第21話 ⑧
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どんな答も出ぬまま、何の打開策も見いだせないまま、早優香の煩悶は続いておりました。
玲に夫を会わせる。
何度考えても、それは無謀でしかありません。
あのひとが怒り心頭したときの様子ときたら、たとえこちらに非がなく、相手が悪い場合であっても、むこうに同情したくなるくらい激しいのであります。明日実でさえ閉口するくらいですから、その面倒くささたるや相当なものでしょう。
夫に会わせろですって……?
もう一度想像してみるや、早優香はやはり小刻みに首を振りました。
そんなこと、出来るはずがない。あのひとの怒りが自分に向けられることを考えると……。
でもじゃあどうすればいいの……。
何も手につかないまま、いたずらに時間だけが過ぎていきます。
早くあの子に連絡しないと、次はどんな手に出てくるかわかったもんじゃない……。
早優香は顔を鉛色に変え、爪を噛みながら焦れました。
不意に、中学生の時の情景が回想されてきました。
リコと翠に押さえつけられた玲が、床から必死に顔を上げて睨みつけてきたときの目。
その目は早優香を、冷水を浴びせたようにヒヤリとさせたのでありました。
どよんと生気に欠けているくせに、こちらに対し何かを強く訴えかけるような真っ直ぐな光に、早優香は狼狽させられたのであります。
そのときの感触が、今またありありと蘇ってきました。
いいえ! いいえ! 違うわ。あれはいじめなんかじゃないわ。
早優香は脂汗の滲んだ顔を手で覆いました。
思春期の女の子が、自分の体の変化に不安を覚えるのは普通のことでしょ。他の子がどうなってるのか見てみたいと思うのは、おかしいことじゃないでしょ。
確かに少し強引すぎたかもしれないけど、でもその気持ちは分かってくれるでしょ。
だからあれはいじめとは言わないのよ。そうでしょーー?
しばらくの間、真っ暗な気持ちに沈み、手に顔を埋めていた早優香は、やがておもむろに顔をあげました。
そして電話を手に取ったのであります……。
何日間かの後、早優香は玲を自宅に呼びました。この日、早優香は腹を括って臨みます。
お手伝いの浜辺さんに引率され、早優香たちの控える座敷へ近づいてくる気配を、彼女は固唾をのんで待ち構えておりました。
そして襖が開き、玲の姿を認めるや、
「この悪魔!! 疫病神!!」
洗面器に山盛りになった粗塩をつかみ、次から次へと玲に向かってぶちまけたのであります。
「な……!」
玲は虚を突かれ、戸惑った様子を見せました。
「ほら来たわ! あの子よ!」
早優香は玲を指差し、部屋の真ん中に鎮座している男性のほうへ、縋るように身を翻しました。男性の周りには、塩や縄や御札や、数珠などが置いてあります。
我に返った玲は何かを察したらしく、空気をも切り裂くような睨視を早優香に突きつけてきました。
「この子がそうですか……?」
先程まで、どっしりと待ち構えていたであろう男性は、玲を見て少したじろいだようでありました。
「そうよ! あの子よ! 見ればわかるでしょ、あの邪悪そうな顔……! 間違いないわよ! 早く、早く取りかかってちょうだい!」
「一体、何の真似……!? 悪魔祓いか何かのつもりなのか!?」
歯を食いしばり、抑揚もなく言葉をもらす玲の周りには、強い怒りが空気に溶けて立ち上っているのが手に取るようであります。
「だってそうでしょう! いきなり現れたと思ったら、半世紀も前の、子供のちょっとしたイザコザを大げさにいつまでも! そんなことで私が積み上げてきたものを潰されてたまるもんですか!」
「槇原さん!落ち着いて下さい……! あの女の子からは確かに強い怒気は読み取れますが、邪気のほうは……」
「そんなはずないわ! あれが悪霊じゃないって仰るなら、あなたの能力が足りないのよ!」
「ご主人はどうした!? そういう約束だったよね!?」
「主人になんて会わせられるわけないでしょう!」
声を荒らげすぎ、早優香はもう肩で息をしています。
「だいたい、あなたずいぶんと被害者面してるけど、あなたにも非があったから、あんなことになったのよ!? あなたの態度に問題があったのよ。それなのに一方的に被害者ぶって……」
「じゃあ、あんたのやったことは正当だって言うつもり!?」
「そうに決まってるでしょう!」
「それじゃあなんで明日実がいじめられてるって騒ぐんだ! あんたの理屈でいけば、やられた側に落ち度があるってことよね!?」
「それは詭弁だって、まえにも言ったでしょう! 理由なき攻撃は悪以外の何ものでもないの。うちの明日実に、そんな不当な攻撃を受ける言われはないのよ! あんたみたいな惨めったらしい悪魔とは違うのよ!」
