第15話 ⑦の2

    −7の2 玲のモノローグ−


 速水君という男の子の存在も大きかったようである。背が高くて、女の子の心を確実にくすぐる笑顔の男の子だ。

 彼は初めから私に親切にしてくれた。転入してきたばかりで、まだ打ちとけて話せる友達もなかった私に、彼の態度は救いのようだった。


 飯島さんが彼の心をつかみたがっているのは明瞭だった。してみると、飯島さんが私をどうにか支配下に置こうとするように見える行動をとるのも合点がいった。


 私は飯島さんとはなるべく距離を置くようにした。ラベル剥がしの犯人が彼女だという証拠はなかったが、触らぬ神に祟りなし、というくらいであるし。


 飯島さんは自分のことを下の名前で呼ぶよう言ったが、私は従わなかった。ふりかえって思えば、そのことも彼女を逆撫でしたことになるのかもしれないが、このときはとにかく、飯島さんから離れているのが一番だと判断していた。

 しかし飯島さん本人がそれをさせてくれなかった。彼女は何かにつけ、私に構いたがった。蛇みたいだと、正直思った。

 私が避ければ避けるほどに、彼女は笑顔の仮面の下、歯ぎしりしながら執拗に追いかけてきた。何故そんなにまで私を構うのか、正直、解せなかった。


 母が中学入学のお祝に贈ってくれたペンや、制服のスカーフを取り上げられたときは心底うんざりした。


「どうかしたのか?」


 母からのペンを取り上げられてしまって顔を曇らせていたら、速水君が声をかけてきてくれた。ペンを取られたことに焦っており、一刻も早くとにかく返してもらいたい一心で心に余裕を欠いていた私は、藁にもすがる思いで涙ながらに一部始終を打ち明けた、が、これは飯島さんに対しては火に油を注ぐこととなったようである。

 このあとのことは思い出すのも苦しい。

 速水君は飯島さんに、私のペンを返すよう進言してくれたようだが、彼女はこれを侮辱と捉えたらしい。

 ある日、ペンを返してあげる、という大義名分のもと、飯島さんの家に来るよう言われた。

 本心、彼女とは出来るだけ関わりを持ちたくなかったが、ペンを返してもらわないわけにはいかなかったし、母の仕事場が彼女の家のものだと知らされた以上、逆らうことは出来なかった。


 そして訪れた彼女の家で、飯島さんはとうとう私への憎しみと苛立ちを爆発させた。


 彼女はハサミを持ち、私の髪を切り裂いた。

 鬼の形相だった。


「こんな髪、切れって言ったでしょ!」


「このインラン!」


 彼女は大声でそう罵った。

 私自身、恐ろしさのあまり半狂乱だったと思う。自分が何と叫んだかも定かではない。

 彼女の腰巾着は、にやにやと面白そうに笑って見ていた。


 腰まであった髪は、肩につくかどうかぐらいのところまで短くなってしまった。最後は彼女の行きつけの美容院で整えたが、ことの経緯は、私が馬鹿なことをしてめちゃくちゃに切ってしまったからということにされた。

 私にはもう、異議を唱える元気も残ってはいなかった。


「いい!? 美容院で余計なこと言わなくていいんだからね!? 学校でもよ!?」


 飯島さんは爪を食い込ませるようにそう言った。



 ……母になんて言おうか。

 

 帰り道、私は鈍く淀んだ頭で一生懸命考えた。本当のことはとても言えないと思った。

 まさかこんな目に遭わされているなんて、毎日必死な母にどうして言えるだろう。しかもそれが母の職場の社長の孫だなんて。


 家に入る前に無理やり涙を押し込んでドアを開けた。

 それでも泣き腫らした顔はすぐにばれた。

 私は、友達と話していたらもう少し短くしてみてもいいかもしれないと思ったから切った、友達の行きつけの美容師さんが格安で切ってくれた、でも切ってみたらやっぱりちょっと悲しくなった、というようなことを情けない笑顔で言った。すんでのところでまた涙の津波が押し寄せてきたので急いでお風呂に直行した。

 言葉を失って青ざめた母の顔が目の端をかすった。


 シャワーでお湯を頭からかぶりながら私は、泣いて、泣いて、泣いた。


 なぜ私がこんなことをされなければならないのだろう。なぜ飯島早優香はこんなことをするのだろう。

 何度も自問した。

 恨めしさと悔しさで、狂ってしまいそうだった。


 泣き疲れ、呆けた状態で湯船に浸かった。タオルに巻いた髪はこれまでになく軽く、小さかった。


 ふと、ある考えがぽつんと浮かび上がってきた。

 私がこんなふうにされるのは、私自身に問題があるからではないか? 飯島さんがあんな振る舞いに及ぶのは、私に非があるからではないか?

 なぜなら、何の非もないのなら、あんなふうに責められるはずない。非のない者に、あんなことするわけがない。けど、それをされるということはつまり、私が悪いからではないか?


 月曜日になって学校に行くとクラスの友達はとても驚いていた。


「どうしたの!? なんで!? なんでそんなに短くしたの!?」


 速水君も同様だった。彼は私のところへかけ寄ってくると、


「切ったの!? うわー……もったいなぁ……」


 と目を丸くした。


 私は胸がぎゅうっと締め付けられるような痛みを感じた。しかし、


「でもさ、その長さもすっげー似合う」


 と言ってくれた彼の笑顔に、また別の意味で心臓の奥が疼いた。涙で視界が曇った。


「おはよー神谷さん」


 飯島さんが腰巾着を従えて威風堂々とやって来た。そして、


「あれー? 髪切ったのー?」


 と白々しく言ってから、真顔でグイと私を睨みつけた。私が速水君と話していたことへの牽制なのは明白だったので、


「じゃあ……」


 と言って私はその場を離れた。速水君に話しかける飯島さんの甘い声が背後に聞こえた。


 あんなに憎いと思った飯島さんだったが、悪いのは自分なのかもしれないという視点を持ち始めてみると、恨めしいという気持ちがいくらか薄まったように思えた。私が悪いのだからしかたないと納得出来るような気がした。

 何よりも、そう考えるのが自分にとっても楽だったのだ。


 私は、自分の感情が重く鈍く淀んでいくさまを為す術もなく、じっと傍観していた。もしかしたら、心が動くことを自ら禁じたのかもしれない。


 飯島さんたちに逆らうのをやめた。元々、特に逆らっているつもりもなかったが、はいはいと言われるとおりにし始めた。そうしたら不思議なことにラベル剥がしのような陰湿な嫌がらせもピタリと止んで、これではまるで自分たちが犯人だと証明しているようなものだと彼女たちに対して呆れたが、本人たちは気づいていないようだった。


 でももう何も言わなかった。

 母の職場の社長の孫と仲がいいのは良いことなのだと思うことにした。

 飯島さんがさり気に私を監視しているのは知っていたが、特別に面倒くさいことをしかけてくるわけでもなかったので、もうそれでいいということにもした。


 そんなわけでしばらくの間、比較的平和な時期が訪れたーー。

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