第6話 ④の2
−4の2−
次の日、明日実には学校を休ませることにし、早優香は学校へ電話をかけました。
欠席の旨を伝えるとともに、明日実との昨日の話を事細かに担任に話しました。
「真相をはっきりさせていただきたいんですの」
早優香の毅然とした態度に、電話のむこうで担任の先生が言葉を失い、蒼白している様子が手に取るようでありました。
「まさかそんなことになっていたなんて……少し様子がおかしいかなと思ったことはあったんですけど……」
大変申し訳ない、と担任の先生は何度もくり返し、こちらの監督不行き届きだと言いました。
「神谷玲に直接確認しましてから、改めてお電話させていただきます」
学校から折り返し電話があったのは、お昼のことでありました。
「神谷に問い質しましたら、槙原さんにやったことを認めました。本当に申し訳ないです……」
もはや先生自身が泣き出さんばかりの声であります。
「それで、どう対処させていただきましょうか。……神谷にも将来がありますし、あまり大事には……」
「その子はどういう子なんですか?」
早優香が尋ねると、先生は、ああ……、といくらか冷静さを取り戻して言いました。
あの子は両親がないんです。両親だけでなく、親戚もありません。どこかに遠縁の人くらいいるだろうと思うんですが、今までのところ全く掴めていないんです。それなもんですから、小さい頃からずっと施設で育ってきたようです。今もそこから通学しています。成績は悪くありません、優秀です。問題を起こしたことも一度もありません。ですから今回の件については私たちも動揺しています、本当に信じられません……。
「その子に会わせていただきたいわ」
早優香はきっぱりした口調で言いました。
「本人も認めているんでしたら話も早いわ。私が直接話してみますから、今日、授業が終わりましたら『湊屋珈琲』にお連れ願えるかしら。ご心配には及びませんことよ、中学生の女の子にあまりなことを言ったりはしませんから」
早優香には勝算があったのでした。親も親戚もいないというところでピンと来たのであります。
おそらくその子が明日実に意地悪した原因は羨ましさからきているのでありましょう。両親が揃っていたとしても、明日実の境遇はたいへん恵まれていると映るでしょうから無理もありません。
ですからそういう子に対しては、自分たちのような大人が積極的に愛と関心を持って係わっていかなくてはならないのです。きっと伝わるはずです。先生も、本来は何も問題のない子だと言っていたくらいですから、少し一緒にくつろいだ時間を持てば、その心の棘も取れていくでありましょう。
早優香が湊屋に着くと、間もなくしてセーラー服の女の子を連れた女性が二人やってきました。ひとりは明日実の担任の先生、もうひとりは神谷玲の担任でありましょう。二人とも神妙な顔をしております。
「私、神谷玲の担任でございます。このたびはまことに申し訳ないことを……」
「本当にすみません、本日はよろしくお願いいたします」
二人の先生は深々と頭を下げました。
早優香がちらりと視線をやると、先生のうしろに長い髪を耳の下で二つに結んだ、メガネをかけた女の子がうつむき加減に立っておりました。
「その子が神谷とかいう……?」
「あ、はい。そうです。神谷さん、ほら」
彼女の担任がその子を前に押し出しましたが、その子は下を向いたまま何の反応もありません。まあ、気まずいのでしょう。
「じゃあ彼女と二人にしてくださいますか? 先生方には席を外していただいて。また後でこの子を迎えにきてください。二人で話がしたいんですの」
先生方が店から出ていくのを見届けると、早優香は神谷さんに対して穏やかに声をかけました。
「どうぞ座ってね。今日は突然呼び出したりしてごめんなさいね。あなたにも色々予定もあるでしょうに……」
神谷さんは相変わらず黙ったままで顔もろくにあげませんでしたが、早優香の言葉に従って素直に椅子を引きました。
何だか根暗そうだし、あんまりぱっとしなさそうな子だけれど、先生たちの言うように素直さだけは持ち合わせているようね、ここへの呼び出しにもちゃんと来たことだし……。
「さあ、何かいただきましょう。好きなものを頼んでね。あなたは何が好きかしら?」
早優香はメニューを開いて差し出しました。が、少女はうつむいたままで少しも動きません。
……ふうん、さすがに緊張はしているようね。
「クリームソーダは好きかしら。クリームソーダでいい?」
早優香の愛想いい声に、少女はかすかに頷きました。
「ではそうしましょう」
注文を済ませると早優香はまた少女に優しく話しかけ始めました。
