第8話

 全体的に黒い男が、容姿に似合わない情けない悲鳴をあげている。


「うおぉぉああ!!」


 ジンクの目前に広がるのは、己の速度のせいで線になっていく景色。


 ジンクが強風と感じたものは、風が吹いていたのではなく、自分で空気にぶつかっていただけだった。


 ジンクは、何者かに引っ張られている感触に気付き、上を見上げる。

 すると、大きな鷲が、ジンクのローブを咥えて飛んでいた。


(昨日の、鷲?)


「あ、起きたんですね!」 


 その鷲のさらに上から、少女が顔を覗かせた。赤い帽子に白い髪、青い目をした、元気溌剌げんきはつらつな少女である。


 少女――リーレイを見上げて、ジンクは話しかける。


「おい、女。これは一体どういうことだ?」


 声は荒げていないが、明らかに怒りを滲ませた声だ。

 しかし、リーレイは怯まず言葉を返す。


「言葉で言って信じてもらえないなら行動でってことですよ」


「何を言って――。早く降ろさねば、撃つぞ」


 ギロリ――と。羽虫くらいなら、眼力だけで殺せそうな目をもって、ジンクはリーレイを睨む。殺意を込めて。


 それには流石にリーレイも怯んだのか、目を反らし、前方を指差す。


「あれ! あっちから太陽が昇ってますよね! つまりあっちは東側、戦場です。ちゃんと戦場に連れて行くなら、貴方にとっても好都合でしょう?」


 言われて、ジンクは次は冷静に前方を見る。


「――っ!」


 それを見て、ジンクは目を見開いた。

 木々の隙間の、太陽を見て驚いたのではない。

 己の中に、ある種の高揚感を見て驚いたのである。

 枝の上から、景色を眺めた時とも違う。


 速度を伴って、自らが風になっていく快感。


 ジンクは、己の中と外にある情報量の多さに、言葉を失った。


「……しも~し。もしも~し! 軍人さぁん? 聞こえてますかぁ?」


 この速度、この暴風の中でも、よく聞こえる声である。

 ジンクは慌てて反応を返す。


「た、確かに、戦場に向かっているようだな。進行方向が変わらない内は、落とさないでやる」


 ジンクは上からな態度を改めない。

 リーレイはムッとして、嫌みで反撃する。


「軍人さんだって、この高さから落ちたら無事じゃ済まないでしょうに」


「……その、軍人さんというのはなんだ。昨日はジンクさんと呼んでいただろう。直せ、女」


「ならその女っていうの止めたらどうなんですか~? 軍人さん!」


 ギャイギャイと、上から下から敵意のラリーを浴び続けるアグルーは、少しうんざりしていたが、それでも気分は高揚していた。


 世界樹林の中を、真っ直ぐ速く飛べるなんてことは、めったにないからだ。


 たとえ、ここがクリーチャーの縄張りのド真ん中で、今はクリーチャーのいる場所に一直線に向かっているとしても。


 ◯


 時折止まって、緑の印を付けながら、リーレイはアグルーと、それとジンクと一緒に、世界樹林の中を進んでいた。


 ピクッと。アグルーが羽を微動させる。


「分かるよアグルー。そろそろだね。軍人さん! 降りますよ~」


「今度はなんだ。またウンコか」


「うぅんこじゃないですぅ! お花摘み――って、そうですね。今回はウンチです」


 ジンクは少し引き気味な顔をして、それに答える。


「そ、そうか。早く済ませろよ」


「私のじゃねえわ」


「見苦しい言い訳だな」


「アグルー! こいつ振り落とせっ!」


 リーレイは半分涙目になりながら叫ぶ。

 アグルーはどうでも良さそうな顔だったが、主の命令には従うらしく、首を振り始める。


「は!? おい、鷲! 何をして――」


 ブンっ――と。アグルーは無感動に、ジンクを地に向けて投げつける。

 特有の落下感。


 ベチョ。


 ジンクが全身に感じたのは、固体とも液体とも違う気持ち悪い感触。

 それは強い臭気を放っており、それは茶色い色をしていて、そして、生暖かい。


 ぶっちゃければ、ウンコであった。それも巨大な。


 バサバサバサ。アグルーがその隣に降り立つ。


 その上のリーレイは、口を抑えて肩を小刻みに震わせている。


「だ、ダイジョブ、フっ、ですか?」


 リーレイは口元の緩みが解けぬまま降りて、ジンクに話しかけてきた。


「おい……」


 尊厳を失った男の、悲痛な声である。


「あはははっ。これに懲りたら、乙女に向かってああいうことは――」


 ベチョっ!


