第22話 ⑨
−9 (最終章)−
「おばあちゃん、おばあちゃん!」
肩を揺さぶられる振動で、早優香ははっと我に返りました。
真っ先に目に飛び込んできたのは明日実の顔、それから天井のモールディングでありました。
そして、自分が額だけでなく全身が汗だくであることに早優香は気づいたのであります。
「おばあちゃん、大丈夫?」
明日実は心配そうな不思議そうな表情で早優香をのぞきこみます。
リビングのソファ。いつもの部屋。
どうやら早優香はまたここで寝落ちてしまっていたのでありました。
「大丈夫? うなされてたけど……」
「ああ……ごめんなさいね」
平気を装って早優香は体を起こします。と、そのときやっと自分の着ているものに目がいき、理解に到達したのであります。
出版記念の会食から帰ったままの格好で眠っていたことに。
ということは……。
ああ…………。
深い深い雪崩のような安堵が、早優香の内側を降りました。
夢だったのだ……! ああ良かった……! 夢だった。今までのことは全部全部、夢だったのであります。
早優香は泣きそうなほど安心したのでありました。
「おばあちゃん、ごはん食べようよ。私、お腹空いちゃった。浜辺さんが今日はビーフシチュー用意してくれたって」
明日実が軽やかにステップを踏むようにキッチンへ向かおうとします。
「明日実ちゃん」
早優香が呼び止めると、
「なに?」
振り返ったその顔はあどけなく、明るい表情でありました。早優香が憂いていたような暗い雲は、明日実の瞳のどこにも見受けられません。
「学校、楽しい?」
「え?」
ぽかんとなった明日実に、早優香はさらに追いかぶせます。
「お友達とは仲良く出来てる? いじめとかされてない?」
わけが分からぬといった風に聞いていた明日実は、ここで相好を崩しました。
「なに急に? いじめなんてないに決まってるでしょ」
明日実の様子に、早優香の胸の重みがまた流れていくように思われました。
「明日実ちゃんのひとつ上の学年に、神谷玲っていう子はいる?」
それでもまだ少しハラハラしながらそう聞いてみますと、
「かみや……? さあ……いないんじゃない? よく知らないけど。なんで?」
やはり、やはり夢だったのです。これまでのことは全部……!
あー……良かった、と改めて深い心ゆるびのため息がもれたのでありました。
その後、早優香はあのような悪夢に悩まされることはなくなりました。
明日実も学校で普通に楽しく過ごしているようで、早優香は一安心、チャリティーコンサートの準備を進めにかかっていきました。
ある日曜日の午後のことです。
早優香が自宅でお茶を飲んでおりますと、電話が鳴りました。
「はいはい」
早優香は、浜辺さんが出ようとしたところをご機嫌に制し、自ら電話を取りました。
「はい、槙原でございます……はい……はい、そうですが……え?」
電話でただならぬ様子の早優香に、浜辺さんと明日実がそれぞれに手を止め、問いたげな視線を向けてきます。
やがて電話を切った早優香でしたが、さっきまでの朗らかさは暗転、おろおろと動転して二人のほうを振り返りました。
「警察からよ……。明日実ちゃんの同級生がマンションの屋上から飛び降りたそうなの。……重症ですって……。遺書が見つかって、そこに明日実ちゃんの名前が書いてあったって言うの……で、学校の先生もいらっしゃるから私たちにも病院に来てくれって言うの……」
「まあ……!」
浜辺さんは口を手で押さえ、それ以上は言葉が続かないようでした。
明日実はというと、思い詰めたような呆然としたような、はたまた感情が消滅したかのような生気のない目で、じっと一点を見つめておりました。
「……この女生徒については、お電話でお話したとおりです。さきほど手術は終わったようですが予断は許さない状態のようですね……。この女生徒のことは知っていますね? 明日実さん」
まだ若く、細身のその警官は極めて冷静な口調で淡々と言いました。
もう日曜日の午後も遅い時間、他に誰もいない病院のロビーは、ほんの先刻、点灯されたばかりでありました。
明日実はさっきからぼんやりと焦点の定まらない目を遠くへ投げかけて座っているだけで、何も答えません。隣のベンチには校長先生と担任教師が座っておりましたが、二人とも萎縮し、居心地悪そうにうつむき加減にしております。
早優香はその様子を、何も出来ないままそわそわと見守っているしかありませんでした。
やがていつまでも沈黙する明日実に業を煮やしたのか、警官が続けます。
「この女生徒が落下したのは自宅マンションの屋上からです。そこには靴を重石にして遺書が残されていました。そこにはあすみさん、あなたからの仕打ちがつらい、もう無理、というようなことが綴られていましたが、どうですか? 心当たりありますか?」
しかし明日実は何も答えません。相変わらず何の反応も示さず黙ったままです。
若い警官は呆れた表情を浮かべると、その眼差しをそのまま先生方にスライドさせました。
「先生方にも相談したけど、あまり取り合ってくれなかったとありましたね。その辺についてはどうですか」