「学校は楽しい? 二年生っていったかしら」
少女がほんのわずかに身じろぎしたのが感じられました。
「あなたは施設で暮らしているって聞いたわ。ご両親がいらっしゃらないのは、きっと寂しいでしょうね……」
少女はやはり黙ったままであります。予想していたこととはいえ、さすがにこうも反応がないのは困ったものだと早優香が思案していると、コーヒーとクリームソーダが運ばれてきました。その瞬間、少女の顔がにわかに輝いたように見えましたのを、早優香は見逃しませんでした。
「さあ、遠慮なく召し上がってね」
少女は目を耀かせながら、それでいておずおずとしながら、クリームソーダのグラスを自分の方へ引き寄せました。
「ここのクリームソーダはね、昔から有名なのよ。ソーダに合うアイスクリームをここで作っているのよ。美味しいかしら?」
少女がストローにそっと口をつけたのを見計らってから早優香はにこやかに言いました。少女は小さくうなずき、いくらか強張りも解けてきているのでありましょう。
「施設のスタッフさんたちは、きっとあなたたちに良くして下さっていると思うの。だけどこうやって今みたいにお店でお茶をしたりする機会ってあんまりないんじゃないかしら。あなたさえ良ければ、時々一緒にこういう時間を持つのもいいかなと私は考えているの。こういう時間が人生を豊かにしたり、他の人への思いやりを育てたりすると思うから」
沈黙が二人の間に流れました。
「明日実は今日、学校を休んだの。あの子はあなたからのことにずいぶんと傷ついているようなの。ペンを取られちゃったことも、とっても悲しんでいるわ。でも、あなたにだってああいうことをしてしまっただけの理由があるのよね? あなたは、あの子のことがちょっと羨ましかっただけよね? だからちょっと意地悪したくなっちゃったのよね? わかるわ、人間てそういうものだし、誰だって多かれ少なかれ、そういう気持ちってあるものね。……でもね、だからって誰かを攻撃していいという理由にはならないと思うの。あなたからのことで、明日実は本当に心を痛めているわ。故意にひとを傷つけたり悲しませたりするのって、良くないことよ。私にはあなたが本当はすごくいい子だってこと、わかるわ。だからもう、こんなことは止めにしない? こんなことを続けていたって、あなたにとっても何の得もないんだもの。それよりもみんなが笑顔になれる道を探しましょうよ。明日実は色々と恵まれているように見えるかもしれないけど、あの子には母親がいないのよ……」
また、沈黙。
早優香は、目の前の少女を見つめました。少女の目が、メガネの奥でちらと動きました。そして少女はまた少し緊張した風に、所在なさげにスプーンでグラスの底を突いておりました。
自分の言葉が響いているのだと、早優香は密かにほくそ笑みました。
クリームソーダの氷が、グラスの中でカラン……と涼し気な音をたてました。ソーダは美しい、深い青でした。自分の言葉の余韻に浸りながら、早優香はその青を見るともなしに見つめました。それは、バリ島のウルワトゥの断崖から見わたせる波を想わせました。
バリにももう長く行っていない。今度の休みに明日実を連れて行こうかしら……。
「今、何を考えてる?」
早優香のうたかたの白昼夢は、急に破られました。
え?
誰?
それは目の前の少女であるようでした。
とっさには早優香はわけがわかりませんでしたが、メガネの奥から、まるで刺すようにこちらに向けられている少女の目に捕らえられました。
「もうこんなことはやめよう、って、あんた、自分はどうなの?」
さっきまであれほど黙秘してきた少女のぞんざいな口の利き方に、早優香は頭が追いつきません。
「私がやめて、って言ったとき、あんたはやめてくれた?」
そして少女は鞄からペンを一本取り出すと、テーブルに転がすように置きました。早優香が明日実に贈ったものであります。
「ほら、これね、ペン。まえにもあったよね、こんなこと」
「え……?」
「あのとき、あんたはやめてくれたっけ?」
ぽかんとなる早優香に、少女は極めて落ち着いた仕草でメガネを外すや、また切れるような視線をこちらへ向けて言ったのであります。
「やめて、って私、何回も言ったよね?」
「あ……!」
早優香の記憶が、大きくぐるりと回転しました。そしてやっと早優香は理解しました。思い出した、という方がいいかもしれません。
目の前の少女は、紛れもなく早優香の知っている顔だったのであります。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます