第12話 ⑤の6

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 日曜日、午後の早い時間から四人の女の子は集まった。玲も特に遅れることも迷うこともなく飯島邸に到着した。

「他のどのお家よりも立派だったらすぐにわかった」と、少しはにかんだような、また、ほとほと感心したというような玲の口調に、早優香の優越感はくすぐられた。


 玲の服装はファストファッションのブラウスとデニムスカートという、それはそれは質素で簡単なものであった。

 ただ、学校のときは結ばれている髪がほどかれたままになっていることが、早優香の気持ちをざわつかせ、穏やかならざるものにした。


 でもまあいいわ、と早優香は大目に見ることにした。


 三人を応接室に通し、お手伝いさんにお茶を持ってきてくれるよう頼んでから、早優香は玲の前の椅子に座った。


「今ね、お茶持ってきてもらうから。今日はいいお茶うけがあるの、楽しみにしてて」


 言いながら早優香は玲をちらちら見ていた。そわそわと落ち着きなく小さくなっているように見えた。

 早優香の家の重厚な応接室にため息をついているようであった。


 ……気づけばまた、早優香は吸い寄せられるように玲に釘付けになっていた。

 玲の肌は透き通るようで、するりと流れ落ちている髪はつやつやと黒く潤い、それとお揃いのような長いまつ毛が涼しげな目を縁取っており、早優香は自分ではそうと知らぬ間に、魂を持っていかれたようになっているのであった。


 静かに我に返りそのことに気がついたとき、早優香の頭にはにわかに血がのぼった。

 彼女の目の前にいるこの少女は、線もやわやわと細く、影も薄く、言ってみれば2Hの鉛筆でさっと描いたかのように薄幸な印象を与える。そのくせ、不意にひとの注意を音もなく根こそぎ奪っていく瞬間があるのだから……。


「お嬢様方、お待たせしましたよ」


 お手伝いさんがお茶とお菓子の載ったお盆を運んできた。リコと翠は、わあっと歓声を上げたが、玲にはそういうところがなかった。一応、目を輝かせているらしかったが、早優香にはそれだけでは不満であった。


「どうぞ召し上がれ。今日のお茶はね、ダージリンのファーストフラッシュ。で、お菓子がね、知ってる? このケーキ、一見地味に見えるでしょ、だけどこれは皇室御用達のお店のなの。一見さんお断りの、完全予約制。だからなかなか手に入らないのよ」


「S進堂のブランデーケーキだ」


 そう言ったのは玲であった。

 たちまちその場の空気が柔らかさを失った。得意気に話していた早優香も、感嘆しながら聞いていたリコと翠も耳を疑った。


 なんでこの子が?


 三人娘は無言でお互いを見合わせた。


「神谷さん、ここのお店知ってるの?」


 翠がおそるおそるという感じに聞いた。リコも詮索するような顔である。


「うん。そんなに何回も何回もってわけじゃないけどね。ここ、生菓子も美味しいよね」


「あ、そうなんだぁ……」


 リコと翠はぽかんとして言った。あまりにも意外すぎたようであった。

 が、早優香は違った。カッとイライラが沸点間際まで一気に上昇したのが自分でもわかった。


 何なのこの子。貧乏人のくせに。こういうときは、貧乏人は貧乏人らしく、珍しがってありがたがるのが正しい姿でしょうよ! 私との差を痛感して謙虚になるのが本当でしょうに! 偉そうに知ったかぶりしてるんじゃないわよ!!


 早優香は憮然としたままケーキをお茶で流し込んでしまうと、椅子を蹴立てて立ち上がった。


「早く食べて部屋に行こ」


 飲み込みの良いリコと翠はさっさと察したようであったが、玲は戸惑っているのが伝わってきた。



 早優香の広い部屋に着くと、彼女は玲に背中を向けたまま、玲の制服のスカーフを指先に引っ掛け、


「ほらこれ。返すって約束だったでしょ」


と、そのまま後ろにいい加減に放り投げた。


「あ……」


 という声を漏らしながら何とか受け取ろうとする玲の一生懸命さと鈍臭さが、早優香の加虐性をますます掻き立てた。


「で、あんたのほうは? ちゃんと持ってきたんでしょうね?」


 腕を組み、髪が弧を描くように早優香は乱暴に振り向いた。


「う、うん、これ……」


 玲は鞄の中から早優香のペンを取り出した。早優香の急な態度の変わりように玲はまだついて来られず、すっかり萎縮してしまっているのであった。

 そんな玲の様子を、早優香は虫けらのように見ていた。


 全く、速水君もどうかしている。こんな貧相な子を庇うなんて……。


 フン、と小さく鼻で笑うと、早優香は玲のペンをまた投げ捨てるように放った。


「はい、これ。あんたの。これでちゃんと返したからね!?」


 ……ぽさっ……と情けない音でラグに落ちたペンを、玲はさも大切そうに拾った。


 そんっっな安物をそんなに大切そうにして、バカみたい。

 心の中でつぶやいたつもりであったが、実際に声に出ていたらしい。玲が怯えた目でこちらを見たが、早優香はもはや、気まずいとも思わなかった。


「どんな手を使って速水君を引き込んだのよ、このインラン」


 早優香は玲を睨みつけた。抑揚のない声であった。堪忍袋の緒が切れる感触が、頭の遠くに感じられた。


「引き込むなんて、私は何も……」


 すっかりすくみあがっている玲に、早優香はゆっくり近づいていくと、玲の髪を渾身の力で掴んだ。


「こんな髪、切れ切れって何回も言ったでしょ!?」


「痛……! やめて!」


 早優香は手を緩めなかった。初めて触った玲の髪、早優香はもう我慢ならなかった。


 この間、リコと翠は特に何も発言もなく、事の成り行きを見守っているだけであった。が、早優香の味方だというのだけは感知されていたので早優香には怖いものなどなく、まさに自分たちこそ正義なのであった。