「ああ……はい、あのぅ……まさかここまでのこととは正直考えてもいなくてですね……本人の気にしすぎだと思っていまして……実際そのように指導しました……。相手が槙原さんということもありましたし、どうしたものかと思ってましたし……そのうち収まるだろうと……。まさかこんなことになるとは……」
先生方はすっかり恐縮し、何を言っているのかしどろもどろで要領を得ません。
「あなたはどうですか? 明日実さん。遺書には、死ぬまで追い詰めるとあなたに言われた、とありますが」
もう一度尋ねられましたが、明日実はやはり人形のように呆然と座っているだけです。
「……いい加減にふてくされるのはやめて、何とか言ってくれないかな」
「あの……! 孫はふてくされているわけじゃないんです!」
警官のイライラげんなりした態度に苦しくなって、早優香は思わず割って入りました。ひとの気配の少ない空間に、早優香の声が天から降ってくるように響き、消えていきます。
「ショックを受けているんですよ、この子は……! ね? そうよね? 明日実ちゃん。ふてくされているなんてとんでもないわ。この子は優しい子なんですよ? 急にそんなこと言われて、戸惑っているんです……。何かの間違いなんですよ……。何か誤解していらっしゃるのよ、あなた達は……」
「明日実さんにお聞きしているんですが?」
「同じことですよ! こんな優しい子にこんな不名誉なことを言われて、どうして清聴していられるっていうんですか!」
孫を抱きしめ、早優香が弁護したそのとき、
「……だって」
明日実が無表情のまま、ぽつりと呟きました。
「あの子、ムカつくんだもん」
明日実がそう言ったことに、早優香はにわかに活気づきました。
「ほら! ね? お聞きになりました?」
警官は、はあー……と重いため息をつきました。早優香はここで名誉を回復させん、と、
「ほら、やっぱりその子にも原因があるんですよ。じゃなかったら、明日実ちゃんがこんなことに巻き込まれるはずないんですもの。その子にも悪いところがあったんですよ」
「いじめを正当付けるおつもりですか!?」
少し緩んだ早優香の心に水を差すかのように、若い警官は怪訝な表情を浮かべました。その目力は真っ直ぐに強く、早優香を強張らせたのであります。
怒りを抑えているのか、その瞳はふるふると揺れており、早優香はギクリとなりました。
「そんな、いやだわ。いじめだなんて大げさよ。この頃はすぐにそう言って騒ぎ立てるけど……」
「いいえ。大げさなどではありません」
警官は、早優香の空気に全くなびいてくれようとしないばかりか、それを一掃するかのように超然と言いました。
「大げさなどではありません。本当に、笑い事ではありませんよ。一人の人間をここまで追いつめる、ここまで自尊心を踏みにじっておいて、これがいじめでないとは言わせませんよ。いいですか、人間、誰しも相性の良し悪しというのはどうしてもあります。好き嫌いというのもあるでしょう。しかし相性がどうであれ、いじめを肯定していい理由にはなりません。いじめを擁護できる大義名分などないんです。いじめというのは、自然に起こってしまうものではありません。そうしようという意志と積極的な働きかけがあるからこそ起こるものだと思います。言い換えれば、その意志と積極性がなければ起こらないんです。誰かを傷つけ、悲しませる積極性など必要ないんです。意志や積極性というのは、自身でコントロール出来るものです。それが無理だ、またはする必要がないと考えるのでしたら、それは異常だと思われます。自身にとって都合の悪い存在は攻撃しても良いという考えは、治療を受けるに値する重大な欠落なのではないでしょうか」
警官の迷いのない眼差しと口調は、悔しくも早優香の胸に深く突き刺さったのでした。
早優香はぐうの音も出ず、自身の劣勢を認めざるをえなかったのであります。
それから若い警官はやや声の調子を上げて言いました。
「……女生徒の保護者の方からの伝言です。『娘の姿を是非見ていってくれるように』とのことです。自分のやったことの結果を見てほしいとのことです。……ではまた後ほどお会いしましょう」
無念にも早優香は返す言葉もないまま、警官がその場を去っていく後姿を虚ろに見送っておりました。……若いひとだというのは初めから知っておりましたが、それにしても線が細く背中も頼りなく見え、
おや、あのひとは男ではなかったのかしら……? どことなく、以前にも会ったことがあるような、ないような……
頭の片隅で、早優香はそんなことをモヤモヤと浮かべておりました。
集中治療室で、早優香は明日実と並んでその少女に対面しました。
痛々しい姿でありました。頭にも下肢にも包帯が頑丈に巻かれ、肌が露出しているところにも擦り傷や、ガーゼで保護された箇所が見えます。沢山の電線やチューブにも繋がれ、テープで固定されております。
早優香は絶句しました。なんて酷い……。
それは明日実も同様なようでした。一瞬言葉を失ったあと、神妙に言いました。
「……痛そうだね」
「……そうね」
早優香も微妙にうなずきます。自分がそうであるように、明日実もこの痛々しい少女から目が離せないでいるようでした。が、
「……だってこの子、いっつも男子と仲良くしてさ……ムカつくんだもん、いっつもチヤホヤされてさ、いい気になって……」
ぼぞぼそと呪文のようにささやき始めたのであります。
え?
