「ごめん」

 彗が何に対して謝ったのか、私は訊き返せなかった。私が頬をつけた彗のシャツは、さっきまで夜風にさらされていた所為か、油絵具の甘い匂いがしなかった。

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