第14話 ⑦の1
−7の1 玲のモノローグ−
物心ついたときから、私には父というひとはあまり身近な存在ではなかった。
母は父の愛人だった。
母の名誉のために言っておくと、母は家庭のあるひとを好きになったわけではない。父と母は好き合った者同士だったが、だからといってその意志を貫くことを許される環境に父はなかった。
父の家はえらく格式張った、老舗の料亭を代々経営している大した家だった。その跡取りである父に、母は相応しくない、と父の両親は認めなかったという。
それで母は身を引かざるを得なくなり、父は渋々「相応しい」と両親が決めたひとを妻に娶ったのだった。
それでも母をあきらめきれなかった父は、世間から隠すようにして母を側におき、そして私が生まれた。
身近な存在ではなかったとはいえ、私たちは父からとても大切にされていたのはわかる。
小ぢんまりした小さな一軒家を私たちは与えられ、そこに月に何度か父がやってきた。
本宅での父の様子はわからないが、うちに来たときはいつもにこにこと穏やかな表情で、必ず気の利いたお土産を持ってきてくれた。
S進堂のケーキだったこともある。
年に一度は父と母と私で旅行もした。
私に「玲」という名前をつけてくれたのも父だった。
玉や金属が触れ合ったときに鳴る美しい音を意味するのだと父は何度も嬉しそうに言っていた。私をひざに乗せ、私の髪をなでながら、
「玲の髪の毛は本当に綺麗だ。こんなにも艷やかで真っ直ぐの髪は見たことがない。源氏物語のお姫様みたいだ」
ということも何度も繰り返していた。私が毛先を整えるぐらいしか髪を切ったことがないのも、たぶん理由はそこにある。もったいない、と両親はよく言っていたから。
こんなわけで一応、日陰の身ではあったが私は幸せな幼少期を送れていた。
しかし、小学三年生のときに父が亡くなったのを堺に状況は一変した。
母と、母方の祖母が暗い顔をして、家の中は何とも言えぬ不穏な、重苦しい空気が漂うようになった。と、間もなく父の本宅のひとたちが押しかけてきて、家財道具の一切を取り上げられてしまった。
父という防波堤が無くなった今、父の両親や奥さんからの積年の恨みが、聞くに堪えない暴言となって母に浴びせられた。
真っ青な顔をして、ひたすら縮こまって彼らからの罵詈雑言にさらされる母の姿を、私を抱きしめて隅で小さくなっていた祖母の肩越しに見たのが忘れられない。
いたたまれなくなった母は、あてもないのに、まさに逃げるようにしてその土地から離れた。無一文だった。
母方の祖父はもう他界していたため、祖母も一緒になって私たちは父の家族に知られないところへ流転していった。
落ち着いた先は狭い安いアパートで、私はそれまでの暮らしとの落差に平気ではいられなかったが、母と祖母のほっとした様子を見ると何も言えなかった。
けれど、本当は母自身、新しい環境になかなか適応することが出来なかったのだろう。
私を相手に、父との馴れ初めや、父がいかにいい男であったか等を、繰り返し話した。その口調は私に向けられた体をなしてはいたが、実のところは母自身に言い聞かせているのだなと思った。
そうすることで母は自分をかろうじて支えていたのだと思う、今の環境は決して惨めではないのだと。
また、父がそうしていたように、母も私の髪をとかしてくれながらよく感嘆のため息をついた。私の髪はそれほど、指からすべり落ちるくらいにサラサラでつやつやしていたから。
「玲の髪はどんな宝物よりも素敵ね」
背中越しに聞く声から、母が目を細めているのが伝わってきた。私のこの髪だけは、父の実家の人間の誰のものでもない、これだけは誰にも奪われないのだという、ささやかな自負が、私たちをぎりぎりのところで守ってくれていた。
新天地に移ってしばらく経った頃、父の料亭が展開している和風カフェがこのあたりにも進出してくることを耳に挟んだので、私たちはまたあてもなく遠くへ流れることになった。
このあたりになると、もうどこか達観したようなところがあって、もはや悲壮感というものはなく、「やれやれ」という感じに私たちは淡々としていた。いつの間にか私たちは「楽観視する」という性質を身につけていた。
これが中学一年生の夏のことである。
新しく移ったそこは、これまでのところのような華やかさには欠けたが、少し出れば繁華街があったし、母も寮のある職場を見つけられていた。
中学に上がる頃に祖母が亡くなってしまっていて、それは悲しいことではあったが、それでもまあ、幸先の良さそうなスタートを切ることが出来た。
新しい学校の先生も快く迎えて下さり、私は一年B組に転入した。
私は髪がつやつやと黒いだけでなく、それと対象をなすように肌の色が白かったので、初対面だと目を引きやすいというのはあるかもしれない。クラスに入って自己紹介したとき、教室全体がほう……っと私に瞠目し、興味を持ってくれたのがわかった。特に女の子たちは、早く打ち解けようとしてくれるのが嬉しかった。
けれども、隣の、A組のある女の子だけは様子が違った。
その子とは転入して二日目の昼に初めて接した。初対面の私に対し、実に堂々とした物腰と、親しげな口調で彼女は言った。
「あなた、神谷さんて言うんでしょ?」
私はぽかんとなった。
急に現れた、この自信たっぷりの女の子は一体誰なのだ……?
「私、A組の飯島早優香」
とその女の子は言ったが、私はまだぽかんとしていたと思う。
このひと、女王様みたいだな、と何となく考えていた。お伴を二人従えていたし、きっとクラスの中心にいるひとなんだろうなぁ、と。
で、その彼女が、校内を案内しようかと言い出したときは一瞬意味がわからなかった。
「え? 隣のクラスのひとがどうしてわざわざ?」
だから私はそう答えたと思う。素朴な疑問だった。どうしてわざわざ隣のクラスのひとがそんなことをしてくれようとするのか。
彼女は、波打ったボリュームのある髪がふわりと広がり、見るからに明るく華やかで、少女漫画の主人公にしてもおかしくないようなオーラがあった。
それに対し、私のほうは今までそんなスポットライトの当たるところにいたためしはなかったから、飯島さんとの初対面のこのときに、「このひとは住む世界が違うひとなんだな」と、諦めにも似た感じのかすかな羨望を彼女に抱いた。
けれども声をかけてもらったことはありがたいと思ったので、
「ありがとね。でも校舎の中はもう先生に案内してもらったから大丈夫なの」
と言った。
そしてその後すぐ、移動教室のためにクラスメイトの女の子と廊下を行っているときに、
「玲ちゃん、さっき早優ちゃんと喋ってたの?」
と聞かれた。
「さゆちゃん……? ああ、さっきのひと? 飯島さんて言ってた。飯島早優香さん」
「何喋ったの?」
「ん? 学校の中を案内しようかって。あのひと、女王様みたいね」
私の言葉を受けて、一緒にいた女の子たちは互いに顔を見合わせた。
「女王様、まあ当たってるよね」
「悪いひとじゃないのはわかるんだけど、なんかこう、自己中っていうか上から目線のときがよくある」
「社長さんとか議員さんとか、そういうお家だったよね、お嬢様」
とのことで、どうやら私が感じた印象はそう的外れではなさそうだった。そのようなことを知らされて、より一層、私は彼女との間に接点は見いだせそうもないなと軽く流したのだが、その予測は当たらず、飯島早優香は私に干渉してくるようになった。
おかしいな、と初めて疑ったのは、ある朝登校したとき、靴箱の私の名前のラベルが無惨に剥がされているのを見つけたときだった。
唖然となった私の目は、それから動けなかった。その一瞬間、私の耳には全ての音も消えた。
これは一体何なのだ……? 誰の仕業なの?
深遠の真っ暗闇に私の疑問は投げかけられた。全くもって不意打ちの出来事だった。
やがて、深遠のむこうから、ぽっ……と飯島早優香の名がなんとなく浮かび上がってきた。が、私の頭はすぐにそれを打ち消した。
なぜなら彼女にはそんなことをする動機などないはずだから……。
その小さな黒い疑いが真実味を帯び始めるのは、それから間もなくだった。
剥がされたところに新たに貼り直したラベルがまた剥がされた。
一体誰が何のために……。
気味悪い思いを胸に渦巻かせながら、ロッカーで荷物を片付けていたら声をかけられた。
飯島さんとお伴の二人だった。少しとはいえ、彼女を疑っていたので、正直ぎくりとした。
「どうかしたの?」
と聞かれたので、何でもないと答えた。そうしたら飯島さんは私の部活動について言及してきた。なぜ合唱部でなく美術部に入ったのかと問われた。
「私たち、ずっと待ってたのに」
と言われた。飯島さんは笑い話であるかのように話してきていたが、その目は笑っていなかった。
私は困った。たしかに合唱部に誘われたときに、見学に行かせてもらうかもしれない、と言ったような気はする。しかしそれは確約とは違うし、陸上部やバレー部にしたって同じこと。他にも声をかけてくれた部はあって、その心遣いは本音でありがたいと思ったので、「ありがとう、見学に行かせてもらうかもしれない」とその都度答えたが、その全部を見学に行ったわけではないし、そのことを責めてくるひともなかったので、飯島さんにはちょっと驚かされた。まさか、「見学に行くつもりもない」と言えば良かったのだろうか。
そして飯島さんが出し抜けに、
「その髪、切らないの?」
と言ったのには本当に意表を突かれた。同時に、私の中の疑いが濃さを増した。
飯島さんたちは、髪を切ったほうがいいだの、そうすることが私のため、先輩たちに目をつけられる等たたみかけてきて、私は圧倒されたが、
「切らないと思う」
と、ようやっと言って彼女たちから離れたが、鼓動は早くなっていた。
……飯島さんが私をどうにか子分に引き入れようとしていること、私の髪を、私自身を忌々しく見ていることが、これを機にだんだんわかっていった。
にわかには信じられなかった。
飯島さん自身、ふうわりした髪をして、いつもみんなの中心にいて、何も私を目の敵にしなければならないことなどひとつもないはずだからだ。
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