第5話 ④の1
−4の1−
早優香ははっと目が覚めました。肘を立てた手のひらに載せていた頭ががくんと滑ったのでありました。それで初めて彼女は自分がうたた寝をしていたことに気づいたのであります。
ピンク色のばらが溢れるリビングルーム。まぁいやだ……。
浜辺さんが帰っている時間で本当によかった。あんなだらしないところをみられるわけにはいかないわ……。
ランチ会はとてもいい時間に違いありませんでしたが、疲れたのも確かなようです。
なにか夢の中の早優香は中学生だったような気がいたしました。おそらく、午前中に中学時代の写真を見つけたことと、ランチ会で孫娘の話をしたことに起因しているのでありましょう。
早優香は手に、企画中のチャリティーコンサートの草案を書きつけた紙を持ったままでした。これをもう少し練ろうとしていたのですが、もう四時近く、明日実が帰ってくる頃合いです。
孫が帰ってきましたら、一緒に夕食の支度をしながら学校の話などを聞きたいと思っておりました。近頃、妙にもの静かな、心がここにないような、遠くを見ているような目をしていることが多いように思われる孫のことが早優香は気になっていたのであります。日頃から心を配っていたつもりではありますが、難しい年頃の女の子のこと、何かしら充分ではないのやもしれません。
間もなくして明日実が帰ってきたような気配がいたしました。帰宅した明日実は、どことなく疲れているようでありました。
「おかえりなさい」
と声をかけてみますと明日実は、
「うん」
と小さく力が抜けたように笑いました。
「お夕飯の用意、手伝ってくれるかしら」
と言ってみますと、
「ごめん、今日ちょっと疲れちゃったんだ」
こちらには目を合わせず明日実は言い、そしてそのまま自室へ行こうとするところを、
「今日、体育あったでしょ、体操服、出しておいてね」
早優香は少しでも孫を引き止めようと声をかけましたが、
「今日は体育休んだの。だから体操服はそのまま学校に置いてきたの」
明日実は静かにそう言うと、自室へ行ってしまいました。
早優香はきょとんといたしました。どうして体育を休んだのか、孫に確かめたい気もしましたが、何となく今はそうしないほうが良いと感じましたので、ひとまずこのことは保留ということにしました。
その後、夕食の支度が出来たと声をかけたときも、明日実は素直にテーブルに着きましたし、食事もきちんと摂りました。少しばかり大人しい印象がありましたが、それは本人も言うように疲れているせいかもしれませんし、思春期の女の子の不安定さなのかもしれない、とそっとしておくことにいたしました。
それから二、三日が経った日のお昼頃のことであります。浜辺さんが早優香に電話を取り次ぎました。
「明日実さんの担任の先生からです」
明日実の担任の先生?
明日実は今、学校にいる時間なのに、先生は一体自分に何の用があるのだろう? 不思議に思いながら電話を受けてみますと、手短な挨拶の後、先生はこんなことを言いました。
ここ最近、明日実さんが体育の授業に出ていない。見学をする場合は保護者の方から一報いただくことになっているが、それもない。本人に聞いてみても何も言わない。これでは何もわからない。それでもう仕方がないのでお祖母様におうかがいしようとお電話させていただきました……。
まったく早優香には寝耳に水でありました。いきなり先生からこんなことを言われて動揺せずにはいられません。どうにか落ち着きを取り戻し、孫が帰ってきたら確認してみます、と言って電話を切りましたが、その後、明日実が帰ってくるまでの時間の長かったことは言うまでもないのであります。その間、早優香はやきもきしてほとんど何も手に付きませんでした。
その日、明日実が帰ってきたのはいつもより少し遅い時間でした。玄関の扉の開く音に早優香は戦慄しました。明日実が帰ってきたら、まずはこうやって声をかけて、こんな風に話を持っていこうと準備していたからであります。
しかし、孫の姿を見るや、その段取りの全ては吹っ飛びました。
明日実が、早優香をというよりは、何もかもを避けてコソコソ自室へ急ごうとしているのがわかったからであります。そして早優香に気づくや、明日実が慌てて何かを自分のうしろに隠すのを見てしまったのであります。
「どうしたのそれは!」
早優香は反射的に叫び、明日実からそれを引ったくりました。
それは明日実の体操服を入れている布製の袋でありました。袋は薄茶色に汚れて干からび、全体的に砂っぽくなっておりました。おそらく水たまりにでも投げ入れられたあと、そのまま放置して乾いた、というところでありましょう。くしゃくしゃの形で固まっておりました。
中の体操服も同様に、めちゃくちゃに丸められ、薄茶色と砂にまみれ、靴で踏みにじったであろう跡もありました。
これは……。早優香は自分が青ざめていくのを感じ、そして絶句しました。
明日実はその光景にいたたまれなくなったのか、うつむき、唇をぎゅっと噛み締め、拳もぐっと指が白むほどに固く握り、その場に硬直しておりました。
「……いじめられてるの?」
早優香がおそるおそる声をかけると、明日実は激しく頭を振って強い否定を見せました。
「じゃあこれは何なの……? なんでこんなことになっているの?」
重ねて尋ねると、明日実は観念したのか、苦しそうに嗚咽しだし、そこに固まったまま、ぽた、ぽたと涙を落とし始めました。
うっく、うっく、と歯を食いしばっているにも関わらず漏れる声がいかにも悔しそうであります。
「いつからなの?」
しかし明日実はそれには答えず、ただただしゃくりあげるばかりでありました。
「お……おじいちゃんや、お、お父さんには言わないで……」
絞り出すように明日実は言いました。
ああ! 何ということだろう! この娘はずっと一人で耐えてきたのだ。今までこらえてきたものが、一気に崩壊したのが手に取るようにわかる!
