第十三話 温もりは知らない
「……ペンギンはすき。歩き方がかわいい」
「ペンギン!いいですねぇ」
「うん」
僕からの質問に、一度きょとんと瞬きをしてから、とろんと眠たげな眼をやんわりと和らげて、横になっている凛月くんを微笑ましく思う。いきなり保健室の扉を開けて入ってきた時は、いつもの色惚けくん達が来たのかと驚いたけど、こうして嬉しそうに「好き」と笑う顔を見るとかわいいものだ。
それに、凛月くんのことは、入学式の事前の日に保険医から聞いていたからすぐに彼が誰かは分かった。
凛月くんは、生まれつきよく眠る。
夜更かしもせず、夜にしっかり眠って睡眠時間が不足しているわけではないのに、日中にふらっと眠気が頻繁に現れてしまう。場所を問わず前触れもなしに、コントロールできない突然の眠気に襲われて、眠らずにいようとしても、ごく短時間で眠りに落ちる。
保険医の先生は、恍惚と話していた。
その異常な眠気の原因は、凛月くんの脳にあるらしい。凛月くんは、一度見聞きしたことを忘れない圧倒的な記憶力を持っている。いっけん、便利で羨ましいと思うだろうが、見て聞いたもの全てを、僕の手の平で覆い尽くしてしまえそうなあの小さな頭部の中にぎゅうっと詰め込むなんて、膨大な負担が掛かるに決まっている。
きっと、過多に眠るのは脳を休めているのだと思う、と出たのが結論だった。
子供の頃に比べると身体も成長し、多少は落ち着いてきてはいるみたいだが、それでも定期的に眠らなければ倒れてしまう。この学園に入る前は、家で毎日のように専門医に心拍数や呼吸などの健康を必ずチェックされていたらしく、少しでも異常があればすぐ大騒ぎだったらしい。その過保護な話を聞いた時は少しだけ、凛月くんに同情心を抱いた。
ここの内情を知っているからか、彼の家の者が凛月くんには眠る場所には気を付けるように口煩く言ってあるらしく、それを彼も彼なりに守っているのは少し安心する。
でも、この過眠症に抗えない時はあるらしく…、
いつどこで起こるか分からないから、もし黒髪で紫の瞳の生徒が来たら寝かせてあげてくれと僕は頼まれていた。
「宇佐美は、なにを読むの」
「…――僕がよく読むのは海外文学ですねえ。児童文学なんかもよく読みますよ」
何を好きかではなく、何を読む…か。よく人を見ている子だと思う。人が触れてほしくない本質を、無意識なのか避けている。
凛月くんの話に聞いていた時は、あまり人と関わりたがる性格ではないと思っていたけど、彼からも僕のことを聞いてくれる。存外、そんな彼に懐かれたようで嬉しかった。僕がカーテンを閉めるのを止めたことも、自惚れてもいいのだろうか。
「俺も、児童文学はよくよむ。ペンギンがそらをとぶはなし」
「おや、そのペンギンさんはお空をとべたんですか~?」
「…ん、そう…とべたんだ」
少し話している間に眠気に限界がきたのか、凛月くんの口調が幼い。僅かに開けた瞼は重たげで、ベッドからこちらを見上げる凛月くんの元まで歩いて、足元にある布団を優しく肩下まで掛けてあげる。
「うさみ、」
布団から顔を覗かせた凛月くんが、名前を呼ぶから僕は耳を傾けた。
「ありがと」
子供が内緒話をするように、小さな声で耳元で囁いた。ああ、かわいいなあ。これが母性というものなのか。どうしようもなく愛おしい。それと同時に、悲しくなった。
過眠症やいくつもの病は、まだまだ認知度が低く、正しい理解が深まっておらず周囲から誤解されやすい。きっと、凛月くんも昔から苦労して色んな悩みを抱えているのだろう。だから今だけは、何も考えず休んで欲しい。
「……っ」
ここに居る間は、僕が見てあげられる。
そう乱れた前髪を整えようとして、伸ばしかけた指を止める。――ああ、僕はこんな時も触れられないのか。いつもそうだ。肝心な時に僕は触れられない。
苛立ちを隠す為に、己の掌を握り締めながら隣のベッドにずるずると座り込む。落ち着かせるように息を吐けば、聞こえるのは凛月くんのすこやかな規則正しい寝息。
凛月くんが過眠症を患っているように、僕も"潔癖症"を患っている。保険医の先生も、似たもの同士仲良くしてやってくれと呑気に笑っていた。
「……おやすみなさい」
少しでも、凛月くんが安心して眠れるように。閉じかけのカーテンを静かに閉めた。
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