「リコ! ハサミ取って! そこの引き出しに入ってるから」


「やだ……ちょっとやめてよ! 何するの!」


 早優香たちのやろうとしていることを勘づいた玲は、髪を押さえながら半狂乱になって叫ぶ。


「翠! この子の腕押さえて!」


「はーい。ほら、あんまり暴れるとケガするよー」


「やめて! やめてってば!」


「早優ちゃん、はい、ハサミ」


「やだ……! ほんとにやめて!!」


 玲の絶叫は、リコと翠をもわくわくとさせるようであった。早優香の手にしたハサミが、早優香たちと一緒になって、ニヤリ、キラリと微笑んだように思えた。


「この辺でいっか」


「いいんじゃない? そのくらいなら。もうちょい上に行ってもいいぐらいかも」


「やめて! やめてやめてやめて!!」


「ほらー目とか突くと危ないからー」


「じゃ、ここで行っちゃおっか」


「やめてーーーー!!!!」


 玲の肩すれすれの辺りで、早優香の手のハサミが雑にガシガシと動かされた。すべすべの髪は刃の中でこぼれ、思ったようにはなかなか切れなかった。とはいえ、結構な量の髪がハラハラと悲しく散った。息を吸うような悲鳴が同時に響いた。しかし、早優香もリコも翠も、少しも動じなかった。むしろ使命感と正義感とから成る加虐性にきらめいていた。


「なーんかこれじゃ左右おかしいから、右のほうも行っとかないとねー」


「神谷さん、ほらあ」


 両方の側頭部を指先が真っ白になるまでの力で押えつけ、狂ったように泣きじゃくっている玲を前に、三人は、やれやれ、とお互いに顔を見かわし、ため息をついた。


「ねーそんなに泣かなくていいじゃなーい。セミロングもかわいいよお」


 リコがへたりこむ玲に声をかける。翠が声を押し殺して笑った。

 玲はむちゃくちゃに頭を振った。力いっぱい髪を押さえつけたまま体を固くして、ひいひいといつまでも泣いている。


「……いつまでも泣かないでよ、鬱陶しい……」


 やがて翠が小さく舌打ちをした。


「でもまあたしかにこのままじゃちょっとマズいかもねー……」


 そう言いながら早優香は電話を取った。


 ……もしもし、飯島早優香です。あの、今からそちらに向かうんでお願いできますか? ……はい……あ、今日は私じゃなくて友達なんです、自分でカットするって言って、でもやっぱり上手くいかなくて……はい、今、私の横で泣いてるんです……すすり泣き聞こえますか? あ、ありがとうございます。今から支度します……。


 電話を切ると、さも面倒だと言わんばかりに早優香は言った。


「ほら行くよ! 今から来ていいって!」


「どこ行くの?」


 と聞いたのは玲でなくリコであった。


「私がいつも行ってる美容師さんのとこ。ほんとにもう、そんなに泣くことないのにさー、手間かけさせないでよね」


「早優ちゃんが行ってるとこだったらいいとこだよねー、良かったじゃない、神谷さん。逆に儲けたんじゃない?」


「もう! 早く行くよ! グズグズしないでよ、今から行くって言ったんだから」


 早優香は髪を押さえて硬直したまま泣きやつれた玲の腕を無理やり引き剥がした。

 翠が言った。


「お金はどうすんの?」


「私が払うしかなくない? 仕方ないわ」


「うわーすごい! 早優ちゃん太っ腹! 神谷さん、ありがたく思いなさいよ?」


 部屋を出るとき、早優香は後ろから玲の肩を掴むとすごみを効かせて念をおした。


「いい? わかってると思うけど、美容院で余計なこと言わなくていいんだからね? 学校でもよ!」


 玲はもう、ぼんやりとするばかりで何も言わなかった。従順な態度に、早優香の気は少し済んだ。


「じゃ、行こうか。そんな幽霊みたいな髪じゃなくなるんだから」



 こうして玲の髪は肩につかない程度のボブスタイルになったのであった。


「ほーら神谷さん。いいじゃない。見違えちゃったよ。絶対こっちのほうが、あの長いのよりいいって」


 早優香は腕を組んでまじまじと玲を見た。


 そう、このほうが絶対にいい。こんな髪だったら速水君だって血迷ったりしないで冷静な判断が出来るはずだからーー。


 と、このとき早優香はふと、視線を感じた……ような気がした。上のほうから、誰かに強く見られているように感じたが、そんなはずはないのであった。天井には美容院のライトのダクトレールがあるばかりであった。

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