かくも哀れで痛々しい孫娘の様子に、早優香の胸は潰れる思いであります。
同時に怒りもこみ上げてきました。こんなにもいい子の明日実に対してこんな仕打ちをするなんて、一体どんな子なのか。うちの孫の何が気に入らないというのか。そしてこんな目に遭ってもなお、明日実は加害者をかばおうとしているのだろうか? だとしたら、明日実はなんと優しい子なのだろうと、早優香は憐憫を垂れたのでありました。
「わかったわ、おじいちゃんたちには言わないから、誰に意地悪されてるのか、おばあちゃんには教えてくれる?」
孫の背中をさすりながらそう言うと、いくらか落ち着きを取り戻した明日実は、ぽつりぽつりと話してくれました。
主犯はたぶん、一年上の
学校の昇降口の名前のシールが何度貼り替えても次の日にはズタズタに剥がされていたり、移動教室から戻ってきたら、席にメタメタに骨を折られた明日実の傘が置かれていたりした。でも、それを誰がやったのかは見ていないから分からない。
華道部でやった作品を廊下に展示していたら、後日、自分のだけ花が抜かれていた。
教科書にいつの間にか「死ね死ね死ね」と雑に書かれていたこともあった(これを言ったとき、明日実はまた泣いた)。それも誰がやったのかわからないけど、明日実の体育館シューズがあるとき突然紛失、戸惑っていたら、神谷という女の子が、
「体育館の裏に捨ててあるシューズ、あんたのじゃないの?」
と、くすくす笑いながら言ってきた。そこまで行ってみると、左右がバラバラに打ち捨てられた靴があって、たしかにそれは明日実のものだった。そして靴の紐がいかにも乱雑に切られていた(明日実は呆然となったという)。
一体誰がこんなことを、と思った瞬間、意地悪く目を細めて笑っていた神谷玲と合致した。そうしたら、他のことにも説明がつくように思われた。
例えば昼休みに学校の購買で友達とお金を出し合って買ったおやつを、教室に戻る途中に、待ち伏せしていたかのような玲に会い、「ありがとね、槙原さん」と持っていかれてしまったこと、また、移動教室で廊下を歩いていたら、玲に止められた。玲はニヤニヤしながら明日実のペンケースを取ると、じろじろと無遠慮に明日実を眺めながら、一本のペンを取り出し、何も言えずに萎縮してしまっている明日実とペンを交互に見るや、
「これ、ちょうだいね」
と言って取り上げてしまった。
それは明日実の中学にあがるお祝いに早優香が高級筆記用具メーカーP社に注文した品でありました。
「あれを取られちゃったの!?」
驚いた早優香がつい声を荒げると、明日実は怯え、
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
顎が胸につきそうなほどうなだれて、また大粒の涙をこぼすのでありました。
「いいのいいの、ごめんね、明日実を責めてるんじゃないのよ、びっくりさせちゃったわね」
明日実をなだめ、なんとか続きを促すと、
……だから、下駄箱のシールや傘や活花のことは誰がやったかわからないけど、神谷先輩はきっと関係あると思う、他にも共犯者がいるのかもしれないけど、主犯は神谷先輩だと思う。
「……いつも誰かに監視されてるみたいで、いつどこで何されるか分からないの。最近は友達もなんか私を避けてるっていうか、よそよそしい感じがする」
泣きつかれて呆けた顔で明日実はそう言いました。
「体操服は今日やっと見つかったの……。購買のお菓子とか体育館シューズの紐は自分で買い直して何とか出来たけど、体操服はそうはいかないから、毎日どうしよう、どうしよう、って思ってたの」
早優香は明日実を抱きしめました。
「話してくれてありがとうね。気づいてあげられなくてごめんね」
明日実の身体は弱々しく、頼りなげでありました。
「今日はもう早目にごはんもお風呂も済ませて、おじいちゃんが帰ってくる前に寝ちゃう?」
と尋ねると、明日実はゆっくり頷きました。
胸のうちを少しは吐き出せて、その分軽くなったのでしょうか? その日の夕食時、明日実はぼうっと影が薄くなったかのようでありました。
「さあ、もうお風呂に入っちゃいな」
と声をかけると、明日実はかすかに頷いてから立ち上がり、眉間にしわを寄せ、うついむいたまま言ったのでありました。
「ごめんね、おばあちゃん」
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