第4話 ③

        −3−


 目覚しのアラームが鳴った……。六時半。もうそんな時間……。早優香のしなやかな腕が布団の中から伸び、掴むようにしてアラームを黙らせる。ああ、もう起きなくちゃ。せっかく何だか素敵な夢を見ていたような気がするのに。豪華なドレッサーとか香水、あふれるような沢山の花。せっかく楽しくそういうものを見ていたような気がするのに、ぶち壊し。もうそんな時間なのか……。いまいましいけれど仕方ない。

 早優香はまだ完全に言うことを聞いてくれない寝起きの身体をずるずる引きずるようにしてベッドから這い出すと、よたよたと階段を降り、洗面所の鏡の前に立つ。


 学校は八時半が始業であるし、家から学校までの距離も、そうあるわけではないが、早優香はこの時間に起きる必要があるのであった。

 なんせ、彼女のクセのある髪をいい具合に格好つけるのはなかなかに至難の業で、とにかく時間がかかるのである。


 そんなに毎朝苦労するぐらいなら、いっそ全部三つ編みにでもすればいいのに、と母などは呆れているようであったが、そんなこと出来るはずもない。首を振ればふんわりと弧を描いて広がるこの華やかさが三つ編みに出せるとでも言うのだろうか?


 そういう次第で早優香は今朝も鏡の前に立つ。もはや毎朝の儀式といってよかった。


 この日は夏休みが明けての最初の登校の日であった。休み中、家でくつろいでいるときなどは簡単にまとめておくことも多かったから、本格的に鏡の前での格闘は久しぶりであったが、さすがに時間配分のカンも鈍ってはおらず、早優香は自ら編み出した慣れた手つきでスカーレットスタイルを仕立てあげた。


 自転車登校、本当ならヘルメットの着用が義務付けられていたが、早優香はこれが大きらいであった。今の季節、空気はまだまだ暑く、ヘルメットの中は蒸れるし、何よりも綺麗に整えた髪が台無しになってしまう。なので、学校がほんのすぐそこ、というところになってやっと初めて申し訳程度に頭にヘルメットを乗せる。もちろんこんなことは学校に知られてはいけないことであるが、先生たちも何となく見て見ぬふりをしているのを早優香はうすうす感じていたので、どこか堂々としているようなところはあった。


 セーラー服を身につけて玄関を一歩出れば、夏休みが急に遠いことのように思われた。

 自転車のペダルをぐんと漕ぎ出すや、起きるのがだるかったさっきまでとは打って変わって、友達に会える嬉しさで胸がふくらんだ。

 

 少し顎を上げて行く早優香の、つんとした小さな可愛らしい鼻先が、空気を清々しい軽い緑色に割って行く。自転車の流れに生まれる風にふわふわと髪を揺らし、それを首元で味わいながら、軽やかな緑色に色づいた大気が自分のうしろに流れていくのを意識しながら彼女は颯爽と走りぬける。みんな、おはよう!


 学校の自転車置場に入り、ほんの数分だけかぶる真似をしていたヘルメットを取り、自転車のミラーで髪を整えていると、


「早優ちゃんおはようー!」


 耳に馴染んだ声が背後からやって来た。リコの声である。


「早優ちゃんのその後ろ姿見たら、今日から本当に学校なんだなって実感が今来たわ」

 

小柄なリコが早優香の隣に滑り込んできて、にしゃっと笑った。


「九月ってまだまだ暑いわ。朝からこんなのかぶったら、髪がぐちゃぐちゃになっちゃうわ」

 

早優香もまた髪を揺らしながらヘルメットを指差し、にやっと笑った。


「ほんとに暑い、もう汗ばんでるもん」


「あれ、リコ。髪切ったの?」


 ヘルメットを外したリコの、いつも両耳の下あたりで結んでいた髪が、顎の高さにまで短くなっていた。


「そうなの! 本当はね、思い切ってショートにするつもりで美容院まで行ったんだよ! だけどいざとなったらやっぱり不安になって、こんな中途半端な長さになってしまった……。早優ちゃんは、ショートにしようと思ったことある?」


「えーないない! ショートヘア、可愛いなと思うことはあるけど、やっぱ私はこのスタイルが自分の定番でベストだって思うし、女の子はやっぱりある程度長さがある方が良くない?」 


