第7話 ⑤の1

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 翌朝、早優香は待ち構えていたようにぱっちりと目を覚ました。夢の中で、ウルワトゥの崖から波を見ていたような気がしたが、今はそんなことはどうでもよかった。

 早く学校に行きたくて、居ても立ってもいられなかった。


 あの転入生の名前が、神谷玲というのは始業式のときに知ることが出来たが、昨日は何しろ学校が全体的に慌ただしく、よそのクラスの転入生と言葉をかわす時間などは、到底持てなかった。


 大体において転入生というものは注目の的になるものであるが、神谷玲という子の場合は単なる物珍しさだけが原因ではなさそうであった。

 隣のクラスが何となく浮き足立った空気に満ちているのが、早優香には気になって仕方がなかったのである。


 

 その新入りを探し当てられたのは、やっと昼休みも終わりに近くなってからのことであった。

 早優香はリコと翠を従えて、廊下の、各教室の前に設置された各自のロッカーに、膝をつく格好で何やら物を仕舞っている玲を見つけた。

 目の前のことに集中しているその横顔と、耳の下の位置で二つに分けられた、艷やに長く、さらさらと流れ落ちている髪に、早優香はまた我知らず魅入られた。


「こんにちは、神谷さん。あなた、神谷さんていうんでしょ?」


 早優香は玲のすぐそばまで行くとにこにこして声をかけた。玲は少しびっくりしたようであった。まん丸に見開いた目を、ほんの少しだけ伏せるようにしてから、ゆっくりと視線を上げてきた。長い、濃いまつ毛が動く。

 それから玲は立ち上がり、かすかに警戒気味にこちらと視線を合わせてきた、と、その刹那、さっと清冽さが辺りの空気をはらった。それは本当に一瞬の中のことであったが、早優香はまた、息をのんだのであった。おそらくリコと翠も同じであろう。


「私、A組の飯島早優香。こっちはリコで、こっちの背の高いのは翠。よろしくね」


 そういう早優香を、玲は不思議そうにきょとんとした顔で見た。


「転校してきたばっかりでわからないことあるんじゃないかと思って。もしそんなときは、何でも私に聞いてくれていいから。よかったら校舎内も案内しようか?」


 早優香は親切心で言ったつもりであった。しかし、返ってきた答は彼女にとっては意外なものであった。


「え? 隣のクラスのひとがどうしてわざわざ?」


 玲の口調は穏やかで、その表情はいかにもあどけなかった。


「ありがとね。でも校舎の中はもう先生に案内してもらったから大丈夫なんだ」


 その答えは、早優香にとってあまりにも心外であった。彼女は二の句が継げなかった。なぜなら早優香は玲を案内するために、その日の放課後は空けていたのだから。


 玲ちゃーん、行こー……! と、B組の女の子が三人ほどかたまって玲を呼んだ。どうやら隣は次の時間、移動教室らしかった。

 玲を囲むようにした女の子のグループは、きゃっきゃと楽しげに早優香たちの横を通って行った。

 早優香とリコと翠は、黙ってそれを見送った。そうする他なかった。

 そして早優香は見てしまったのである。玲の周りの女の子たちが華やいだ空気を発していることを。まるで宝物に触れるかのように大切そうに玲の髪を手にとっているのを。


「……なに、あれ……」


 リコが憮然として言った。


「せっかく早優ちゃんが言ってくれてるのに」


 同じように翠も口をへの字にして、うんうんとうなずく。

 

「素通りしてったし」


 正直、早優香も腑に落ちない気持ちのまま取り残されていた。急に、自分の波打った髪がみじめに思え始めた。


「でもまあ、仕方ないよ」


 心のなかに芽生えた小さなモヤモヤを払うように早優香は言った。


「だってあの子、来たばっかりだし。慣れてきたらもう少し色々分かってくるんじゃないかな」


「えー……んー……そうかなぁ」


「そういうもんかなぁ……」


 リコと翠は渋々といった風であった。


「よお!」


 早優香の頭に、教科書がぽんと載せられる感触が来た。


「速水君!」


「三人とも何しけた顔してんの?」


 速水君は陽気に言って、わははと笑った。

 早優香の心のもやが、雲散霧消したように軽くなった。甘くまろやかに胸がズキンと跳ねる。速水君と接するといつも、まるで自分が小さくてか弱い存在なように思われた。ぽっ、と心臓のあたりが暖かくなるこの感覚を、早優香は気に入っていた。


 次の日、早優香は玲がどこの部活に所属するか、あちこち見学に行く予定らしい、という情報をどこからともなく仕入れてきた。


 部活動!


 これはチャンスである。早優香はさっそくB組の教室へ行った。

 玲はちょうど登校してきたばかりのようで、自分の席で鞄を片付けているところであった。


「神谷さん、おはよう。今ぐらいの時間に登校なのね」


 早優香が声をかけると、


「ああ……昨日の。飯島さんだっけ」


 玲は愛想よく言った。

 玲が早優香の名前をきちんと覚えていたことに、早優香は得心がいった。つい、にんまりと頬がゆるむ。


「ねえ、部活をどうするか考え中って聞いたの。私とリコは合唱部なんだけど、神谷さんもどうかなって」


「合唱部?」


「そう。興味ない? それかどこか目星つけてるとこあるの? 合唱、楽しいよ」


「んーと」


 また玲がほんのちょっと視線を落とした。……また濃いまつ毛がちらちらする。


「ここ、ていう候補はまだないの。卓球部の子からも誘われてるんだけど、私、運動はあんまり得意じゃないんだ」


 と言って玲は笑った。儚げなくせに、思わず釘付けになる笑顔であった。


「じゃあ合唱部どう? 運動苦手ならいいんじゃない? 練習は視聴覚室でやってるの。見学来てよ。あと、私のこと、早優ちゃん、て呼んでいいから」


「うん、ありがとう。まだどうするか全然わからないけど、行かせてもらうかもしれない」


 玲は静かに言って笑った。


 よし! と早優香は思った。これで大丈夫。


 このやりとりから、早優香は何か手応えらしきものを掴んだ。

 これで大丈夫。あの子が合唱部に入って、仲良くなればもう大丈夫。

 自分の教室へ戻りながら、早優香の胸には安心と落着きが広がっていったのであった。


 その日は極めて平穏に過ぎていった。


 

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