第18話 ⑦の5

    −7の5 玲のモノローグ−


 また通常の日々が戻ってきて、もう理科準備室にこもっているわけにもいかなくなった。

 みんなの中で、私は透明人間のようだった。みんなの視線は私を素通りしていく。私をいないものとして振る舞う。私の体は萎縮し、目も伏せがちになっていった。


 もう結構な期間、学校の誰とも話していなかった。


 朝、教室について机の引き出しを開けるときは決まって手が震えた。『アバズレ』と書いた紙が入っていたことがある。『消・え・ろ!!』というのもあった。

 それを見つけて思わず泣きそうになる私の様子を目の端でチラ見しては吹き出す気配もあった。

 転入してきたばかりのときは、あんなに優しくしてくれた子たちも、今や私を踏みにじることを何とも思っていないようだった。むしろこれが当たり前のことなのだと言わんばかりに。


 昼休みは一人、屋上で何も考えず周りの景色の前に立って過ごしていた。

 下に広がる風景を、フェンス越しにぼうっと眺めていたら、ここから飛んだらどうなるのだろう……という考えが自然とわき起こった。フェンスは高くて乗り越えるのは不可能だったし、そんな勇気もなかったけれど、そう考えることは、私の胸の閉塞感をいくらか軽くしてくれた。いざとなればその手があるんだぞ、と。


 感情というものが指の間からこぼれ落ちていっていた……。


「ちょっと! 神谷さん!」


 ある日、屋上のドアがばーんと開いて、現れたのは飯島さんと二人の腰巾着だった。私は反射的に身構えたが飯島さんはそんなことにはお構いなしに言った。


「最近、速水君と帰ってないの!?」


 ああ、そのことか……。


「帰ってないよ。もう付き合ってないし、関係ないから」


 私は飯島さんの方も見ず言った。

 彼女の顔に、ぱあっと薔薇の色味が差すのがわかった。


「やーだ神谷さんったらもう振られちゃったの? まあそんなことだろうって初めからわかってたけどねー」


 それだけ言うと飯島さんたちは、勝ち誇ったように笑いながら戻っていった。


 私はもう、何もかもどうでもいい気分だった。



 この日が境だったと思う。飯島さんがまた公的に私を構いだしたのは。


 体育はいつもA組B組の合同授業だった。ペアを組むとかグループを作るというとき、最近私は決まって除け者になっていた。


「どこかのチーム、神谷さんも入れてあげて」


 と先生が言ってもみんな我関せずという風に静まり返るのが常だったから、


「神谷さん、こっちに来たら?」


 飯島さんがそう手招きしてくれたときは、霧が晴れて視界が開けていくような感覚が体を包んだ。

 飯島さんに対しては色々と複雑な思いを持っていたが、みんなの前で屈辱にさらされる苦痛から逃してくれるなら、私には拒否することは出来なかった。


 この体育の時間から始まり、昼休みや下校時、私は彼女たちのグループに気まぐれに取り込まれていくようになる。

 私は頭の隅っこで「負けたな」と思わざるを得なかった。はじめから飯島さんは躍起になって私を支配下に置こうとしていた。あのときの私は、絶対にいやだと適当に流すつもりでいたのに、結局はこうなってしまった。


 転入してきたばかりの頃に優しかった子たちはもうおらず、もはや飯島さんたちだけしかいなかった。


 飯島さんがバックについた体になったとはいえ、まえのように私を同等に見てくれるひとはなかった。私自身にもそれを跳ね返す力もなく、それが一層格下感を強めたと思う。

 周りからの嫌がらせは完全には払拭されず、くだらない伝統のように残り続けた。私を傘下に置いたからといって飯島さんが庇ってくれることなどは皆無で、ある生徒に故意にぶつかられた私が、階段を二、三段すべり落ちたときなど、


「やっだー神谷さん! 何やってるのお? 鈍臭いにも程があるって! 漫画みたいな落ち方して受けるう! ねえ見た!? 今の! 笑えたよねえ!」


 とぶつかってきた張本人以上に大きな声で笑った。



 飯島さんと腰巾着二人と私の四人で下校していたときにはこんなこともあった。一緒にと言っても私は黙って後を付いていくだけだったが。


 学校を出て十分ほど経った地点だっただろうか。突如、飯島さんが、


「大変! 教室にペンケース忘れてきちゃったかも!」


 と叫んだ。


「えーどうする?」


「困ったね」


 腰巾着二人も同調し白々しく騒いだあと、三人は申し合わせたように横目で私を捕らえ、


「取ってきて。神谷さん」


 さも当然と言わんばかりの歪んだ口元だった。

 ノーという権利が私には与えられていない。

 わかった……と小さく返事をして来た道を引き返す私の背後に、


「じゃあ私たち先に行くからねー!」


「ちゃんと早優ちゃんちに届けてよー!」


 という声が覆いかぶさってきて、吹き出し笑いがすぐに続いた。


 しかし飯島さんのペンケースは彼女の机になかった。ロッカーも探したが見当たらなかった。私はA組の時間割表を確認して、その日の授業があった部屋を全部見て回った。心臓が破裂しそうなくらいに学校中をかけまわっていたが、外はだんだんと暗くなっていく。当たり前だ、十一月だもの。

 ……これ以上は無理だ。でも手ぶらで行ったら何を言われるだろう……。そう考えると私は不安ですくみ、泣き出してしまった。


 でも……正直に伝えるしかないと飯島さんの家を訪ねると、


「ああ、あれね。私の勘違いだったみたーい。鞄の中にあったわ。だからもういいの。神谷さん、こんな時間になるまで探してたのー? 普通もっと早く気づくんじゃない? バカみたーい」


 とまた、もう見慣れたニヤニヤ顔が返ってきたのだった。

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