早優香は耳を疑いました。
じゃあ本当に明日実はこの子に嫌がらせをしたというの? そんなくだらない理由で……?
信じられない気持ちで早優香は真横にいる明日実を振り返りました。眉を寄せて、への字口で痛々しい少女を見る孫の顔を、
醜い……!
と早優香が直感するや否や、明日実がこちらを振り向き、にやっと笑いました。
「ねえ、おばあちゃんならこの気持ち、わかってくれるでしょ」
と言う明日実の左目には泣きぼくろが現れ、それは紛れもなく、中学生のときの早優香の顔でありました。
早優香は、ひっ……と悲鳴をあげそうになりました。が、次の瞬間にはもう、明日実の顔は明日実に戻っており、横たわる同級生のほうに向き直って立ち尽くしております。
どうやらさっきのは早優香の錯覚であったようでした。
ほっとして、早優香ももう一度、痛々しい少女のほうに視線を戻しました。
……やっぱり信じられない。これが明日実のやったことの結果だっていうの? 明日実が本当に……?
肌が粟立ち、身震いする思いです。
認められない、認められないわ、こんなこと。万一、このまま変に助かったりしたらどうするの……。後遺症が残ったりしたら、一生補償し続けないといけなくなるじゃない……。そんなことになったらうちの名誉はどうなるの……。それよりもまだ今このまま片がついたほうが……。
「うちの娘はもう助かりませんよ」
その声に、早優香はびくっと我に返りました。今の今まで、大きなショックに呆然自失となっていた、少女の母親でした。落ち窪んだ目とやつれ切った姿は狂人のようであります。
「もう助からないんですよ、この子は」
女の子の母親はそう言うと、けたたましく笑い出しました。早優香は息が止まりそうになりました。
高らかに笑う母親の顔が、だんだんと玲の顔に変化していきます……。
「でもこの子が悪いんでしょうねえ」
と言って母親が横たわる少女のベッドに手をかけたとき、そこで包帯でぐるぐる巻きになっているのは、明日実でありました。
今度こそ早優香は、ひぃっ……! と小さく悲鳴をあげました。同時にざーっと血の気が引いていき…………
「きゃああああ……!」
早優香の絶叫が鳴り響きました。
嘘。嘘。嘘よ。こんなことって嘘よ……。
ぐるっと回転する周囲の景色。
錯乱する早優香の脳裏。
白いローブをまとった、乳白色に輝くひとたち。そのひとたちは、朝もやに似たものが舞う泉のようなものを囲み、何やら難しい話をしているようです……。
「ねえ、おばあちゃん、知ってる? すみれっていう漢字は、トリカブトとも読むんだって。なんか、ぴったりだね」
白いローブのひとたちの残像の中、そう言いながらくすくす笑っているのは、たしかに明日実の声、しかし、それがだんだんと玲の声と重なっていきます……。
半狂乱になった早優香の意識は、ぶちぶちと途切れます。
え? 明日実? じゃあベッドにいるのは……? と見やれば、同級生の女の子の姿から、また明日実へと変わっていきます……。
「いい気味だわ」
と早優香の隣で満足そうに笑う明日実は、次第に玲の顔になっていきます。もうわけがわかりません……。
誰が誰なの……!
「私が悪かったわよぉぉぉ……!」
玲の笑い声を耳にしながら、早優香はとうとう耐えきれなくなり、発狂したのでありました。
そして意識を失う寸前に、早優香は、雷のようなその「声」を聞きました……。
「やはりこの者は、地上に誕生すべきではなかったのだ!」
〈終り、または 一番最初に戻る〉
すみれ色迷宮 松司雪見 @yukimishouji117
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