「まあそうかもねー。だから私も踏ん切りがつかなかったのかも」


 などと話していると、


「早優ちゃん、リコー。おはよー! なんか久しぶりー」


 翠も登校してきた。


「あ、髪の長さがない人が来た」


 リコが笑った。 


「おおー翠ぃ! ほんと、なんか久しぶりー」


 早優香も笑顔で迎えた。


 翠も登校してきて、これで仲良し三人娘が揃った。学校生活はいつもつるんでいる三人組である。

 こういうのも何だけれど、早優香はこの二人からだけでなく、みんなから慕われていた。それは今日もここまでに沢山の声をかけられたことからもうかがい知れる。

 おおかた、この華やかな外見とあちこちでのスピーチというきらきらした活動のおかげなのであろうと早優香は分析していた。慕われるというよりは羨望と言ったほうがいいかもしれない。

 性格も明るくて申し分なく、つまり、彼女は魅力と能力を持つ才色兼備なのだから、みんなの中心になるのも当然のことだという自覚が、無意識的に早優香にはあった。


「ちょっと翠、あんた灼けた? ちょっとじゃない、めちゃくちゃ黒くなってる!」


 もともと背も高くボーイッシュな翠は、日焼けして小麦色、かなり野性味が増していた。


「いやー……部活もあったし、お盆はおばあちゃんちに行っててさー、いとこたちとプールに行きまくってたらこんなんになってさぁ」


「ますます男らしくなったじゃん。早優ちゃんと並ぶとお姫様とボディガードって感じ」


「うるさい」


 リコと翠のやりとりを、早優香は笑いながら聞いていた。そこへ本物の男の子の声がした。


「飯島さん、おはよー」


 声の主はヘルメットを取って軽く頭を振った。飯島は、早優香の苗字であった。飯島早優香。


「速水君……」


 一ヶ月半ぶりに彼の、小さな子供のような笑顔を目にするや、早優香の中で、学校生活がさっきまでよりも鮮やかに色味を伴って蘇ってきた。


「久しぶりだなー元気にしてたか?」


 自転車を停めながら彼が言った。


「夏バテとかしなかったか?」


「うん、私は大丈夫だったよ……速水君こそ、休み中どうしてたの?」


 甘酸っぱい不思議な感覚が早優香を内から突いた。


「おれはもう、部活ばっか。だから学校に来るのは全然久しぶりじゃない。ちくしょう」


 目をぐるっと大きく回し、空をあおいで速水君は苦笑いし、早優香もつられてくすくす笑った。


「もうすぐ試合?」


「そ! 休み中しごかれまくった」


「それは大変だったね、宿題は終わった?」


「まあ何とか形だけはな! ポスターはまだやってないけど」


 彼はそう言って片方の肩にリュックをかけると、サドルを大きく跨いでひらりと降りてきた。男の子らしいその所作は、彼女の胸をきゅっと疼かせた。


 それから彼は、


「じゃ、おれ教室行くわ」


 と、早優香の前に立ちはだかり、彼女の頭をぽんぽんと軽く叩いてから、教室へ続く方へ行ってしまった。

 その間、早優香たち三人娘はただ呆然とそれを見送っていたのであった。やがて、翠がぽつんと沈黙を破った。


「早優ちゃんのボディガードはちゃんと居るよね、私じゃなくてさ」


 リコもぼうっとしたまま、しかししっかりと頷いた。早優香にはリコと翠の様子など、ほとんど目に入っていなかった。早優香はまだ、速水君が行った方をずっと見ていた。

 速水君、背が高くなった……。喉仏が少し見えるようになった……。そして早優香の頭の上には速水君の手の感触が残っていたのであった。


「速水君、やっぱり早優ちゃんのこと好きなのかな」

 

 リコが出し抜けに呟いた。


「あは! まっさかあ!」 


 早優香は慌てて打ち消したが、


「だって速水君、なんか早優ちゃんには優しいと思わない? 早優ちゃんには特に!」


「速水君はぁ、誰にでも優しいの! 私だけってことはない。リコの思い込みだよぉ」


「えええ、そうかなぁ……?」


「そうだよ! 」


 と、表向き一応そうは言ったが、実は早優香自身、確信めいたものを持っていたのであった。


 早優香たちの通う中学は公立校である。早優香は都心にある私立の小学校を卒業したのであるが、「公立校のほうが人間が面白い。自分の足で通うという経験もしてみろ、そして地元をよく見ろ」という祖父と父の意向で、兄同様、早優香もまた中学は公立校に通うことになったのであった。


 飯島家といえば、この辺りで知らぬ者はいない。今の飯島家の礎を作った人物が、薬種問屋を営んでいたのを製薬会社として再スタートしたのが明治の頃。血統的に世渡りの才に長けていたのか、あるいはよほど恵比寿様に気に入られていたのか、幾度かの戦争の下でも隙間をかいくぐるようにして事業を伸ばし、飯島家は家勢を増していった。世渡りの才は政治の方面にも発揮されたとみえ、一族の中には代議士になった者も見受けられる。

 今は早優香の祖父が製薬会社を継いでいるが、他の者とても抜かりはなかった。人助けの場合も、それとは全く反対の場合もあったではあろうが、とにかく、いや増す飯島家の勢いは留まるところを知らず、事業は多方面にも拡大、今では、あの土地も、あそこも、あの施設も……と飯島家の息のかかっていないところはないのではないかと思われる。

 それが早優香の家であった。


 初めは、都会のにぎやかさから遠のいて地元の中学に通うのを渋った早優香であったが、今となってはここに来て良かった、神様ありがとう! お父さんありがとう! と心から思っていた。ここに来なければ、速水君との出会いはなかったのだから。今までの学校には、お金のある家の子はたくさんいたが、あんなに嫌味なく爽やかで、女の子の心を甘くとろかす男の子はいなかった!


「そう言えばさ」


 リコが言った。


「今日から新しい子、来るんじゃなかった? 転校生」


「それってうちらの学年? 何組?」


「えーと確かBだったはず」


「Bか、なぁーんだ……」


 翠がさも残念そうに呟いた。三人娘はA組であった。


「で? 男子? 女子?」


「女子!」


「へーえ。しっかしリコってほんとに情報早いよね」


 早優香は二人のやり取りを軽く耳に引っかけているだけで、まだぼんやりと速水君が行った方ばかり見ていた。もっと自分のこと、夏休み中にあったスピーチコンテストのことを聞いてほしかったな、と焦れながら。


「ねぇ、中庭に行ってみない? あそこからだったら職員室の中も校長室の中も見えるよ。もう転校生の子だって来てるかもしれないよ!」


 好奇心に目を輝かせてリコが提案した。

 ……まぁ速水君と喋るチャンスはまだまだあるからいいか。

 

 三人娘は自転車置場から中庭へ移動した。先生方はほぼ全員、もう出勤しているらしかった。職員室の開け放たれた窓からは先生方の談笑とともに風に乗ったレースのカーテンがゆるやかに舞っていた。


「ほら、あの子じゃない?」


 職員室の隣、校長室の窓も同じようにレースのカーテンが揺れていて、そのせいで見通しはそうよくなかったが、校長先生とB組の担任と、それからその二人と話している女性の姿がちらりと見えた。その横には女の子がいた。黒い長い髪が真っ先に目についた。


「やっぱりそうだよあの子だよ!」


 リコが小さく叫んだ。三人娘は校長先生と職員室の窓の外の、植え込みに身を隠すようにして覗いていたのであった。


「リコ、見つかっちゃうって! そんなに出るな」


 翠がリコの袖を引っ張る。と、その時、校長室の中の女の子がこちらを向いたような気がされた。三人は慌てて身を低くひそめた。

 カーテンがひらひらと舞い遮り、はっきりとはわからなかったが、あの女の子がこちらを見たと思われたのは気のせいかもしれなかった。三人がほっとしてまた首を伸ばした時、風が来て、カーテンを大きく舞い上がらせた。

 そして早優香は、はっきりとその女の子の姿を見たのである。


 ……かぐや姫! 


……強烈に飛び込んできた第一印象はそうであった。心臓がどきっとし、早優香ははっと息を飲んだ。

 長くて黒い髪はつややかにするりと真っ直ぐに腰の辺りまで降りていた。少しうつむき加減の横顔は白く、顎の形が良かった。

 かぐや姫。確かに早優香はそう思ってしまったのであった。まるで何か取り返しのつかないヘマをやってしまったかのように、そう思ってしまったのである。

 これが早優香と彼女の出会いであった。

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