第十四話 記憶



「…おやぁ?珍しいですねえ、貴方がここに来るなんて」



 ――夜鷹くん。読みかけの本から一切顔を上げず、保健室に訪れた人物にそう言った。夜鷹くんはそんな無愛想な僕の態度に微塵の関心も示さずに、何の迷いも無く凛月くんの眠るベッドの前で足を止める。

 この人の他人への無関心さは有名だ。

 文字通り、夜鷹くんは他人に興味がない。猫の舌が何故ざらざらしているのかということくらい、毛ほども関心を持っていない。


 彼にとっては、全て些細なことに過ぎないのだ。



 そんな彼が生徒会長を務めているのには理由がある。

 一目見た瞬間に、目を合わせたわけでも言葉を交わしたわけでもないのに付き従いたくなるような、圧倒的なカリスマ性。生まれながらして 「上に立つ」オーラを、夜鷹くんはその身に宿していた。

 そんな彼の三大欲求の内の一つの発散方法が、中等部で噂はもちきりだった。思春期の時期に、閉鎖空間で何の娯楽も無い彼らにとってその衝動を抑え込むのにはその行為が丁度良かった。夜な夜な、彼の部屋に生徒の出入りがある。それは、高等部に入っても続いている。


  だけど、噂はあくまで噂に過ぎない。



ペットこれの面倒を見るのが飼い主の役目だろうが」



 …ペットね。凛月くんが生徒会に入ったのは小耳に挟んだ。

 別に、夜鷹くんが夜に誰かと営んでいようと、性に奔放だろうが僕には関係ない。寧ろ僕に何の害がなければ、勝手にしていればいい。けれども、凛月くんが絡んでいるのなら聞き逃せない。


「面白半分で関わっているのなら、やめたほうがいい」

「何が言いたい」

「凛月くんは犬猫のように言葉をちゃんと話します」

「ふん。生徒会に入ったんだったら、これは俺のだ。最後まで責任を持ってペットの面倒ぐらい見る」

「……そうですか」


 確かに、彼の目は嘘を言っているようには見えなかった。心なしか、口元が綻んでいるようにも見えた。本当に珍しい。彼がここまで興味を持つのも、自ら行動を起こすことも。悔しいがまた視線を落として、本の文字に目を走らせる。

 少なくとも、いざという時に触れられない僕よりも彼ら生徒会と共に居れば、凛月くんは大丈夫なはずだ。


「…ペンギン」

「あ?」

「凛月くんはペンギンが好きみたいですよ」

「そうか」

 

 僕の親切心に夜鷹くんはそれだけ答えて、豪快にカーテンを開けた。その音に思わずページを捲る指が止まって、顔を上げる。丁度、寝返りをうって乱れた凛月くんの前髪を、夜鷹くんの長い指がくしゃりと撫でる。…僕がしてあげたくても、できないこと。



 目に入ったその光景に、しばらく目が離せなかった。



 あれは真冬のとき。寒くてこごえそうな部屋の隅で、僕はまっていた。おもちゃに口紅、アイシャドー……あそこにあるのは香水、たくさんの化粧品が散乱しているのをかぞえて遊んでいた。お腹がすいた。おかあさんはいつも帰って来るのが遅い。

 時計の針が、0時をまわった時、玄関が開く音がした。うとうとしていた僕は飛び起きて、玄関へ向かう。ふと、おかあさんのネイルの塗った指が頭に触れそうになって、吐き気を覚えた。リップグロスを塗りたくった唇がうごく。

 

 あれ、気持ち悪い。


 なんだこれ。



 無意識のうちに震えていた指で、口元を覆う。大丈夫、もうあの人は居ない。頭では分かっているだろう。声だって忘れた。ここにはあの人も、無理やり触れようとする人間も居ない。早く夜鷹くん出て行ってくれないだろうか。

 こんなことなら、保健室の鍵を最初からから閉めておくべきだった。


 カーディガンの裾を伸ばして、口元を拭う。それに対して指先はどんどん冷えていく。ズボンのポケットに入れたスマホに手を伸ばしかけて、思い止まる。こんなことで電話をかけるのは申し訳ない。

 ああ、早く先生帰ってこないかな。

 


 いっそのこと、トイレに行くふりでもして、一度この場所を去ろう。

 そう考えていたとき、ふわっと欠伸を吐く音が聞こえてきた。

 近くにいたからこそ、わかるぐらいの可愛らしい欠伸だった。


 

「……うさみ」



 俯いていた顔を上げて、僕を呼んだ凛月くんを見つめる。

 


 その瞬間、ぐるぐると迫り上がる嘔吐間が収まった。

 先程まで冷えた体温が、温もりを知ったかのように、徐々に暖かくなっていく。横向きの体勢で、ぼんやりと僕を見上げる凛月くんは、ポケットから小さな黄色いお花を摘まんで僕に見えるように持ち上げた。

 

「これ、うさみ」

「僕、ですか?」

「うん」


 僕の瞳の色と似ていると言いたいのだろうか。無垢な瞳を向けられて、同時にゆっくりだった心臓の鼓動が、とくんとくんと速くなってゆく。急にぐだぐだと考え込んでいたのが馬鹿らしくなって、ふふ、と吹き出した。

 

「お庭で摘んできたんですか~?」

「そう。風が吹くとゆれて踊っているようにみえる。寝てるときにおもいだした」

「楽しいお花さんですねえ」


 また、触れられるのが彼ならば。

 なんて安らげる相手ができただけでも十分だ。ないものねだりをする必要はない。そんな煩悩を振り払うように、本をパタンと閉じる。


 もう一度ゆっくり息を吐く。

 凛月くんと話している間は呼吸が、しやすかった。



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