2-6 似た者同士

 私が、次に彗の家を訪ねたのは、絢女あやめ先輩と食事をした日から三日後だった。

 スーパーの袋を手にぶら下げて、坂道を上がる私の足取りは重かった。空は穏やかに晴れ渡っているのに、切り揃えた前髪を撫でる風も日に日に暖かくなっていくのに、大学二年生の終わりが近づけば近づくほどに、私は道標みちしるべを見失いかける。

 あの日、絢女あやめ先輩が私に会いに来てくれた理由を、私はまだ受け止め切れていなかった。絢女先輩が、長いあいだ一緒にいたはずの人と別れてしまったことは、私にとって思いのほか大きなショックとなって、心に響いていたのかもしれなかった。

 破局はきょくの理由は、なんとなく分かっていた。絢女先輩は、頭が良くて、優秀で、誰かに道標みちしるべを示してあげられる優しさと、何もないまっさらな場所に道を作って、日向ひなたおくすることなく自分の足で歩いていく力がある。掛け持ちのアルバイトにいそしみながら、就職活動にも溌溂はつらつと取り組んでいた絢女先輩は、私の目から見てまぶしかった。無邪気に心惹かれる者もいれば、その眩しさにかれてしまう者だっているだろう。記号みたいな存在で、いられないなら。生々しい、人間なら。

 人間だから、愛を育めるのかもしれない。でも、絢女先輩でも駄目だった。時の流れが二人の関係を壊すなら、私の感じた不安は、どうやって失くせばいいのだろう?

 気づけばアトリエの前に着いていた私は、尻込みする。絢女先輩と会った日の出来事が、私に何かを予感させていたのかもしれない。このときから、違和感はすでにあった。門を抜けて、煉瓦の飛び石に沿って歩く途中で、私は足を止めた。

 ――家の中から、声が聞こえる。

 この家に来る人間は、限られている。秋口あきぐち先生。私。私と一緒にいるときには、たまに絢女先輩も。だけど、今、聞こえる声は、着色料と人工甘味かんみ料が入ったお菓子みたいな甘さのハスキーな声は、男性の声でもなければ、絢女先輩の声でもない。心拍数が上がる音が、身体中に響いた。

 ここで引き返せばよかったのに、私はポケットから鍵を取り出して、鍵穴に挿し込む前に、思わず扉に手を掛けた。抵抗なく扉は開き、すっかり見慣れたつやのある木の床が、立ちすくむ私を出迎える。この家は、来る者を拒まない。初めて、そんなふうに思った。三和土たたきには、見慣れないミュールがあった。赤みがかった濃いピンクのエナメルが、私の不安とぐるぐる混ざり、マーブル模様を描いていく。

 足音を立てないように、廊下を進む。こんな気持ちで気配を消して歩くことだって、初めてだ。こんな経験なんていらないのに、私はもう前に進むことを止められない。アトリエから零れる昼下がりの光を、扉にまったステンドグラスが虹色に染めている。声は、そこから漏れていた。

 私は、扉の前まで、なんとか歩いて――虹色のガラスの向こうに、二人を見た。

 普段はイーゼルを立てかけている場所で、丸椅子に座り、スケッチブックと鉛筆を構える彗。そんな彗の向かいで、二人掛けのソファにしなだれかかる、ワンピース姿の、知らない女性。長い巻き髪は、ステンドグラス越しにもわかるくらいに明るい茶髪で、まなじりが黒く跳ね上がったメイクはつやっぽくて、ワンピースからきわどいラインまで覗いた白い両足を見た瞬間、私はスーパーの袋を投げ出して、脇目も振らずに逃げ出した。

 このときには、もう分かっていた。絢女先輩が、どうして私を心配したのか。

 知っていたのだ。このことを。彗が、モデルを取ったことを。だけど、本当にモデルだろうか。分からない。知りたくない。目尻の滲みを気の所為にしたい自分の心が重くて、苦しくて、坂道をがむしゃらに駆け下りた私は、激しい息切れにあえいで立ち止まるまで、アトリエから必死で離れ続けた。

 私たちは、やっぱり似た者同士なのだ。生々しい人間になったのは、私だけではなかった。そんな当たり前の事実に傷つくくせに、彗にだけは記号としての美しさを保っていてほしいだなんて、どこまで傲慢ごうまんなんだろう。どんどん複雑に入り組んでいく自分の心が、うとましくて仕方なかった。

「澪!」

 後ろから、腕を強く掴まれた。私は、とっさに抵抗しようとして、躊躇ちゅうちょした。

 万一、私が抵抗した所為で――彗の右手を傷つけたら、リハビリが水の泡になる。左手を傷つけたら、彗の生きる希望をも傷つける。違う生き方もできるのだと、三年前に未来を諦めかけていた彗は言った。けれど、諦めたくなかったから、私たちには今がある。やるせなくて、切なかった。私には、拒絶すらできない。

 動けなくなった私の前に、息を切らして回り込んできた彗は、表情がなかった。絵を描いているときと同じ顔だ。こんなときなのに、そう思った。彗は今、何を考えているのだろう? 問いかける言葉を探せないでいるうちに、彗は言った。

「澪に、話があるんだ」

 私は、このときほど、彗を変な人だと思ったことはないだろう。モデル事件で打ちのめされていた私へ、彗はさらなる追い打ちをかけてきたのだから。

「僕は、大学を卒業したら……絵を学ぶために、海外に留学する」

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