第10話 ⑤の4

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 ある日、B組の移動教室のときに玲だけ遅れそうになっているのを早優香は見つけた。ひとり急ぎ足で早優香たちの教室の前を通っていこうとしていた彼女を、早優香は廊下に出るや、たち塞いだ。


「ちょ……飯島さん、どいてくれる?」


 少し慌てた様子で早優香をよけて行こうとするのを彼女は手で遮った。


「何をそんなに急いでるのよ」


 早優香には、玲の慌てようがなんとも滑稽に思われた。

 本当のところ、早優香は玲が遅刻しそうになっている理由をよく知っているのであった。早優香自身がリコに命じ、玲の教科書を絶妙な場所に隠させていたのであるから。

 昇降口のラベルに始まり、更衣室のラベル、さらに今回の紛失未遂で、玲のまとう雰囲気はかなり余裕を欠くようになってきていた。そして早優香には、それを面白いと嘲笑う気持ちが無自覚のうちに巣食っていた。


「だってもうすぐチャイムが鳴るし」


 玲は上目遣いでこちらを睨むように見た……が早優香と目を合わせようとはしなかった。


「大丈夫よ、音楽室でしょ、すぐそこじゃないの」


 早優香はそう言いながらおもむろに玲のペンケースを彼女から取り上げた。

 玲が、「あ」と言ったが早優香は気にせず、中を開ける。

 中身は中学生の女の子としては特に変わったところのないものであったが、一本だけ、上質メーカーのボールペンが異彩を放っていた。


「あ、それ……」


 玲が急いで取り返そうとしたところを早優香は、さっとペンを持ったままかわした。


「返して、それ」


 息を殺すようにして玲は、早優香の手の先のボールペンにひたと焦点を当てて、食い入るかのように見守っていたが、やはり早優香はそんなこと全く気に留めなかった。


 こんな子がこんなものを持っているなんて!


 ボールペンをハラハラしながら睨みつけるように見守る玲に対し、早優香は頭から爪先までジロジロとぶしつけなまで視線を這わせた。


 やっぱり生意気、と結論が出たと共に閃いた。


「ほら、これあげるわ、交換しましょ」


 早優香は自分の胸ポケットからペンを抜くと、手首を返して差出した。


「親友の証。STD社のボールペンよ。これだったら文句ないでしょ?」


「返して」


 消え入りそうな声で玲は言った。

 本当ならここで感激して然るべきだというのに、玲は早優香の差出したものをろくに見ようともせず、未練たらしくいつまでもさっきまで自分のものだったペンから視線を離さないのであった。全く素直じゃないんだから……! ついカチンときたが、


「ほら、もう行きなよ!」


 早優香は物分りのいいところを証明すべく、明るく言って玲の肩を押した。


 自分の席に戻ってから早優香は玲から貰ったボールペンをかちかちと出しながら眺め、それからノートに試し書きをしてみた。

 ふーん、思ったより悪くない。

 あの子も私のペンを使ってみたかしら?

 書きやすさにびっくりしているかも。感動しているかも。

 そうしたらあの子も私に感謝して、心を入れ替えるだろう……態度も改めるだろう……。

 早優香は心の中で頷いた。



 それから二日ほど経った日のことである。

 昼休みに速水君が早優香の教室の入口で、彼女に向かって来い来いと手招きをしてきた。


 え? 何? 急に何?


 早優香は浮足立ち、背筋が軽やかに伸びた。


「わ、早優ちゃん。速水君がお呼びだ!」


 リコと翠も語尾にハートをつけてきゃーきゃー騒いだ。その二人を笑いながらあしらったが、早優香の頬は淡いピンクに染まっていた。


「何? 速水君」


「わりぃ、ちょっとこっち……」


 彼は廊下の、みんながたむろしているところより離れた、静かなところへ早優香を先導した。早優香はドキドキしながら付いていく。


「なに?」


「あー、ん、あのさ……」


 速水君はそわそわと落ち着かない様子で、早優香の目を見ようとしなかった。もじもじと口ごもる彼の横顔に、早優香はきゅんとした。

 速水君、かわいい……。

 早優香の胸もピンク色でいっぱいになる。


 とうとう腹を括ったのか、速水君は真っ直ぐ早優香に向き合うと、一呼吸を置いてから思い切ったように、


「今さらだけどさ、俺と付き合ってほしい」


「……!」


 早優香は驚き、手で口を押さえる。そして嬉しさに潤んだその瞳を、彼がしっかりと受け止めるかのように見つめ返す。

 聞きたかった、その言葉……!

 途端に、どこからともなくばらの花びらが舞い上がり……。



 ……そんなような展開を、彼女が密かに白昼夢に見てしまっていたというのに、


「あのさ、神谷さんのペン、持ってる?」


 やっとこっちを向いたと思いきや、彼はまるで眩しいものでも前にしたように目を細め、早優香の瞳をとらえながら、そんなことを言った。


 は?


 早優香は思わずその場に凍りついた。ピンク色が一気に色褪せていく……。


 そんなことのために呼び出したの? 速水君……! 早優香はあまりの落胆に泣き出しそうになった。


「交換したやつのことだったら持ってるけど」


「持ってんだったらさ、それ、返してやってほしいんだわ」


「でも、交換したのよ、親友の証ってことで。私のやつをあの子は持ってるのよ」


「なんか知んねーけど、とにかく持ってるんだったら返してやってほしいんだわ。お母さんが、中学に上がるときのお祝いとしてくれたとかで、大事なもんなんだってよ、それ」


 速水君は首の後ろをかきながら、早優香を微妙に視界から外しながら言うのであった。


 一方的に端的に済まそうとする彼の態度に、早優香は深く傷ついた。


「ま、そういうことだから。頼むな」


 それだけ言うと初めて速水君はいつもの笑顔を浮かべ、彼女の横をすり抜けて教室へ帰って行った。

 普段なら、彼女の心を浮遊させる笑顔であるのに、その時は早優香をして、呆然とその場に立ちすくませた。早優香はショックですぐには動けなかった。

 そこに硬直したまま、目だけは教室へ向かう彼の姿を追っていたが、彼の背中をこんなに遠く感じたことはかつてないことであった。



「あ、早優ちゃん、速水君、何だったの?」


 教室へ戻るとリコと翠が期待と興奮に輝いた顔をしてすり寄って来たが、


「うん、ちょっとね……」


 どうにか平静を取り繕ってそう答えるのが、その時の早優香には精一杯であった。



 その夜、早優香の家では、ひとり自室で涙をこぼす彼女の姿があった。

 昼間の速水君との場面が、頭から離れてくれなかった。自動再生のように、何度も何度も繰り返し脳を過ぎる。


 速水君、ひどい……。


 そのたびに早優香の胸は掻きむしられ、目の奥からは涙がどっと押し寄せては頬を伝う。彼女は生まれて初めて、みじめな切なさという感情を知らされた。

 速水君に、裏切られた思いであった。


 速水君、ひどい。あんな言い方、まるで私が悪者みたい……速水君ならわかってくれると思ったのに……。


 早優香はあまりの悔しさに唇を噛んだ。


 それもこれも、あの子のせいだ、と、今度は玲のことが台頭してきた。あの子が速水君をたぶらかしたんだ、あの子が来てから色んなことが狂い始めたんだ……。


 玲に向く早優香の憎しみは、この時、頂点に達したのであった。


 切なさと悔しさと憎しみが、濃くて重たい涙となって、早優香のフリルの枕に次々と大きなシミを作った。

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