第8話 ⑤の2

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 その日の放課後のことである。

 

 旧校舎と新校舎をつなぐ渡り廊下のすぐ脇にある、運動部の部室が並んでいるところで早優香は速水君を見つけた。彼は誰かと楽しげに話していたが、それが神谷玲だとわかるや、早優香は思わず固まった。


「速水君」


 早優香の声で、やっと二人はこちらに気づいたようであった。


「おー飯島さん」


 速水君がいつもの笑顔を見せる。


「あ……飯島さん」


 玲も控えめに言うと、


「じゃあ私、職員室に行くから……」


 と遠慮するかのようにそそくさとその場を離れていった。玲に入れ替わるようにして早優香は速水君の隣に行った。


「よお」


 速水君が言った。


「あの子、新しく来た子よね、神谷さん。どう? どんな感じ? 速水君は同じクラスだけど」


「どんな感じって、まだよくわかんねーけど、まあ、静かなタイプって感じなんじゃね? よくわかんねーけど俺はそう思った」


 そこで会話が途切れた。わざわざ確かめたりはしなかったが、おそらく速水君も早優香と同じように、玲が行った方を何となくみていたのであろう、二人で同じ方向を。

 九月初めの、まだ充分に熱を持ったゆるい風が急に来て、二人を包んだ。

 速水君は今、何を考えているのだろう……。

 早優香ははにかみ、彼を目の端でちらと捕らえた。


「あー! バスケ部入ってくんねーかなあ!」


 出し抜けに彼が空を仰ぐように言った。

 早優香の胸に、ヒヤリとしたものが走ったように思われた。


「何?」


 早優香は精一杯落着きを装って言ったが、不幸なことに彼女の予感は的中したらしかった。


「神谷さんのこと。今、どこの部活に入るか考え中なんだってよ。バスケ部に入ってくんねーかなぁ!」


「残念だけど、それはきっとないよ。運動は苦手だって言ってたもん……」


「あーマジかあ、ダメかあ……。でもまあたしかにあの髪の毛じゃバスケは向かねーかもな。……なあ、あのひとの髪の毛、むちゃくちゃ綺麗じゃね? てか俺、あんな髪、初めて生で見た。シャンプーのCMみたいじゃね? あとは平安あたりのお姫さんとかさ、あんなんじゃね?」


 興奮気味に語る速水君の様子に、早優香はますます心臓に冷たいものが流れるのを知らないふり出来なくなった。今度は気のせいなどではない。大きな波のごとく、得体の知れない焦りがまた早優香に押し寄せてきた。しかし、


「ああ、あの髪の毛ね。そうね。でもちょっと長すぎるよね。もう少し切った方がいいよね」


 早優香は昨日と同じように、速水君が早優香の心の暗雲を晴らしてくれるはずだと半ば信じていたというのに、


「えーそうか? 切ったらもったいなくね?」


 彼は、そうしてはくれなかったのであった。


「だって長すぎるよ、腰まであるよ?」


「校則で髪の毛の長さって決まってんの?」


「肩のところより長かったら結ぶってことになってるけど、でも」


「じゃあいいんじゃね? あのひと、ちゃんと縛ってたじゃん?」


 ここで彼はおおらかに笑った。 


「やっぱあのひとはあれでいいよ。切ったらもったいないわ、あんっっな綺麗な髪の毛」


 ……彼が玲について、綺麗という言葉を使うたびに早優香の胸は痛みと焦りでざわついた。途方もなくみじめな沼に突き落とされる。


「んじゃ俺も部活行くわ!」


 速水君は元気よくそう言うと体育館の方へ走っていってしまった。遠ざかって行く彼を目で追いながら文字通り、早優香は「置いてきぼり」にされたと強く感じた。


 ううん、でも大丈夫。早優香は自分を鼓舞した。

 玲が合唱部に入れば全て上手くいくのだからーー。それももうすぐのことだからーー。



 が、早優香の思惑とは大きく外れ、その日、玲は合唱部の見学に来なかった。その日ばかりではなく、その週、玲が合唱部に顔を見せることはなかったのである。


 そして週が明けたとき、早優香の耳に、玲が美術部に入ったということが届いた。早優香は呆然となった。


「何なのあの子! 何様のつもりなの!?」


 放課後の昇降口でそのことを話すと、リコは真っ赤になってキーキー声を荒げ、翠もまたイライラを滲ませた。


「早優ちゃんが誘ったとき、満更でもなさそうだったよね!?」


「そうそう! 思わせぶりなこと言ってたくせに、何なの!? ほんと。新入りのくせに」


「生意気!」


「何様? って感じ」


 リコと翠がヒートアップしていくのを視界に留めながら、早優香は二人の声を、左右の肘をお互いにつかみ、何やら考え深げに壁にもたれ、うつむき加減の格好で、ただ聞いていた。


「だいたいさ、初めから生意気だったよね」


「わかるー。何か勘違いしてない? あいつ。みんなにちやほやされてると思っていい気になってない? みんなはただ新入りが珍しいだけだっつーの」


「ほんとそれ」


 二人はきゃははーと甲高く笑った。


「それにさあ、あの髪も何なの? 自慢たらしくて感じ悪いんですけど」


「あ、あたしもそれ思ってたー! やっぱそう思うよね、みんな思うことは同じかー」


 これを聞いて、早優香にはやっと生気が戻ってくる兆しをみたような気がした。

 うん。やはり、あの髪は問題だ。と早優香はひとり、確信を得た。現に速水君のような無垢な男の子まで迷わせようとしているのであるのだから。

 やはりあの女は魔女なのだ。


 渡り廊下での速水君との件を話すと、リコと翠は口を半開きにし、


「信じられない!!」


 と叫んだのであった。


「速水君にまでもう手出して、どこまで図々しいのあいつ」


「身のほど知らずもここまでとはねー……なんかムカつくんですけど」


 リコと翠が水を得た魚のごとく玲を批判するのに比例して、早優香のほうには徐々に元気が出てきた。


「でしょでしょ、そうよね!」


「そうだよー!」


「あ、そうだ、いいこと思いついた」


 リコの目が意地悪く光ったように思われた。


 そして、ススス……とB組の下駄箱のほうへ行き、指と目で目的を見つけだすと、あった……と小さく呟き、そこに貼ってある生徒の名前のラベルを、べりりと剥がして持って来たのであった。


「ほらこれ、ザマミロって感じ」


「うわ、やったねリコ! わっるーい!」


 翠はけらけら笑った。

 それが玲のラベルであったことは言うまでもない。


「ちょっとだけすっきりしたわ」


 さも清々したという風にリコは言った。


「早優ちゃんの仇とったよ」


「そんなもんじゃ、まだ足りないけどね」


 翠も同じ顔をしていた。


「あの子、明日どんな顔するだろうね、これ見たら」


「やーん、想像しただけで面白そう!」


 二人は興奮で武者震いした。


「じゃ、今日はもう帰ろっか」


 早優香もやっと口を開いた。極めて落着きはらった口調であった。リコと翠のやったことには少しも言及しなかった。実際、早優香も二人のしたことは当然だと感じていたのであるから。そして早優香の気分も少しだけさっぱりしたのも事実なのであった。


 だって神谷さんが悪いんだもの。

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