3-13 バーベキューと文芸翻訳
バーベキューの準備は整っていたので、せめてお肉や野菜を焼く係りを引き受けようとしたけれど、
「トウモロコシは、うちの庭で採れたんだ。形は歪だけど、味はなかなかでしょ?」
そう聞いて、納得した。ポロシャツから露出した綾木さんの腕は日焼けしていて、庭の手入れが日常に組み込まれているのだろう。アリスが「こっちも食べてみて!」と得意げな笑みで言って、私たちの紙皿に焼きたてのアスパラガスを載せてくれた。
「塩胡椒とオリーブオイルに漬けて味付けをしてるから、タレなしでどうぞ」
「本当だ、すごく美味しいです。今度、うちでも試してみます」
「この調理方法は、アマネが教えてくれたのよ。前の彼女が教えてくれたのよね?」
「アリスさん、さらっと古傷を抉らないでくださいよ」
バーベキューコンロのそばにいた
「彼女さんと、別れちゃったんですか?」
「巴菜ちゃん、そういうことは、訊かないほうが……」
「構わないよ。もうかなり前の話だし、僕がいけなかったことだしね。仕事の忙しさを言い訳にして、彼女の話を聞けなかったから」
「
「はは、
旧知の友人そのものの気安さで笑い合って、ビールを飲んでいる高嶺さんと綾木さんを見ていると、昨日の飲み会にはなかった温もりを感じ取れて、初対面の相手なのに落ち着けた。二人の馴れ初めが気になったとき、まるで心を読み取ったみたいなタイミングの良さで、綾木さんがウインナーを焼きながら教えてくれた。
「
「といっても、在学期間は重なっていなくて、知り合ったのはサークルの飲み会でOBを招いたときだよ」
飲み会という
「僕も綾木先輩も、文学部のフランス文学科出身だよ」
――パチリ、パチリと、バーベキューコンロで炭火が弾ける音がした。「ミオ、お肉ももっと食べてね」とアリスが取り分けてくれたお肉を
「あたし、外国語は本当に上達しなくて。自分から選んで勉強するなんて、何かきっかけとかあるんですか?」
「きっかけというほど劇的なものじゃないけど、昔から本の虫でね。とりわけ好きだったのが海外文学だったんだ。そこに
夢と憧れの歴史の言葉が、
「一番好きな海外文学が、サン=テグジュペリの『星の王子さま』だからかな」
高嶺さんは、さらりと答えて微笑んだ。
「フランス文学には、人間が抱えた喜びや悲しみ、人生の哲学がたくさん詰まっているんだ。一生学んでも学び足りないくらいに深くて、もう抜け出せそうにないくらいに魅了されているよ」
「高嶺くんは、仕事にも選ぶくらいだからね」
「翻訳の仕事にもいろいろな種類があるけど、僕が
「文芸翻訳……小説を、翻訳されているんですか?」
「うん。雑誌やノンフィクションも扱うし、僕はそっちのほうが多いかな。さまざまなジャンルに
「おいおい、いつもはそんなことを僕に言ってくれないじゃないか。若い子がいるときだけ、そうやって僕を持ち上げるんだから」
「そんなことはありませんよ。ああ、倉田さん、
「それも、フランス語関係なんですね……」
話のスケールが大きくて、私は圧倒されていた。楽しそうに話す
「倉田さんも、もう見つけてるんじゃないかな。僕らにとっての、そういうものを」
「え?」
「なんとなく、そんな気がしただけだよ」
受け取った言葉は透明なのに、それでも思いが伝わるのは、目には見えない情緒が翻訳されているからだろうか。私が口を開きかけたとき、巴菜ちゃんが「あの!」と大きめの声を上げて、私たちの会話に割り込んだ。
「フランス文学科出身ってことは、フランス留学も経験されたんですか?」
「うん、短期間だけどね」
「留学中の毎日って、どんな感じですか? 現地の方々と、コミュニケーションは取れましたか?」
巴菜ちゃんの態度は性急で、高嶺さんを見ているようで、違うところを見ている気がする。少し心配になったけれど、巴菜ちゃんが質問したことは、私も気になっていたことだ。ハムに箸を伸ばした高嶺さんは、
「文化も暮らしも違うから、戸惑うことも多かったけど、そういう驚きや苦労も含めて、貴重な時間を過ごせたよ。コミュニケーションに関しては、かなりボロボロだったけどね。当たって
――フランス文学を専攻していた高嶺さんでも、言語の壁にぶつかるのだ。私は密かな驚きを胸の奥深くに仕舞ってから、おずおずと質問した。
「あの……フランス語が通じないときって、英語は代わりになりますか?」
「ん? 英語か……」
高嶺さんは、
「英語は、通じるときもあるけど、そうじゃない場面のほうが多かったな。僕も、拙いフランス語が相手に伝わらなかったときに、苦し紛れに英語を使ったことがあるからね。観光客向けのお店なら、英語で問題なく通じる場所が多いから、日本語しか話せない状態よりは、心強いのは確かだよ。でも、現地で暮らしている人たちとの対話は、英語だと厳しいかもしれないね」
私が相槌を打てないでいると、高嶺さんは優しい表情に戻って「ごめん、怖がらせちゃったね」と言って、申し訳なさそうに微笑んだ。焼き上がったウインナーを紙皿に移した綾木さんも、おっとりとフォローを入れてくれた。
「大丈夫だよ。十人十色という言葉が示すように、僕ら日本人だって、さまざまな考え方を持つ人間が、同じ国で暮らしているよね? 物事の捉え方は、人それぞれ。そう考えたら少しは安心できるし、海外で言葉が通じなかったことで、他者から
「はい……」
綾木さんの言葉を、しっかりと記憶に刻み込む。勧められたジャガイモのホイル焼きを食べるうちに、バターの豊かな風味と熱さが、
そこからは、高嶺さんのフランス留学時代の話を、巴菜ちゃんが訊き出していく流れになった。フランスの朝食は甘いものが多いとか、ガラスの天井を持つ細い通路に昔ながらの商店が連なったパッサージュと呼ばれる場所が素敵だとか、パリで食べたとびきり美味しい苺のアイスクリームとか、高嶺さんと同じ留学を経験した綾木さんも会話に加わって、異国の思い出話に花が咲いた。
やがてバーベキューコンロからお肉と野菜が消えた頃、ようやく薄雲が晴れた空は、水色と茜色のグラデーションを描いていた。アリスが「デザートにしましょ!」と陽気に言って、自宅から庭に運んだトレイを見て、私と巴菜ちゃんは歓声を上げた。
「クレームブリュレですか? すごく綺麗」
「そうよ、ミオ。クレームブリュレも、フランス語だって知ってた? 意味は『焦がしたクリーム』で、フランス語が堪能なヤスヒコとアマネにぴったりなデザートね。アマネも一緒に作ってくれたのよ」
「高嶺さんが?」
「留学時代に、向こうの友人に教わったんです。他にも、トゥルトーフロマジェっていうフランス西部の伝統菓子で、上半分を真っ黒に焦がしたチーズケーキとか、日本人にも身近な例なら、ガトーショコラとかもね。現地の人たちの味には敵わないけど、教えてもらえてよかったよ」
――また、フランス語なのだ。白いカップに収まった手作りのプリンは、
スプーンで飴色をこつんと叩くと、
「アリス。このクレームブリュレ、あとで作り方を教えてもらえますか?」
「もちろんよ。アマネのレシピがあるから、ミオの分も用意するわ。表面の砂糖を焦がすときに、バーナーを使うのが怖かったら、ケイに手伝ってもらったら?」
「それは……彗ならできると思うけど、私もできるようになりたいです」
首を横に振った私は、アリスに笑みを返した。
「彗の手は、絵を描くための、大切な手だから」
アリスは青色の目を見開くと、とびきり楽しそうな笑顔で、私をぎゅっと抱きしめた。
「うふふ、可愛いわね!」
「アリス、苦しい」
「ああ、でも本当に残念ね。今日は、ケイも来られたらよかったのにね」
「はい。彗も、残念がっていました」
今日のバーベキューは、アリスと綾木さんに高嶺さんを交えた三人の予定だったに違いなくて、外国に
焦がした砂糖みたいにほろ苦くて甘い気持ちに浸っていると、アリスの隣に座った綾木さんが、私を振り向いて「倉田さんの彼は、絵のお仕事をされているんだよね」とおもむろに言った。私よりも先にアリスが「そうよ!」と自慢げに答えると、立て板に水のごとく説明した。
「大学の経済学部に通いながら
「アリス、そんなに彗のことに詳しかったんですね」
「え? ああ、ということは、そうか。彼が……」
綾木さんは、丸い目を眼鏡の奥で
「ほんと、澪ちゃんの彼氏さんみたいに、勉強熱心で、一途で、きちんとしてるところ……あいつにも、見習ってほしいよね」
――
「ハナ。その話、もっと詳しく聞かせてよ」
「あっ……いえ、今のなし! なしでお願いします!」
「ふふ、はいはい。なんだか分かるわ、ハナの気持ち」
「あたしの気持ち?」
「ええ。あなたの気持ち」
丁寧に答えたアリスは、遠い目をした。
「新しい友達とか、恋人とか。大好きになった人のことって、親しい間柄の人に、たくさん話したくなっちゃうわよね」
情感のこもった言葉が、心の
――『知ってるよ。倉田さんには、二年付き合ってる彼氏がいるって。相手は、別の大学に通いながら、画家をやってるってことも聞いてる。それに、そいつは倉田さんに、はっきりと告白したわけじゃないことも』
星加くんの言葉はハキハキしていて、絶対の自信が
――『好きだって伝えないくせに、倉田さんのことを大事にしてるって言えるのかよ』
他人に言いふらされて困ることは、友達にだって話していない。だから、秘密にしていたわけじゃない。星加くんに知られても、本来なら構わないはずだった。
でも、まさか――全て
――もしかして、巴菜ちゃんなの?
大学三年生になってから友達になった同級生を、高嶺さんと談笑している女の子を、私は自分でも青ざめていると分かる顔で見つめ続けた。
――私と彗の関係を、星加くんに詳しく話したのは、巴菜ちゃんなの?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます