第3話 ②の2

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 そう、この子はたしか…。早優香の記憶の奥の奥から、揺蕩う霧の向こうがちらちらするようにその女の子のことが、やっとのことで薄ぼんやり浮かび上がってまいりました。

 この子はたしかそう、途中から転校してきた子だった。早優香は、この子が転入してきた日の朝、校長室で挨拶をしている姿を中庭から見たことを思い出しました。で、速水君と同じクラスに入ったのよね…。彼女の名前が出てきません。だけど、放課後にこの子と速水君が渡り廊下で喋っていた光景はくっきりと思い出されました。その時、早優香は焦りのような胸のざわめきを感じたものでした。そんな焦れったい気持ちは、生まれて初めてのものでありました。悔しいという、突きあげるような感情が全身を駆け抜け、彼女自身、それはそれは戸惑ったものであります。今になって思えばそれは生まれて初めてのジェラシーというやつで、当時の自分の幼さに早優香は、可愛らしいものだと苦笑をもらしたのでありました。


 同じ頃のもので、スピーチコンテストの様子を収めたものも出てきました。これは、アジアやアフリカの貧困国の女の子たちへの支援の重要性を訴えたもので、結果は準優勝だったと記憶しております。祖母との毎日のお参りは辞めてしまっていたけれど、早優香がすっかり病から抜け出てから祖母が言った言葉はずっと残っておりました。


「早優香は神様に救っていただいた。その命は今度は早優香が誰かを救うためにあると思って過ごしなさい」


 そして、よその国の女の子たちが置かれている過酷な環境について初めて知った時の衝撃といったら、当時の早優香には受け止めきれぬほど大きなものでありました。


 自分がこうして毎日学校に行ったり美味しいものを食べる生活を普通にしている一方で、読み書きすら習得する機会も与えられず、女の子というだけで虐げられたり、幼い年齢で結婚を強いられたり、あげくは売春宿で働かされる女の子たちがいる。それは本当にショッキングなことでありました。自分でも意図せぬうちに涙があふれ、呼吸が上手く出来ませんでした。そして同時に祖母の言葉が蘇り、彼女の中で合致した手応えがあったのでありました。


 ランチ会のお店は、お値段も張るぶん、味には定評のある老舗でありました。瀟洒で柔らかい色合いの洋館は、それでいて若い人がおいそれとは入れぬような敷居の高さと気品を備え、まさに自分に相応しい、と早優香は得心がいきました。ボーイに恭しく席まで案内されますと、早優香の後援会とでも呼ぶにしっくりくる婦人方が勢ぞろいしており、早優香はまたここでも後援会のリーダー格の婦人から、「このたびはおめでとうございます」と満面の笑みとともに大きな花束を受け取りました。大きな拍手がわきおこり、早優香もそれに応えるように婦人方を見渡し、あたかも大統領夫人よろしく豪華に飾り付けられたテーブルの主賓席に着かんとしたその時、細長いテーブルの末端から、眼鏡をかけた小太りの女性が腰を低くして早優香のところへそそくさとやって来ました。


「あの、槙原さん、この度は新作のご出版おめでとうございます。あの、私、以前から槙原さんのファンというか、あの、大変に感銘を受けていまして、あの、本も全部読ませていただいてます。それであの、子供たちもだいぶ手を離れてきましたので、あの、すみれプロジェクトのサポートも始めさせていただいてですね、そのご縁からあの、お声がけいただきまして、今回初めてこういう席に参加させていただきました」


 女性は感激と恐縮から何度もぺこぺこと頭を下げ、早優香の顔もろくに見られないほど緊張しているらしく、しかし早優香はそれを微笑ましく思い、


「まあ、そうでしたのね。そんなに緊張なさらないで。今日は楽しくランチをご一緒しましょうね」


 と、女性の肩に優しく手を添えて言いました。


「はい、あの、嬉しいです。ありがとうございます。槙原さんはお心ばえもお姿も、女性の憧れです」


 女性は真っ赤になってそう言うと、自分の席へ戻っていきました。

 やがて食前酒が運ばれて来ました。早優香はグラスを片手に立ち上がると、ご婦人方を見渡して挨拶をいたしました。


「皆様、本日は私のためにこのような席を設けて下さったこと、心から嬉しく思います。ご承知の通り、この度、私、五冊目の著書を出版させていただくことになりましたが、それもこれも私の活動を支援してくださる皆様があってのことです。幸いにも前の四冊も高い評価を得られておりまして、それらの売上の一部は私のメイン活動、つまり過酷な環境の女の子たちへの支援に回させていただいております。今回の著書も同様にするつもりでおりますので、皆様ぜひ、お友達や周りの方にもお手に取っていただけますようお願い申し上げます。今回の本は、『愛』をテーマに書きました。人のみならず、生けとし生きるものは全て、動物も植物も皆、愛なくしては生きていけません。物質的な栄養だけでなく、愛という目に見えぬエネルギーも、生命には欠くことの出来ないものなんですね。その愛の大源、根源が女性なのです。我々女性は生まれながらにしてこの素晴らしいエネルギーを内包しています。身体の成長と共にこのエネルギーも拡大させて周囲に与えていくのです。しかしながら、この愛のエネルギーを強く大きくしていくためには、やはりそれなりの環境が必要なんです。毎日毎日暴力や飢えにさらされている中に、愛の育つ余地がどこにあるでしょう。そうやって愛を増幅させることが出来ないまま大人になった女の子。このことは彼女だけの不幸ではありません。その分だけ、この地球には愛が、潤いが少なくなるということです。愛の枯渇した母親に育てられた子供はどうなるでしょう。ギスギスした心の、他者の痛みがわからない子になるかもしれません。そんな子供たちが大量に増え、長じたあかつきにはどうでしょうか。おそらく無残な戦争が起こるでしょう。これは大げさでも何でもありません。そのくらいに愛というものは大切なんです。そしてその愛の源となる女の子たちを守ることがいかに大切かということになってきますよね」


 早優香は自分一身に向けられた陶酔したばら色の眼差しの束をぐるりと見渡し、もう一度にっこりして、

「それから、本の売上金とは別に私が個人的に開設している寄付金の口座ですが、予定よりも早く目標金額に達しましたので、その件についても皆様にお礼を申しあげたいと思います。さて、あまり長くなってはお料理が渋滞をおこしてしまいますから、挨拶はこの辺にして乾杯いたしましょう」


 早優香の音頭とともに、少し緊張していた場の空気もほどけ、会食は和やかに始まりました。お皿が進むにつれ、場の話題もだんだんと枝分かれしていき、食後のコーヒーの頃には家族の話題となっておりました。


「槙原さんのお宅ではお孫さんをお預かりしているんですって? よく出来たお嬢ちゃんなんですってねぇ」


 取巻きの婦人の一人が早優香に尋ねました。


「あら、ええ、そうなんですよ」


 急に孫娘のことに話題を振られ、早優香は嬉しさを抑えられません。


「息子の娘なんですけどね。ほらうちの息子、半年前からマレーシアの方へ行っているでしょ。でも孫は環境が変わるのが嫌だったみたいで、私達夫婦が預かることになったの。母親がいないのは不憫だけど、いい娘に育ってくれてて嬉しいわ。素直な子なのよ」


 早優香の顔はぱっと華やぎました。今、中学一年生の明日実あすみは早優香の自慢でありました。明日実は思慮深く、賢い娘であります。まるで当時の早優香を見ているように、ゆるく波打った髪や、似通った顔立ちなどが余計に愛情をかきたてたのかもしれません。本当にあの頃の早優香の面影を残しており、さっき写真を見つけたときに驚いたのはこういうところにも理由があったのでありましょう。違うところといえば、早優香のほうが人目を引く華やかさを持っているということと、早優香は左に泣きぼくろがあるけれど、明日実にはない、というくらいでありましょうか。それ以外は全く重なり、早優香がしていたヘアスタイルも明日実によく似合っておりました。


 もう故人となってずいぶんになりますが、明日実の母親というのは二十年も昔、早優香と同じ、清潔な水の普及を主な目的とした国際協力団体で活動していた人でした。普段はあまり口数の多いほうではないくせに、これと言うものがあると、脇目もふらず一直線という人で、そんな彼女がある日、きらきらした目で早優香をつかまえて言ったのです。


「私はこれから、少し違った活動をやっていきたい。虐げられた女の子たちに光を見せてあげたい。なんてことのない小さな当たり前の幸せをちゃんと守れる暮らしにしてあげたいの。名前ももう考えてて、『すみれプロジェクト』って付けたいの。小さな幸せ、ってすみれの花言葉なんです。水の活動はあの人たちに任せて、早優香さん、協力してもらえませんか? 一緒にやりませんか?」


 ゼロから新しい活動を始めるのは大変なエネルギーを要するものであります。しかし、早優香はこのとき、相手の熱意に圧倒されたと共に、あ、と運命的なものを感じたのであります。


「わかったわ、一緒にやりましょう」


という言葉が自然とこぼれ、さぁ大変だ忙しくなるぞ、とわくわくした心は今も鮮明に残っております。


 後に明日実の母となるこの女性は非常に優秀な人でありました。人の話によく耳を傾け、そして理解する。人の得手を見極める。ですから早優香は彼女に対して、一緒にやりにくいと感じたことはついぞありませんでした。「早優香さん、ありがとうございます。」、「早優香さんのおかけです」などと慕ってくる彼女には並々ならぬ親近感を抱いておりました。そのひとが息子の妻となってくれたのですから、早優香としては感無量でありました。明日実という可愛い娘も授かり、まさに理想のお嫁さんでしたから、彼女を亡くしたときのショックたるや相当なものでした。ちょうど『すみれプロジェクト』の運営がスムーズに行きだした頃のことでしたから、早優香はそこに全力投球することでこの痛手を何とか乗り越え、がむしゃらにやってきたのでありました。


 そして今、『すみれプロジェクト』は、「あ、なんか聞いたことあるかも」と大勢の人にピンと来るほど広く認知されるようになり、あんなに小さく、常に不憫に思っていた明日実も優しい娘に育ってくれて……そんなことを思い出しながら話していると、明日実への愛おしさがまた胸にどっと込み上がってきました。


「学校では華道部に入っているのよ。それでこの前お客様がみえるときに床の間のお花を自分が活ける、て聞かなくて、仕方なくやらせてみたんだけど、これが思ったよりいい出来でねぇ」


 自分でもそうとわかるくらい目尻を下げて言っていると、ふと、そういえば明日実のことで最近少し気になることがあるのを思い出しました。それというのも、このところ、元気がないように思えるのです。あの娘なりの反抗期か、あるいは早優香の気にしすぎでしょうか…。

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