第9話 ⑤の3

        −5の3−


 次の日、早優香の目はいつもよりも意識的に玲の姿を追ってしまっていた。ちょっとくらい困った様子をしているのを心のどこかで期待しながら。

 しかし玲は特に悲しんでいるとか困った風には見受けられず、普通にクラスの女の子と喋っているのを見るや、何故か早優香の苛立ちは募ったのであった。



「ねー、昨日のあの子の名前のやつ、新しいのになってるの知ってた?」


 一限目の授業が終わったとき、翠が忌々しげに早優香のところへ報告にやってきた。


「マジ?」


 リコも苦虫を噛み潰したような顔をし、それから片方の唇だけを上げて、


「もう一回やる?」


「またやるの!?」


 と言いつつ翠も面白がっているのが明らかであった。


「だってさー、生意気じゃんあいつ! ムカつくもん。ねえ早優ちゃん?」


 急に自分に振られ、早優香は返事に詰まったが、


「そうね、たしかにそうよ」


 ほんの一息躊躇したが、出てきた言葉は本心であろう。

 玲に己の分際をわきまえさせたい、いや、そうしなければならないのだと早優香の心は強く訴えていた。


 果たしてこの三人娘はその日の放課後、誰も辺りにいないのをしっかりと見計らってから、リコの手によって真新しいラベルを無惨に破ったのであった。故意に無惨に。

 哀れなその跡に、三人娘は顔を見合せてほくそ笑んだ。


 もしかしたらこれは意地悪い仕業に見えるかもしれないけど、でもそうじゃないの。

 だって、あの子が悪いんだからーー。

 あの子が生意気だからーー。



 二度目のラベルを剥がした翌日、早優香たち三人娘はまた、廊下のロッカーで荷物を片付けている玲を捕まえた。玲は、何だか疲れているように見えた。


「神谷さん」


 早優香が声をかけると玲はそこで我に返った様子で、


「飯島さん……」


 と、少し表情をゆるめた。


「どうかしたの?」


 と早優香が尋ねたのは、無意識のうちに探りを入れようとしたのであろうか?


「ううん、何でもないよ、ちょっとぼーっとしてただけ」


 玲は笑ってそう言ったが、早優香には多少無理しているように見えなくもなかった。少しだけ、早優香の心がチクリと痛んだ。


「神谷さん、美術部に入ったって本当? なんで? 私たちずっと待ってたのに」


「ああ、そのこと? 別に深い理由はないよ。美術部を見に行ったらお試しに色を塗らせてもらって、楽しかったから何となくそのまま」


 玲はそう言い、きょとんとしていた。その無垢な顔に気圧され、早優香の目は一瞬泳がされた。

 と、玲の左右の耳の後ろからするりと滑るように流れる髪に、また視線が引き込まれた。憎らしいほどの艷やかさ……。


「ねえ、その髪、切らないの?」


「は?」


 唐突な早優香の言葉に玲は面食らったらしかった。


「切ったほうがいいよ。神谷さんのためを思って言ってるの。先輩にも目つけられるよ、長すぎるもん」


 泣けばいい。困ればいいのに。

 玲のあどけない顔を見るたび、声を聞くたび、早優香の内にはそれを踏みにじってやりたくてたまらなくなる気持ちが噴き出す。


「そうそう、切ったほうがいいよー男子を誘惑してるみたいに見えるよー」


 たじたじとなる玲に対し、リコも追い打ちをかけた。


「でも先生は結んでたらいいって」


「そーれーはータテマエの校則。でも実際は違うの」


「先輩に目つけられたら困るよ?」


 翠が上から威圧的ににやっとして言った。


 玲が押し黙った。その沈黙に早優香たちは満足を得た。


「んー、でも私、やっぱり切らないと思う」


 しかし玲はさらりとそう言ってのけた。

 三人娘は耳を疑った。


「もうチャイム鳴るし、私行くね」


 玲はそう言って、さっさと教室に戻って行ったのであった。


 三人娘は揃って、信じられない……という風にその場に立ち尽くした。


 やっぱり生意気だあの子は……。という確信を早優香は強くした。

 自分に対してあんな態度に出るひとは、かつて一人もいなかったというのに。新参者であることを抜きにしても、あの態度はまるで理解出来ない。こちらが歩み寄ってあげるつもりで、下の名前で呼んでもいいと言っているのにいつまでも苗字で呼ぶところも気に入らない。


 早優香は屈辱で全身が震えるようであった。


 先程痛んだ良心がばかばかしく思われた。あの子のあの態度、これは宣戦布告だ。名前のラベルを剥がすことぐらい、取るに足らないことであったのだ。

 早優香の中で、玲への怒りが激しさを増して湧いた。


 こうして玲の昇降口のラベルは三度目も、酷たらしく剥がされたのであった。

 それは更衣室のラベルにまで及んだ。


 でも、こうなるのもあの子が悪いんだから。多少の罰は受けて然るべきだし、泣いた顔のひとつでも見せてみろ、と早優香は唇をかみながら睨みつけるような思いであった。


 しかしそれにも関わらず、いや、だからこそか、早優香は知らず知らずのうちに玲のことを常に目の端で追ってしまっているのであった。彼女が一人でいるところを目撃すると、絡みに行かずにはいられなかった。そしてその後、どうしようもなくイライラするのもお決まりになっていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る