 ……ウンコ、顔面直撃である。


 ずるりと、下に滑り落ちる。


「な、なな、な何してくれてんですかバカ軍人!」


「先にやったのはお前だろ! いかれる虎に、不用意に近づいたのもお前だな!」


「分かってんてすか!? こっちは顔面直撃ですよ!?」


「全身直撃とどっちがマシだ!」


「食らってみれば分かるんじゃないですか!」


 リーレイは足元に落ちたウンコを手に持って、ぶん投げる。


 ジンクはそれを左に避けて、立ち上がり、反撃しようとするが。


 フラッ――ベチョ。


 ウンコで足場が安定しなかったのか、それともあの超高速からいきなり振り落とされたからか、どちらにせよ、ジンクは足に上手く力が入らず、転んでしまった。


 ……顔面からウンコにダイブする。


 一瞬だけ間が空いた。


「ぷっ。」


「笑うな」


「あははははは。ヒー、ヒー。お腹痛い。お腹痛いですよ軍人さん!」


「先ほどのは忠告だったからな! 行くぞクソ女!」


 ジンクは力強く立ち上がり、その瞳に覚悟を滲ませる。


「く、クソ女ぁ!? わわっと、投げないで下さい! そっちのが球数多いのずるいです! うあ! 足がぁ!」


 腹にウンコを大量に抱え、高速で投げつけるジンクのウンコを、避けては食らい、避けては食らい、リーレイも少しずつウンコまみれになっていく。


 そんな二人は、どちらも、少し口角をあげていた。


 それを見てアグルーは、人間のことは分からないものだと、そう思うのだった。


「――!!」


 アグルーの先端の羽が震える。

 バサバサっと。アグルーは二人の間に入った。


「なんだ鷲。そこをどけ。どかないならお前ごと――っ!」


 リーレイはそれを見て自分の目的を思い出す。


 ここはまだ、足食いとかげの縄張りである。


「ちょちょちょ! これは合図です。というかもう声出さないで下さい。シー」


 リーレイは口元に指を当て、ジンクに訴えかける。ジンクはそれを見て不満気な顔をするも、すぐに顔色を変え、動きを止める。


「お、案外物分かり良いじゃないですか。最初からそんな感じだったら」


「黙れ」


 リーレイを遮り、ジンクはその右手の平をリーレイの上の辺りに向ける。


 リーレイはそれに既視感デジャブを感じて、今度は目を瞑らず、ゆっくり後ろを振り向いた。


(デっっカ――っ)


 メスの、足食いとかげ……。


 地面から3mはある巨体。尻尾の先が正面からでは全く見えない。昨晩のオスの個体よりも明らかに大きい。


 足食いとかげはどうやらまだこちらに気づいていないようで、鼻を動かしながらキョロキョロしている。


(ふぅ。どうやらウンチは役にたってるみたい。アグルーにここのクリーチャーは反応しないから、となれば後は……)


 リーレイは、チラリとジンクの方を見て、小声で話しかける。


「何してるんですか。早くやっちゃって下さいよ。あの巨砲なら一発ですよ」


 直接は見ていないが、ジンクの魔法の凄まじさは知っている。あの大穴を開ければ、いくら敵が巨大でも無事では済まないだろう。


 だが、ジンクは冷や汗を一つ、首筋から落としている。


「無理だな。というよりこのままでは、二人と一匹、仲良くご臨終りんじゅうだ」



「…………へ?」



 大とかげは、鼻をヒクヒクと鳴らす。

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