「悪魔はそっちだろ!」
「何ですって!?」
玲も負けじと怒号で返し、お互いぎりぎりと一歩も引かない膠着状態に突入したのであります。霊能者らしき男性はなんとか早優香をなだめようとしましたが、彼女はそれも振り切って玲に罵声を浴びせ続けるのでありました。
「そもそもいまだにそんな、中学のときのままの外見だなんてどういうことよ! これがお化けや悪霊でなくて何だって言うの! あんたは見た目もやってることも悪魔そのものじゃないの!」
早優香の罵詈雑言に玲は何ら動じないようでありました。強い強い怒気をたぎらせて、こちらから瞳をそらさない玲に、早優香は新たに恐ろしさを感じました。玲からの無言の圧に押しつぶされそうであります……。
「……私はこれまで、恵まれないひとたちに多くの手を差し伸べてきたわ。困ったひとを助けてきたわ。それなのにどうしていつまでも昔の小さな失敗を突かれなければいけないの? そんなのあまりにも殺生だと思わない? 昔の失敗を補っても有り余るほどの善行を、私はしてきたはずよ?」
やっと口を開くことが出来た早優香は、懐柔作戦に切り替えましたが、
「それがどうした……悪いことしかしない人間なんていないんだよ、長所のない人間なんていないんだよ! だけどね、やっていいことと悪いことの区別がちゃんとつく人間はいるんだ! 大切なのはそこなんだよ! あんたの言う『小さな失敗』で取り返しがつかなくなった人間には、あんたがどんなに偽善を積もうが、チヤホヤされようが、そんなの何も関係もないんだよ!」
玲からは冷ややかな、憤怒を抑え込んだような声が返ってきただけでありました。
早優香はまた切り返しに窮し、次の言葉を模索せんと必死に頭を巡らせたとき、玲がはー……っと力のないため息をつきました。
「……もういい、よぅくわかったよ」
さっきまでの怒りは急転して鳴りを潜め、玲の声は小さく、悔しそうでありました。
「これ以上、あんたとやり合ったって不毛なだけだ……。期待はしてないつもりだったけど、まさかここまでとはね……。悪魔扱いまでされて……馬鹿馬鹿しい」
玲は消え入りそうな調子でそんなことを言っていましたが、やがて最後のあがきのようにもう一度怒りの炎を目に宿らせると、人差し指で早優香を真っ直ぐ指して言いました。
「だけど。これだけはもう一回言っておく。これだけは忘れるな。あんたは古い話だの、子供のときにはよくあることだの勝手なこと言ってるけどね、やられた側には時効なんてないんだよ。傷口は塞がっても、傷跡は残るんだ。そして折に触れてはそこが疼いて痛むんだよ! 無かったことには出来ないんだ! あの頃、さんざんやめてって言ったのに、あんたは決してやめてくれなかった。そんな状態が続いたらどうなると思う!? だんだん自分自身を責めるようになるんだよ! 私が悪いからって思うようになるんだよ! どうしてかわかる!? それがそのとき出来る、せめてもの自衛なんだ! 諦めてしまえれば、惨めさも軽減されるからなんだよ! だけどね、一旦そうやって自分自身を諦めてしまったらもう、元には戻れないんだよ、どんなに優しいひとの言葉も何も届かなくなるんだ! それがどんなに苦しいことか、あんたにわかる!? 自分自身を厭わしく思うだなんて、こんなに悲しいことが他にあると思う!? あんたがやったことはそういうことなんだ。あんたは私の心を殺したんだ! 死んだ心には、もうどんな光も見えてこないんだよ!」
玲の瞳はいつの間にか悲しみの色に変わり、大粒の涙に揺らいでいるのでありました。
「なんで……」
それから玲は指が白くなるほど固く拳を握り、震える吐息とともに、苦しそうに続けました。
「なんで……あんなことしたの……私に」
玲はその場に事切れたように膝をつき、涙がとめどなくその頬を伝うのでありました。
「ねえ……なんでよ、教えてよ……なんで私にあんなことしたの。なんで私はあんなことされなきゃいけなかったの」
そして玲は早優香の両肩をつかみ、揺すぶって言いました。
「私は、あんたがなんであんなことしたのか本当のことが知りたかった……どんな理由であれ、本当のところが聞きたかった……それから謝罪が欲しかった……心からの謝罪が……。そしたらちょっとは得心がいくんじゃないかって……」
最後のほうはもう言葉にならず、その顔は悲痛な涙でぐちゃぐちゃでありました。
早優香はただただ圧倒され、息を殺してされるがままに、玲から目を逸らせることさえ出来ずにおりました。
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