第七話 生徒会室


「ただいま戻りました」



 えと、あー…副会長の…あ、天羽。天羽の後をついて、生徒会室に入った時、足元が柔らかく沈んだ。俺、なにか踏んだのかな。

 足元を見ると、部屋の雰囲気を壊さない程度に派手な赤い絨毯が敷かれていた。なんだ、絨毯か。少し踵を浮かせて、もう一度踏む。それだけの動作で、踵はまた沈んでいく。

 この絨毯に寝転んだら、心地よく眠れそうだ。


 癖になりそう感触を一人で楽しんでいたら、隣から控え目な笑い声が聞こえた。


「なに」

「ふははっ…あ、ごめんねぇ。子猫が前足で毛布をふみふみするのに似てて、かわいくて」

「…ふみふみ」


 そ、ふみふみ――と、派手な髪色をした人が肩に腕を回してきた。その拍子に、ふわり、と甘い匂いが香った。何の匂いだろう。思い出せそうで、思い出せない。花の名前だったような気がする。

 いっそのこと、本人に聞いてみるか。

 人のことを言えないが、鎖骨辺りまで開かれたシャツから視線を上に移すと、緩く垂れさがった目が笑った。


「んー、なあに?」


 顔を上げたのと同時に、大きな腕にふわりと抱きしめられた。

 甘い匂いが強まって、すん、とかるく胸に吸い込む。ああ、なんだか思い出せるかもしれない。ゆるりと瞼を下げて、ぼんやり浮かんだのは何かの木。花を咲かせているのは、小さな橙黄色。

 ――あともう少し。

 そんなところまで来たのに、おい、と低く威圧する声に瞼を開ける。


 窓硝子から降り注ぐ、光に照らされた部屋の奥の、黒革の椅子。そこに、一人の男が座っていた。その周囲には俺達人数分の机が並べられている。その上には一台一台、デクストップパソコンに、最低限必要なものが設置されていた。じゃあ、あの人が会長なのかな。


「――ああ?天羽、俺は新しい書記と庶務を連れて来いと言ったはずだ。俺は子猫を連れて来いなんて言ってねえぞ」


 黒革の椅子から立ち上がった会長は、俺の前で立ち止まる。立ち上がった会長は、俺よりも十センチは背が高く、そのせいで見下される形になった。

 あまりにも顔を凝視されるものだから視線を逸らすと、ぐい、と親指と人差し指で顎を掴まれ上へ向かせられる。


 まるで、顔を逸らすなと言われているようだった。


 そのせいで嫌でも目と目が合い、ジッと会長の瞳を見つめる。

 会長の瞳は夜雨の日の空の色に似ていた。この学園のブレザーが白だから、浮かぶ雲によく映えている。

 あまり見ていると、手を伸ばしてしまいそうだ。あんなに遠くにあるのに近く感じてしまう、そんな感じ。


 黙って目を離さないでいると、会長の中指が頬から少しずれ、俺の顎裏を撫でた。この人は、本当に俺を猫だと勘違いしているのではないのか。

 少しムッ、と眉間に皺を寄せると、会長はふは、と笑う。


「三年の生徒会長、夜鷹真琴だ」


 頭に重みが加わったかと思うと、乱雑に頭を撫でられる。見た目と言動とは裏腹に、思ったよりも優しい手付きに俺は文句を言うタイミングを逃してしまう。

 会長はそのまま生徒会室から出て行き、俺を抱き締めていた男は苦い顔を見せ、そして、俺の頬に手を宛てた。


「…跡はついてないね。夜鷹さんは強引だなー…」

「貴方も、いつまでくっついているつもりで?」

「もー、しょうがないなぁ。俺は、聖隼人。気軽に名前で呼んでねぇ」

「ひじり」



 聖でも隼人でもどっちでもいいけど、何となく名字で呼ぶと、聖は名前で呼んでよー、とすり寄るように俺の肩口に顔を埋める。

 ……近い。

 さっき会ったばかりなのに、どうしてゼロ距離に近寄るんだ。そのせいで、聖の息が首筋にかかって触れたそこが熱い。早く離れて欲しくて、俺は聖を無視することにした。


 ――それが、いけなかった。


「ぅ、あ……ッ!?」


 ぬる、と首筋を舌がなぞって、僅かに噛まれた。

 意味が、分からない。脳がそれに気づいた途端、パニックに襲われて、聖の頭を髪が引っこ抜ける勢いでぐいっ、と引き離す。いたた、と聖が喚いているけど知らない。

 デスクトップの前まで行って、おそるおそる噛み付かれた部分を見ると、うっすらと歯型が残っていた。


「ちょ、何してんの!?」

「こちらへ、凛月君」


 どうして噛み跡ついたんだ?と首を傾げていると、腰に手が回る。そのまま引き寄せられ、天羽の腕の中へと収まった。顔を僅かに上げると、天羽はにこりと笑う。

 聖から離れられたのはいいけど、次は天羽の体温と匂いに包まれて、顔に熱が集まる。

 慌てて腕から抜け出そうとすれば、背中にまわる手にさらに力が込められて動けない。


「それで、貴方は何故そのような奇行を?」

「だってしょうがないでしょー?無視されたら悲しいよ」


 だからって、噛み付くのはへんだと思う。こんなことをする人間と出逢ったのは初めてだ。家で飼っている犬でもこんなことしない。

 悲しんでいるらしい聖に相変わらずあまったるい眼差しを向けられて、俺は隣に立っている天羽の長い脚を凝視しながらぽつりと胸の中で呟く。

 ――ねむい。


 早く寝て、なにも考えたくない。眠れば揺り籠の中で、何も考えず漂っていられる。ふあ、と耐えきれずに欠伸を漏らすと、腰に回った手に微かに力がこもった。


「では皆さん、行きましょうか」

「…え?行くってどこに?」

「食堂です」








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