第13話 ⑥

         −6−


「ねえ、聞いてるんだけど?」


 信じられないという面持ちで自分を見つめている早優香に対し、目の前の少女は鋭い声と剃刀のような目で突っ込んできました。


「あなた……どうして……」


「聞いてるんだけど!? ねえ、私がやめてって言ったとき、あんたはやめてくれた? 止めてくれなかったよね!?」


 玲の激しい怒気に射すくめられ、早優香はたじたじとなりました。はるか昔の記憶がうっすらと呼び起こされてはきましたが、それでもまだ状況についていけません。


「神谷玲って、あなた……あなたなの? あのときの……?」


 早優香の中にある玲は、大人しくて淡い印象の女の子だったはずであるのに、


「ふうん、やっとわかったんだ?」


 いまや氷のような雰囲気を漂わせ、唇の端をちょっと上げてニヤリとしているのであります。


「何だか、私が知っていたときとは雰囲気が少し変わったように見えるけど……」


「そりゃね。もう私には失うものが何もないから。何も、ね」


 玲は一度ここで言葉を切ると、また突き刺すように早優香を見据えて言いました。


「思い出してくれたんだったら話は早い。私の言ってることわかるよね!? 私がやめてって何度も言ったとき、あんたはやめてくれなかったよね!?」


 そう言う玲の体は大きく震えたのでありました。それが怒りによるものだということは疑う余地もないほとであります。


「な、何を言っているのかよくわからないけど……」


 相手の勢いに呑まれそうになるのを早優香は必死に立て直し、大人の女性の余裕を取り戻して諭すように言いました。


「中学のとき、たしかにあなたとは色々とあったかもしれないわ。だけどそんなのはあの年頃の女の子にはよくあることでしょ? 私はほら、速水君だったかしら? すごく素敵な男の子がいたでしょ、あの子のことが気になっていたのに、あの子があなたばっかり構うから、ちょっとやきもち妬いちゃったのね……ただそれだけのことよ。あなたには少し意地悪しちゃったかもしれないけど、そんなに騒ぐほどのことじゃないわ。今考えると本当に幼稚だと思うけど、あの年頃にはありがちなことよ」


「少し意地悪、だって? あれが『少し』!」


 玲が、空しい乾いた吐息をもらしました。


「はあん……あんた、相変わらずだね。歳を取ってちょっとは人の心を持てるようになったかと思ったけどちっとも変わってない、相変わらず自分を正当化してばっかりだね、あんたが私にやったことがそうやって片付けられるんなら、私は今日、何のために呼び出されたわけ? この年頃の女の子にありがちなことで、騒ぐほどのことじゃないんでしょ?」


「それとこれとは違うわよ、あなたは明日実とは大した接点がないようだけど、私とあなたはお友達だったでしょう、帰りもよく一緒に帰ってたし、うちにお招きしたことだってあったわよねえ。そりゃ、時々行きすぎちゃったことあったかもしれないけど、友達ならけんかすることも普通にあるものでしょ。あなたがやったことと、友達同士のけんかを一緒にしてはいけないわ」


 早優香の背中にほんの一筋、冷たい汗が流れましたがここで相手に優勢を取らせるわけにはいきません。毅然とした態度を貫きます。


「とにかく、明日実にやったことをよく考えて反省してちょうだい、そしてあの子にきちんと謝罪をする。それを約束してくれればそれでいいの。今日言いたいことはそれだけよ。クリームソーダ、もう飲まないんだったら、解散にしましょうか」


「逃げる気?」


「逃げるだなんて、人聞きの悪いこと言わないでちょうだい。あなたとのけんかや行き違いがあったのはそうかもしれないけど、友達だったらそういうこともあって当たり前でしょう。それに、そんな昔の話を今さら蒸し返して騒ぐのはお門違いというものよ。もう終わったことなんだから。だけど、明日実は今現在、苦しんでいるのよ?」


「終わってなんかいないよ!」


 じっとりと、沸騰した油のようなオーラを放ちながら、玲がテーブルに拳を下ろしました。

 どんっ、という音と共にコーヒーカップやクリームソーダのグラスが震え、周りのお客さんがちらちらこちらを見ます。


「終わってなんかいないんだよ、ええ!? 何勝手なこと言ってくれてるのよ、オバサン」


「ちょ……静かにしなさい」


「何が友達同士のけんかだよ、ええ!? あれがけんかだって言うのか、あれが行き違いだって言うのか!? あれが友達にすることだって言うのか!?」


「静かにしなさいって言ってるの!」


「……私とあんたが最後にいつ会ったか、覚えているか?」


「え……?」


 そう言われ早優香は改めて記憶をたぐろうといたしましたが、それらしいものが出てきません。


「ほら。そんなこともろくに覚えていないんじゃないか。教えてあげるよ、思い出させてあげるよ。私たちが最後に会ったのはね、中学一年生の三月。終業式の日だよ。あの年は冬が長くて三月半ばを過ぎてもまだまだ真冬みたいな日が多かった。あの日もそうだったよ。おまけにあの日は天気も悪くて灰色の重たい雲が垂れ込めてて、今にも降ってきそうな空だった」


 玲の目にピン留めされたかのごとく、早優香は玲から視線をそらすことが出来ず、息をひそめながら必死で頭を巡らせました。


「私とあんたと、あんたの腰巾着二人とで下校したんだよ。私はあんたたちなんかと帰りたくなかったけど、拒否権なんてなかった。そのとき、あんたの腰巾着が私の鞄につけてあったお守りを取り上げた。私は返して、って何度も言ったけど、もちろん聞いてなんかもらえなかった。あれは祖母が作ってくれたものだったから大切にしてたのに、あんたたちはそれを知って、貧乏くさいって言って余計に笑ったんだ!」


「やめて、やめてちょうだい!」


 早優香は慌てて玲を制しました。遠い遠い記憶の奥から、そのときの情景がかすんで浮かび上がってきたように思われましたが、それよりも玲の声に周りからの好奇の目がどんどん増えていくのを放っておくわけにはいきません。


「それで川のところまで行ったときに、そのお守りを腰巾着が投げた。それからその向こうの藪へ私の鞄を投げた。山へ続いている藪の中へだ! 全部、全部あんたの命令でだ!」


「いい加減に……! やめなさいって言ってるの!」


「やめないよ!」


 声を押し殺して怒鳴る早優香に、玲も負けじと返してきます。


「私は急いで川に入った。お守りを拾いたかったから。だけどあんたたちは笑いながらそのまま私を置いて行ってしまった。その後、何日かして新聞に載った。まああんたは知らないか。知らないだろうね。女子中学生が行方不明って記事が小さく出たんだけど、あんたは知らないだろうね。そのことはね、何となくうやむやにされて、それっきりになった。あんたが関わっているらしいってことが分かったからもみ消されたっていうのが本当のところ」


 玲の叫びを聞いているうちに、早優香の身体はわなわなと小刻みに震えておりました。


 ……この子は一体、何を言っているのだ……。


「……それがどうしたって言うの。そんな昔のことを持ち出してきて、一体何が目的なの……」


「私があんたに返すのが、ペンだけだと思っているの?」


 玲が言います。


「マスコミがこのことを知ったら、どうするだろうね。慈善家 槙原早優香の黒い過去!」


 その目が細く薄気味悪く、冷たく笑いました。


「あんたのご主人の弟さん、今度また選挙に出るんだってね」


 勝ち誇ったかのようなその顔は、早優香を思わずぞっとさせるのに充分すぎるほどでありました。


「どんなにうやむやにしたところで、どんなに時間が経ったところで、事実は事実だしやったことは消えない。警察や新聞社には記録だってあるはずよね。私の日記だってあるし、ほら、現にここにそのときの新聞の切り抜きもあるよ」


 制服の胸ポケットからつまみ出した小さな古い紙切れを玲がひらひらさせました。早優香はそれを奪おうとしましたが、玲がその手をさっと上げたので、彼女はテーブルへつんのめるような格好になりました。


「あの頃、あんたたちはこうやってたよね、いつも。こんな目して私を見てた」


 口を歪めて玲が早優香を見下ろしておりました。早優香の血の気がますます引いていきます……。

 玲が突き刺すかのように言います。


「ご主人に会わせてもらうわ」


「主人に会ってどうするつもりなの……」


「私とあんたのこと、全部話す。洗いざらいよ。私はね、あんたが大切な人に本性がばれて、惨めに見放されて、社会的に堕落して抹殺されていくのを見たい。そのきっかけを自分自身で直接作りたい。そうしたら、私の気も晴れるかもしれないじゃない? ……あんたのご主人、ずいぶんと人格者なんだってね。不正や曲がったことが許せない質だって? そんな人が自分の配偶者が昔、ひどいいじめの主犯だったって知ったらどうするだろうね。自分の妻が一人の女の子をいじめ抜いたあげく、その子の人生をめちゃくちゃにした過去があるって知ったらどうすると思う?」


「やめなさい! もう聞きたくないわ! 話はこれで終わりよ」


「やめないよ!」


 玲の荒れた声が早優香の声を払いのけました。


「やめないよ私は。さっきも言ったよね!?」


「主人に会わせるだなんて、出来るはずないでしょう! 第一、そうしたところであなたの言うことをうちの主人が信じるわけがないわ」


「そう? じゃあ信じるか信じないか、やってみようよ。賭けようか。あんたのご主人が、妻のことを冤罪に脅されている悲劇のヒロイン扱いするかどうか。もしそうするならあんたの勝ちでいいよ。そんなに自信があるなら堂々と連れてきたらいい」


 玲は全くの余裕でありました。


「お話にならないわ! 馬鹿馬鹿しい」


「断るっていうなら、マスコミにリークするだけだよ。たしかあんた、高校のときもあることないこと変な噂を広めて、同級生を保健室登校にしたよね、大学のときも後輩に同じようなことして自主休校に追い込んだよね。エサを撒いたらあの彼女たちも喜んで食いついてくるだろうね」


 口惜しくもここで早優香はぐっと言葉に詰まってしまいました。まさに進退これ極まれりか。


「お……お金!? お金がほしいの?」


 早優香ははっと気づきました。目の前が急に明るくなったようであります。


「多少のお金なら融通もきくのよ。今日はそんなに持ち合わせはないけれど、また後日改めて用意するわ。決して少ない額じゃないはずよ」


 彼女はエレガントな財布の中から万札をつかみ、テーブルに……


「ふざけないで!」


 玲が叫んで立ち上がり、置かれた万札をはたき落としました。周りの人の注意はもう、遠慮なくこちらに集中することになりました。


「人を馬鹿にするのもいい加減にしなよ、オバサン。こんなもんであんたが台無しにした諸々が賄えるとでも思ってるの!?」


「し……静まりなさい、皆さんが見ているわ……」


 激高した玲のこともですが、早優香には周囲の目が気が気でないのでありました。

 上目遣いに玲を見やると、玲は息を乱しながら、厳しい表情でこちらを見返しておりました。


「ご主人に会わせるのよ」


 玲はもう一度、一切を寄せ付けぬ気迫で言ったのであります。


「……主人に会わせたら、もう他に余計なことはしないわね?」


「…………いいよ」


「……わかったわ……」


 眉間にしわを寄せ声をくぐもらせ、早優香はそう言うほかありませんでした。




 しかしああは言ったものの……。家に帰っても早優香の懊悩は深くなる一方でありました。


 夫は果たして早優香の言い分を信じてくれるでしょうか。玲は悪質な被害妄想に駆られているのだと信じさせることは出来るでしょうか。


 ……難しいように思われました。


 では、真実を知ってなお、早優香を受け入れ、擁護してくれるかといえば、それも何とも言えないように思われました。


 夫は、世間体や社会的な信用を何よりも重んじる人物であります。私生活では少々遊んでも、仕事や体面のこととなると、厳格なまでに変わるのであります。おまけに激情家ときています。

 いつであったか、夫の会社の製品の一部からカビが検出されてしまったことがありました。そのときも夫の憤怒の様はものすごく、すぐに商品の回収をさせ、責任者には厳重な処罰を与え、自ら記者会見に臨み、平身低頭に謝罪をしたのでした。幸いにも、健康被害も騒動も最小限に圧えることが出来ましたが、それは社長のその一連の対応を、世間様が認めて下さったからだと夫は言っておりました。

 この一件のとき、早優香は夫に対し、何もそんなにまで怒らなくても……と内心思っていましたが、事が鎮圧された後には、夫の言うことに納得したものでした。


 まさかその激情の矛先が自分に迫りくる日が来ようとは……。


 家の恥だと猛り狂って早優香を追い出す可能性は、充分に考えられることであります。そんなことになったら、夫は面子を保つことが出来るでしょうが、早優香は? 過去の行いが暴露されて捨てられたとなれば、彼女のイメージは取り返しがつかないほど損なわれるでしょう。

 それを思うと早優香は内臓が震えるほどの不安にかられました。


 でも待って。真実を知っても夫は私を庇ってくれるということも、万にひとつはあるかもしれない。

 早優香はかすかな希望にすがろうとしましたが、それもすぐに立ち消えてしまいました。


 ……夫に会わせれば、マスコミにはリークしないとあの子は言っていたけど、あの言葉にどれほどの信憑性があるというの……?

 夫に会わせても会わせなくても、マスコミにリークするつもりでいるんじゃないの……?

 もしもそんなことになったら……。


 目の前が真っ暗になります。どう転んでも、早優香にはもう打つ手がないように思われました。


 そもそも、玲というあの子は一体何なのだ……。中学のときから半世紀も経っているというのに、どうしてあの頃の姿のままなのだ……。そこからして薄気味悪い。あんな子に、私が今まで築き上げてきたものを壊されてたまるもんですか……。


 早優香はいやな汗に冷える首すじに手を当てながら、自身を鼓舞しました。


 そう。いじめなどとは馬鹿馬鹿しい。そんなものは早優香には無縁のものなのです。恵まれない人たちに寄り添い、慈悲をかたむけ、多くのひとから憧憬の的として崇められる存在、それが早優香なのですから。いじめなど、あるわけがないのですーー。

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